第209話 人生相談
沢山の人間と一緒に、碧は東京メトロの地下鉄から掃き出され、押されるように乗りこんだエスカレーターで改札のある階へ上る。
ずらりと並ぶ太い柱に見守られるように九段下駅を出て、すっかりクリスマスらしい空気なお行儀のいい街をスマホの地図頼りに進み、マフラーのなかで息を吐きながら辿り着いたトラットリアは、この土地柄では珍しくカジュアルな店構えだった。
皇居のお堀が臨めるらしく、南中高度から落ちてきた光の反射が目に眩しい。犬を連れて来れるようで、優雅なダルメシアンやボルゾイを連れた貴婦人がたのテラステーブルを縫うようにして白木板を横切ろうとしたところで、今日待ち合わせていた人物から声がかかる。
「あ。碧っちおっすおっす」
「よっす颯太——それとお姉さん」
挨拶代わりに右手を掲げる。
颯太と同じ席をかこむように座っているのは、見慣れない人物。
すらりとした体をボーイッシュな格好に包んだ、黒髪にショートウルフの美女だ。
そのひざの上には真っ白なポメラニアンが大人しくお座りしている。
とりあえず立っていても何なので、マフラーだけ外して席にかけつつもう一度、姉貴とやらにぺこりと会釈。
女の人はどこか勝ち気な眉を上げ、にこりと笑った。
「やあ少年。弟がお世話になっています」
*
注文を済ますと、さきに三人ぶんのジンジャーエールが運ばれてきた。
「にしても、まさか二人が知り合いだとはね」
と頬杖をついて言ったのは颯太だ。
ミアもそれに続けて肩をほろほろと揺らす。
「やー私もびっくりよ。まさか横浜で会ったあの時の君が、我が弟と同じクラスだとは」
「僕もそっくりそのまま同じ感想です」
そこにいる好青年の姉——ミアは、以前くるみと横浜にデートしに行った時に思いがけずばったり出会った、彼女の中学時代の先輩。
颯太と以前何気なく喋っていたときに彼がぽろっと姉の名前を出していて、珍しい名前なのと、アイコンのポメラニアンも見覚えがあったので、もしかしたらと思っていた。
友人の姉が、彼女の先輩……。不思議な偶然もあるもんだ。
「姉貴が客としてくるとさ、ここ、連れは二人まで全品二十%OFFなんだよな。結果論だけど今お財布にあんまり余裕ないから助かった」
「私は、仕事終わりは賄いでタダだけどねー。羨ましいか?」
「ミアは黙ってろ」
「あ? それが姉に向かってする態度か?」
「すみませんでした」
始まりかけた姉弟喧嘩は年下の負けであっさり幕を引いた。
もうちょっとがんばれよ、と正直なところ思ったが、姉貴三人いるとなればまぁ……逆らえないんだろうな、と勝手に結論づけて、他人事みたくジンジャーエールをすする。
いざこざめいた応酬は見慣れたぜと言わんばかりに、マロンがきゃんきゃんと吠えて、綿毛の尻尾を振る。
この冬にぴったりな緑と赤の取りあわせのタータンチェックを首に巻きつけて、誇らしそうだ。
もともと今日ここに来たのは、颯太が交わしてきた約束のため。
そう、先月の誕生日に彼が送ってきたLINE——
〈お詫びに今度めし奢らせて! 姉貴のバイトしてるとこのパスタが美味いんだよね〉
という誘いに甘んじたのが本来の今日の予定だった。
でも今は自分なりに収穫し、持って帰りたいものがある。
それがふたりの将来へとつなぐ最後のピースになると、信じながら。
「……にしても不思議なメンバーだね」
「こんなかで明らかに浮いててかつ不思議な人間は、ひとりだけだけどな」
「まあ我が弟よ。そういうことを言うでない。こんな千代田区の立地のいいとこで、誰のおかげで小計五千円以内に収まったと思ってるんだ」
「しれっと計算してるけど、ミアは自分の頼んだのは自分で出せよ」
姉弟の小競りあいを尻目に、へっへとピンクの舌を出して笑うマロンを見る。
ぼーっとしていたら、それに颯太が気づいた。
「どしたん碧っち。うちの子の可愛さにやられたか?」
「いや。もしくるみさん連れてきてたら、喜んでただろうなって思って」
「ふーん? 彼女想いだねー」
ふんふん頷くミアに、碧はやや怪訝な目を遣る。
「彼女って……僕はそこまでの事情を話してないはずですけど」
それには颯太が死んだ目で答えた。
「ごめん碧っち。姉貴が三人いる家じゃ弟に人権はないんだ……」
「つまりは、いろいろ尋問された?」
「思い出しただけでしんどい」
げんなりした風情の颯太に碧はひそかに同情した。
その後を、ミアが複雑そうに笑って引き継ぐ。
「でもくるみちゃんは……どうかな? ここの近く、うちの中学あるから」
「へー。ずいぶんといいとこにあるんですね」
「お嬢様ばかりの学校だからね。ここを出てその交差点を右に曲がってしばらく行くとあるよ。九段下のキャンパス。私がここでバイトしてるのも、卒業生の紹介で」
「そうなんですか」
思えば先ほどから皇居をなぞる往来を、校章をつけた純白のブレザーに切り立ったプリーツスカートの女学生たちが、何人も歩いている。きっとそこの生徒なのだろう。
くるみも中学の頃はこの制服だったのかと考えると、なんだか不思議な気持ちだ。
「守衛さんいるから門の外から見るだけだけど、気になるならあとで行ってみる?」
「いや……やめておきます。本人もいないのになんか悪いし」
「ほお。律儀なんだね。そっかそっか〜。ちゃんと彼氏してんだね〜」
ここで頷くのも気恥ずかしくて水でお茶を濁すと、会話の切れ目にちょうど料理が届き、フォークを渡しながらふと問いかけた。
それこそが、今日碧が二人に一番尋ねたかったことだった。
「ところで話はかわるけれど、二人は進路ってどう決めたの……ですか?」
友人とその姉に同時に問いかけたので妙ちきりんな語尾になったところを、ミアはとくにふれるでもなく頷いた。
「またやぶから棒に……って訳でもないか。今丁度そういう時期だもんね」
「もしかして碧っちが今日、どこか心ここに在らずだったのは、それが理由?」
「……」
返事がないのを肯定と捉えたのか、彼はさわやかに笑った。
「嫌かもしんないけどさ。別に話聞いて相談に乗るくらいはできるからな」
「や。そんなこと思わないよぜんぜん。嫌とかじゃなくて……」
うまい言葉が見つからず、言葉尻をぼやかす。
碧が考えこんでいたのは自分ではなく、くるみのこと。
普段は慎ましく、そうそうわがままを言わない彼女。バイトしている時に会いにきたうえに、あんなに塞ぎこんだ目をされては、いくら彼女の進路に口出しはしないと決めていても、放っておくことはできまい。
しかしながら誰にも言えないのは——むろん話が話だからだ。
親しき中にも礼儀あり。碧にだけこっそり手渡してくれたことを、それも家庭事情を本人が居ないところでべらべら話すなど、どう考えてもする訳にはいかない。
でも彼の親切を突き放せるほどの余裕がないことも、確かで。
「……これは僕の話なんだけど」
だから、そう話をすり替えて語った。
「自分の将来について親の折りあいがつかないとき、どうすればいいんだろうな」
ミアは何かを察したような目をしつつも、碧の聞きたかったことを正確に汲み取る。
「そっか。もう二年生だもんね。行きたい大学とか、ひいてはその後の就きたい仕事のこととかであってる?」
「はい」
「んー……参考にならずで申し訳ないけど、うちはそういうのなかったからなあ」
「そうですか……」
ミアは残念そうに言う。
「今の大学にしたのも、どうしてもここじゃ駄目! っていう理由があった訳でもないし、親にも反対はとくにされなかったんだ。だから言い方悪いけど、何となくなんだよね」
すでに大学受験を乗り越えたひと、しかもくるみと同じ学校で育った人に話を聞けば、少しは打開策を見つける手掛かりになるんじゃないかと思ったが……考えが甘かった。
颯太が補足するように言う。
「俺、姉貴が三人いるって言ったじゃん? 姉弟だから似たようなものに関心持ちそうなもんだけど、みんな見事にばらけてるんだ」
「どんなふうに?」
「一番上の姉は美大進学で日本画専攻。ミアは陸上でいい記録出したから推薦。その下は幼稚園の先生目指して勉強中。そんで末っ子の俺はのんびりテニスのラケット振ってる」
「好きなようにしなさい。その代わりある程度の責任は自分で取りなさい。困ったら私たちに頼ること。それがうちの親の弁ね」
「とはいえ俺もお金の面であんまり迷惑かけたくないから、私大じゃなくて国公立を受験予定だよ」
「なるほど……」
どちらかというと、うちに近い放任主義のようだ。
それも、かなり良識のある信頼関係が成り立っている。
しかしだからと言って、厳格な家にはそれが全くないかと問われれば、素直には頷きたくないのもまた、今の自分の感情で。
颯太がパスタに突き立てたフォークをくるくると回す。
「でも、うちに限らずいろんな家を見ても、束縛するほうが少数派なんじゃないかな。余程のことがない限り心配しつつもなんだかんだ許してくれると思うよ。親って」
「なのかな。そうならいいんだけどな。親の心子知らずって言うけど、そういう親が何を考えてそういう決断に至ったのか、僕にも正直よく分からないから……」
「常識に則って考えれば、普通は子供が心配だからだよね。でも考えようによっちゃ、自分の夢の延長を子供に託しているだとか、周りの評判を気にしてるとか、いろいろあるんじゃないかな。——ああ、碧っちのご両親がそうだって決めつけてる訳じゃないよ?」
こちらに気を遣う颯太に、逆に気を遣ってやることができず、碧は思索に耽った。
くるみの家は日本でも有数の由緒ある家柄。親戚からの評判を理由に、という線は否定できない。
当たり前だが、存在する家庭の数だけ、方針は千差万別に存在する。
理想論で語れば、ミアや碧の親のように子供の考えを最大限尊重するような家であれば、自分たち学生にとってはそれが一番いい。
けれど、こればかりはもう巡りあわせだ。結局のところ子も親も血がつながった他人だし、意見をむりに捩じ曲げられるものでもないから、ある程度の『諦め』は弁えた上でつき合う必要があるのだろう。
とはいえ他人をただ羨ましいと指咥えて見てるだけで行動に移さなければ、自分の望みは叶いっこないし、くるみもそういう人間じゃない。
——だからこそ現実を目の前にして、行き詰まっているのだ。
ミアが言う。
「大人ってうちらとは年季が違うじゃん。視野も広ければ、子供よりも一度に多くのものを鑑みて正解を選べる確率って高い。けどだからって親に結果だけを押しつけられたい訳でもないよね。間違っていても、自分で考えて選ぶっていうプロセスが大事な訳で」
「そうなんですよね……でも親として正しい方向に導く責任もある」
「だからこそ本気で言えない。自分だけに忠実であればわがままでいられるのに。親の気持ちとか貰った恩も、正しく真剣に想像してしまうから」
「それじゃ駄目だと分かっていても」
——堂々巡りだ。
誰もが正しい答えを導き出せないまま、ミアが束の間の沈黙を破った。
「ぜんぜん関係ないけどさ。中学で生徒会長した時にひとつ下の後輩がいて、その子とした会話が妙に印象に残っててね——」
「ちょっと待ってください。これ僕の話ですよ」
ミアはきょとんとして見せた。
「うん。知ってるよ? だから関係ないって」
冷や水を掛けられた心地で、碧は黙って続きを促す。
「その子は私より年下なのにすごく大人びていて、さすが名門校だなあーなんて思ってたんだ。けどその子は『こう在りたい』はあっても『こうなりたい』はなくて。いつか自分の人生で本当の目標を見つけるのが、目標なんだって言ってた」
彼女が今ここでその話をする意図を、碧は静かに考える。
「それがね、今月になって近況聞こうかなって連絡してみたら、ちゃんと目標が見つかったって言ってて。自分のことのように嬉しかったね」
ミアはストローでジンジャーエールの氷をくるりと回しながら、訥々と語る。
「けど……そうなんだよね。自分の進みたい道を見つけられるって本当はすごいことで、それが達成できただけ、きっと昨日の自分よりは確実に成長してるんだよ。だからあとは本気の気持ちをぶつけてみるしかないんじゃないかな。一度話して駄目だったとしたら、まだ君自身そういうところにためらいがあったからだと思うから」
くるみは何かを、ためらっていたのだろうか。
碧との将来になにか気がかりがったのか。あるいは……
ミアが言った。
「大丈夫だよ。きっと」
颯太もまたこちらを穏やかに見つめている。
「……?」
今の相談でまだ、根拠のある結論は出ていない。
なのになぜ、そんな断言ができるのだろう。
その意図を問うようにミアの表情をうかがうと、柔らかく瞳が細まった。
「それは秋矢くんが『彼氏』だからだよ」
これいちおう僕の話です……と、もう一度訂正しようとしていたのに、つい忘れたまま外を見る。
————『彼氏』
自覚するまでもなくこの三ヶ月間就任していたポストは、言葉に表せばたった二文字で。
だけどくるみにとっては、世界に唯ひとりだけの存在……。
彼氏は彼女にとって、一番頼れる存在であるべきなのだ。
ゆえに、その言葉には最後のピースが、隠されている気がした。
*
ゔゔ——とスマホが震える。
〈今から少し時間ある? 行きたいところがあるんだけど〉
届いたメッセージを読んですぐ、大丈夫の返事をした。
かなり真面目だけど結構お気に入りの回です。
読んでくださりありがとうございます!!




