第21話 小さなゆびきり(2)
その後、くるみは近くで買い込んだ食材で、晩ごはんの支度をしてくれた。
彼女の料理をありがたがるつもりで家にあげたわけではないので最初は止めたのだが、なんだかんだ彼女の料理には弱いのでやんわり押し切られてしまったのだ。
メニューは冬らしく温まるものをということで、白葱ときのこのグラタンと野菜をたっぷりと煮込んだミネストローネ。
オーブンでこんがり焼き上がったグラタンの熱々でなめらかなベシャメルソースをいただくのは、これ以上ない至福のひとときだった。とろけるチーズと甘やかな冬の白葱、バターの醸す濃い乳の香りに舌鼓を打つにつき、彼女の料理の腕には惚れ惚れさせられた。
さすがに後片付けは率先してやろうと皿を洗っていると、いつの間にかリビングにくるみの姿がないことに気づく。が、どこに行ったかはすぐに分かった。掃き出し窓のカーテンが半分、開いていたからだ。
大きな暗い硝子には反射で映り込む自分の姿ばかりが見出せるが、よく目をこらすと向こうがわに淡い亜麻色の色彩も見てとれた。
「……この寒いのに」
淹れたての紅茶のカップをふたつ持ってベランダに出ると、ひんやりとした夜風が体の熱を奪い、去っていく。よく見れば、ふわふわと白い雪が、当て所なく降ってきている。
あまり長居せずにすぐ戻ろうと思いつつくるみの眼差しを覗き込むと、彼女は何か考え事をしているらしく、眼下の街明かりをその美しい瞳に鏡のように映していた。
家が坂の上の高台にあることもあり、ベランダからはこの街の夜景が望める。といっても住宅街がほとんどだから〈百万ドルの夜景〉なんて表現は到底できそうにもないが。それでも碧は、星空を映す湖のようなささやかなこの街の景色が好きだった。
くるみの華奢な肩に、持ってきたブランケットをかけてやる。すると彼女は驚いたように、ヘーゼルの瞳をぱちりと瞬かせた。
「女の子は寒がりな人が多いみたいだから。風邪引かれても困るでしょ」
「……紳士なのね」
「そうかな。はい、くるみさんの分の紅茶のカップも」
まだまだ熱く湯気の立つそれを渡すと、くるみはほんの少しだけ顔を綻ばせた。
ふたりの吐いた息が白く染まり、霧のように消えていく。どこか遠くから、誰かの車のクラクションがかすかに聞こえてくる。
窓の外、どこか遠くから、橋りょうを走る電車の音がする。
ふわりと、オレンジの夜灯の下でくるみの肩にかかるブランケットが揺れた。
碧がゆっくりと自分の紅茶をすすれば、光を点滅させながら遠くの夜空をなぞる飛行機を見て、くるみは静かに尋ねた。
「私のお料理……毎日でも食べたいって言葉、嘘じゃない?」
問いかけの意図が読めないまま頷くと、くるみは再び神妙な面持ちでうつむいた。
リビングから差すオレンジの灯りをゆらゆら反射させる紅茶のみなもを眺めて、何かを考えるようにしてから、ぽつりと一言。
「……碧くんが望むなら、考えなくもないかも」
一瞬なんのことか分からず、え、と咄嗟に小さく声が出た。
冗談にして笑うことが出来ないくらい、くるみは厳かに告げる。まるで、一世一代の約束でも申し込むような口調で。
先ほどまで夜景を映していた瞳が宙をすべり、碧を射た。どこまでも澄んだ純真な瞳で、まっすぐに、目と目を合わせる。
今度は、風に舞う雪のようにかろやかな調子で言う。
「碧くんがそう言うなら学校終わりにここにきて、料理してあげる。文字通りの毎日は、難しいかもしれないけれど」
喜びよりも先に戸惑いがきたのは、彼女の意図が分からないからだろう。
毎日でも食べたいという言葉は決して嘘ではないが、かといって本気で言ったわけでもない。ただ叶わぬ望みをぽろりと独り言ちてしまった、ただそれだけなのに。
「一体どういう風の吹き回しで……?」
「碧くん、前に言っていたわよね。今まであまり手料理を食べたことなかったって」
「確かに言ったし、その申し出は願ってもないけど……」
「あなたが満足そうにするのを見るのは吝かじゃないもの。それに私も将来の一人暮らしを見据えて、もっと料理の腕を上げておきたいし。食べてくれる人がいればちょうどいいと思ってたし。見返りを求めないわけじゃなくきちんと対価は要求するつもりだし。それに——」
「ち、ちょっと待って! なにそのとってつけたような理由。っていうか対価って?」
碧が尋ねると、くるみは一瞬ためらうように口許を結んでから、再び烟るベージュの睫毛の傘を持ち上げた。
「料理をしてあげる代わりに、私の知らないことを教えてほしい。って言ったら……碧くんは受けてくれますか。さっきのジョー・ブラッドレーみたいに」
碧がその意味を追及する前に、しゅくしゅくと続ける。
「あなたが前にくれた外国のコインを見て思ったの。私は机の上で勉強ばかりして、この世界のこと何にも見れていないんだなって。だから、その目でいろんなものを見てきた君に、ほんのちょっとだけ憧れた。この学校だって、中学生の時の私からしたらみんな渡り鳥みたいに自由で、楽しそうで、すごくきらきらして見えた。……高校生なんて、まだまだ子供なのにね」
囚われの姫。
以前、彼女は自分でそう言っていた。
そして今も、それに似た意味合いで語られている。
あの時は、その言葉の秘める真なる意味を訊いてもいいのか碧には分からなかった。彼女が語ろうとしない限り無理に訊くべきではないだろうと、今までも意志を尊重して尋ねることはしなかったし、今回もやはり深くは踏み込まない方がいいと判断する。
そもそも、他人の懐を詮索しようとするほど、碧は野暮ではない。聞けるのはせいぜいこの間の図書館でのように、世間話で話せる程度の氷山の一角だ。
だから彼女がなぜそういう境遇にあるのか、ある程度の想像はつくものの、打ち明けらえない限り碧が知ることはない。
——だがそれと、碧がこの話を受けるか否かは別だ。
「……分かった、いいよ。くるみさんの料理がいただける上にご相伴に預かれるなら、僕が教えます。今まで見てきたいろんなことを」
きっとその辺にありふれた日常をふたりは持たなかった。
片や海の向こうで、片や日本の小さな箱庭で。
だから今からでも、きらきらした飴玉のようなそれらを一緒に拾い集めて瓶に詰め、昨日を取り戻すように少しずつ追いかけていこう、と。
要するに、そういう提案をされたのだ。
「知りたいことは全部教える。僕の一存になるけど、もう箱入りだなんて誰にも呼ばせないくらいには、いろんなものを見せたいと思う」
彼女にとっては、自分本位の申し出のつもりなのだろう。だが少なからず碧にとっては、日本で孤独なこちらを気遣ってのこととしか思えなかった。
——本当に世話焼きで、お人好しの妖精姫だ。
だがお人好しだなんて他人事みたいなことを言っていられないとも思う。もし彼女が何も対価となる条件を差し出さず、ただ教えてほしいと縋ってきたところで、碧は迷うことなく受け入れていた。それこそが、己に誇れる唯一の良心だから。
けれど今回は、そんな野暮をするつもりはなかった。
もし彼女の並べた言い分が正しいとしても、それはこうして対等な契約という堅苦しい形でしかくるみは誰かに頼ろうとしないことの証明に他ならない。自分も対価を返すことで、初めて他人からの好意を受け取ろうとする。律儀で、義理堅くて、まっすぐなのに素直じゃない妖精姫。
そんな彼女の可愛らしい矜持を、蔑ろにしたくはなかった。
「本当に……いいの?」
高台を吹く夜風に、くるみの羽織ったブランケットと長い髪が、ぱたぱたとはためく。
こちらを見つめるヘーゼルの色彩はどこまでも切実で、まっすぐで、ひたむきで、碧は言葉が見つからずにいた。
これ以上どんな声をかければいいのか、分からなかった。
だから碧は、海外で暮らしたときの習慣で、咄嗟に右手を差し出した。
が、くるみがきょとん瞳を丸くするのを見て、日本では握手はしないことにすぐ気づく。慌てて引っ込めようとしたとき、その動きを引き止めるように、くるみの小さい手が碧の袖をそっとつまんだ。
静かに見上げて尋ねる。
「ドイツでは、約束する時に握手をするの?」
「……ゆびきりげんまんならあるよ。たぶん、万国共通で」
「日本だけじゃないのね。……またひとつ、新しいことが知れた」
答えると向かいの少女は淡く笑うので、碧はいつしかすっと右手の小指を差し出していた。彼女はそれをみて一瞬だけヘーゼルの瞳を揺らがせる。
くるみが学校であまり他人と近づかないことを思い出し、もしかして嫌だったか、と思ったが、彼女はやがてためらいがちに華奢な小指を差し出してそっと碧の小指に結んできた。
出てこない言葉の代わりに、碧はくるみのひんやりとした小指を、自分のそれをもって優しく力を込める。
——真冬の夜にふと生まれた、小さな結び目。
それはまるで、ふたりの世界が交わりはじめる合図のように思えた。
お読みくださりありがとうございます。
やっと一つ目の目標であるこの関係に落ち着くことができました。
ここからようやく箱スノは本格的に始まっていくつもりです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします☺️




