第208話 会えない時間(3)
くるみは曇りかけの格子窓を遠くから覗いて、白い息を吐いた。
——結構お客さんいる?
手も悴むような寒気の底で、そこだけはすとんと切り離された別世界のように、温かなオレンジの光に彩られている。カウンターもテーブルも埋まっており、このしんとした静寂とは関係のない賑わいにみちているのだろうと思わせた。
忙しそう。
そう判断したくるみはカフェバーの玄関扉を押し開けることはなく、そのまま二歩だけ後退ると、心のなかで碧と湊斗にがんばれのエールを送るに留める。
——やっぱり今日は帰ろう。
本当は今日、ここまで来たのは、彼に話を聞いてもらいたかったから。
母に進路を打ち明けたこと、それでいて説得する力が及ばなかったこと、人生に横たわり閉塞させるやるせなさ、そして自分のなかでわだかまる想い——それを思いのままに吐き出したかった。
でも見てのとおり碧はバイトで働いており、夜なので客としての来店も叶わない。
だから今はただ、外から一瞬でも碧の姿が確認できれば、それでよかった。
僅かな逡巡ののちにそのまま踵を返したのだが——からんころんとベルの音が、駅へ歩き出そうとしたこちらを追いぬく。
その後ろから忙しい足音が近づいてきた。
「くるみっ」
どうやら見つかっていたらしい。
「……碧くん」
振り返るとそこに、カフェの制服に帆布のエプロンをして、ほんの少しだけ息を乱した碧がいた。
いつもの嗅ぎ慣れた優しい匂いを上書くように、ふわりとコーヒーの薫り。
「もしかしなくても、わざわざ僕に会いに来てくれた?」
衿の一番上のボタンは外れていて、この気温はさぞ寒かろうと思える。あんまり会話を長引かせて風邪を引かせたくもないので、手短に済ませようと早口で言った。
「ごめんね。お仕事のじゃまをするつもりはぜんぜんなくて」
「そんなことはないけど……外は寒いし店はいる?」
「ううん。もう帰るところだから」
どこか探るような瞳を注いでいた碧だが、ややあって首を振ると、そっかと呟いた。
けれどもちろん今のは、未成年がお酒の席に座るわけにはいかないゆえの言葉の綾だ。せっかく出てきてくれたのに、文字どおりすんなり帰るわけはない。せめてそれ相応の抱擁なりをして、失われたパワーを貰ってからだ。
——この間あったことは……今は言わないほうがいっか。
相談するほどの時間はなくても、少し甘えるくらいならお釣りが来るはず。
念のために誰も見ていないことを確認してから、えいっと碧に抱きつく。
さすがに想像に及ばぬ犯行だったか、自分よりも大きな体は一瞬びくっと震えた。
それからくすくすと、僅かに困ったように揺れる。
「くるみも豪快になったなあ」
おそらく笑ったのだろう。
嫌だという類のものではなくただ急な懐抱が恥ずかしいのだと、くるみには分かる。
「だとしたらきっと碧くんのせいかも」
「何で僕」
「一緒にいると似てくるって言うでしょう? 君の豪快なところが私に移ったの」
「あ。聞いたことある。似た者夫婦ってよく言うよね」
「…………」
「ってなにふるんらよ」
彼の上調子な発言せいで突如生まれた体の熱の責任を取ってもらおうと、発散のために碧の頬をうにーっと引っぱれば、碧は抗議するべく呂律が回らない舌を動かした。
「いえ。碧くんは今日も呑気でなによりって思って」
「なんらその嫌味……はよはなひてくれ」
自分から吹っ掛けておいてなんだが、この様子じゃなぜくるみが照れているかも分からなそうだ。これじゃあ頬伸ばしの刑もまるで意味がない。
ぱっと離すと、代わりに再びぎゅっと抱きつくことで手打ちとした。こうすると碧は喜ぶのと同時に明らかに動揺するので、ちょっぴり困らせたい程度ならよほどいい。
目論見どおりたじろぎを見せた碧は、それでも腕をこちらの体にするりと回した。
バイトで失われた時間を取り戻すように、ゆっくり互いを甘やかすハグ。
しばし芳しいコーヒーの匂いを味わってから、くるみは預け切るように言う。
「私、学校だと大人びてるって思われてるみたいだけれど、本当は子供っぽい自覚はあるの。……でもそのほうが、こうして碧くんに甘えられるからいいのかなって」
それをどういう風に捉えたのか、碧はトーンを落としてささやく。
「ごめん。近頃会える時間少なくて」
「あのね碧くん。悪くないのに謝るのは、相手に失礼なことなのよ? 碧くんは自分のために自分の時間でバイトをしている。そこに堂々とできない理由があるの?」
「……ありません」
「そうでしょう? なんて、たった今お仕事中に会いにきた私が言えたことじゃないけれど、とにかく碧くんは私を優先しすぎないこと。そうしたら私が、あなたの時間を奪うことしかできない自分に嫌気が差しちゃう」
「仰るとおりです」
お説教がすぎたか。碧はしゅんとしてしまうので、くるみはフォローに走る。
「会える時には全力で甘えるし甘やかすから。……ふふ。私の本気の甘やかしはすごいからね?」
「どんなかんじなの?」
「それはご想像にお任せします」
「…………」
「あ。へんなこと考えるのは禁止だからっ!」
わざとらしい奇妙な沈黙に、くるみはあらぬことを想像して耳まで熱くしつつ、ぽこぽこと拳を振る。
自分でも子供っぽい仕草だなとは分かってはいるんだけど、これをすると碧が笑ってくれるので、くるみもそれが見たくて敢えて演じているところがあった。
碧はくるみの慌てっぷりが余程可笑しかったのか、せらせらと陽だまりのように優しく笑う。まるで彼の周りだけが一足早く朝を迎えたように。
その様子を見ていると、まるで自分の心配事までぜんぶ、春を前に積もらない沫雪のように解けていくのを錯覚してしまって。
「あのね。……あのね碧くん。っ——」
思いの丈は思わず、口を衝いて出ようとした。
縋るようにネイビーの前掛けを掴もうとして……しかしやめる。
心配事がなくなるなんて、でもそれはあくまで錯覚だから。
くるみは結局、何も言えなかった。
「……ううん。時間貰っちゃってごめんなさい。私はそろそろ帰るけれど、今日も寒いから碧くんは風邪引かないようにするのよ? 帰ったらきちんと湯船に浸かって温まって疲れもきちんと落とすこと。寝る時間もあまり遅くならないようにね。それから——」
空白を埋める取ってつけたようなお小言の間、碧はこちらをじっと見てから、ほほ笑みを浮かべてこくりと頷いた。
それを見てから名残惜し気に手を振り、そしてくるみは来た道を引き返す。
——……帰ろう。
家族が待つ家へと。
もう大丈夫。碧と話して、僅かにだけど気持ちは落ち着いた。
目を見るだけでぎゅっとハグされたように心が温まる相手はきっと、世界中どこを探しても碧だけだ。そして忙しい彼にとって、自分もそういう存在であれたらどんなにいいか。
——……そういうつよい自分になれたらこの迷いだって、きっとなくなるはず。
せめてそこの角を曲がるまで、いつもの自分であろうと思った。
曇天の空は、今にも雪を降らせそうな表情で、じっとこちらを見下ろしている。




