第207話 会えない時間(2)
やがてバータイムになるが、碧の仕事の多くは昼間と同じだ。
コーヒーやカフェラテの代わりに突き出しやワイングラスを運ぶようになるくらいで、注文を取りに行ったり皿洗いしたりは同じ。ただ、その忙しさの密度が三倍になることだけは忘れちゃいけない。
その日は十八時からの予約がなんと三組もあり、碧はトレーを片手に店内を右から左へばたついていた。
「碧ー瓶ビール出せるー?」
「はい」
湊斗に注文を通され、冷えた褐色の瓶を取り出す。
ボトルオープナーを持ってくるのも手間だったので尻のポケットから十円玉を取り出し、それで手早く開栓。ころころ転がっていく金の王冠を空いた左手で捕まえる。これはビールの国で育った碧の友人なら大抵できるであろう技——つまりお家芸ならぬお国芸だ。ちなみにルカは野外で、ベンチの手すりの角で同じことをやっていた。
丁度見ていたらしい湊斗はカウンターのあちらから目を皿にしていた。
「えっなんそれなんそれ。今度俺にも教えてよ」
「ブレンド一杯な」
「お前もう自分で淹れられるだろ」
突っこみはスルーし、碧は運んだお酒と引替えにトレーに皿を積んで戻ってきた。
「あの卓のお客さん帰ったら一息つくな」
「うん。湊斗もお疲れ」
とはいえまだ夜は浅い。高校生なので遅くても二十二時には帰されるが、それを考えたってあとひと仕事もふた仕事も残っている。考えただけで腰が重い。
こうなると、唯一の拠り所は終業後の賄いの話だ。
「お前今日は賄いなにがいい?」
「んー……逆になにがある?」
「確か洋風おでんが残ってたな。具はトマトとチーズ串があったはず」
「最高じゃん。くるみさんが喜びそう」
「お前なー持ち帰るつもりだったのかよ。まあいいんだけどさ。……ていうか碧はバイトのあと帰ったらどうしてんの? 夜まで働く日だとさすがに楪さんとは会えないだろ?」
やや広義な問いに、碧は逆に尋ね返す。
「どうって?」
「ちゃんとオフモードになれてるのかなって」
ああ、と碧は視線を宙へやった。
「さいきんは千萩……妹の勉強の面倒みてるかな。土日はオンラインで授業をしてやって、平日の夜は時差があるからテストの採点だけ」
湊斗は物珍しそうにふーんと相槌を打った。
「妹ちゃんドイツにいるんだっけ? あっちも受験戦争とかあるんだ?」
「いや、ないよ。千萩は日本の高校受験したいみたいだから、現役の僕がいろいろ手解きをしてるんだ。あっちは塾っていう概念もないし、僕っていう丁度いい先人がいるのなら存分に働かせたほうがいいだろ」
「へぇー。いい兄ちゃんだな」
「なんて偉そうなこと言っておいてだけど、母さんが実働ぶんのお小遣いをくれるようになってるから、僕も助かってるんだ」
妹の世話をするのは当たり前のことだしお小遣いも初めは断ろうと思ったのだが——来年は勉強三昧で今ほど働けないだろうし、大学は足りないぶんは助けてもらうにしても、自分のお金で多少は購いたい。これから同棲や引っ越しなどで物入りになるのは分かっているから、正当な報酬として受け取ることにしたのだ。
くるみの両親に同棲の許しを貰うにも、貯金がないんじゃ話にならない。
今は一円でも多く稼いでおきたいと思っていた。
だが湊斗は、その金銭のくだりに睨みを利かせる。
「けどそれってつまりはバイト掛け持ちみたいなもんじゃん。お小遣い貰ったら教えるのにちゃんと責任持たなきゃいけないだろ。疲れないわけ?」
「言われてみればそうかもだけど、今のところはそんなにハードじゃないから大丈夫」
「愛の力は偉大だな」
「はいはい」
いまさら、友人のからかいにいちいち動じる訳もない。
かわされた湊斗はつまらなそうにしつつ、今度は真剣なトーンで別のところに言及した。
「愛ゆえにだとしてもさ、そんな忙しくしてたら楪さんは寂しがるかもなあ」
「それは……そうかも」
考えれば当たり前のことだが、確かにくるみとはバイトを始めて以来、会える時間は少なしずつ貴重になっている。
彼女から承諾を貰っているとはいえ、誰よりも寂しがりやな彼女には出来るだけそういう思いはさせないようにと、土日は仕事をいれず一緒の時間を設けるようフォローは徹底している。が、そもそもの時間もないのだから、頼みの綱の電話も出来ず、やり取りはLINEのメッセージがメイン。
いくら日本にいる間にくるみと一緒に居られる時間を大事にするためとは言え、こうなれば本末転倒な気がしないでもない——という二律背反のやるせなさを皿洗いで発散させているとその時、さっき伝票を渡したのとは別の卓から呼ばれた。
注文を取りに行こうとしたところで、後ろからとんとんと肩が叩かれる。
「碧。うわさをすれば外」
なんのこっちゃと指を差されたほうに目をやれば、外との温度差で曇った窓の外に、それでも目立つ亜麻色の髪がぼんやりと見てとれた。
見まごうことなく、愛しの彼女だ。
わざわざ会いに来てくれた、と理解したとたん幸福と愛しさが一緒くたになって、ぐっと込み上げてきた。同時に彼女の訪問に心の底から喜んだ自分が、彼女と同じだけの熱量を持っていることに気づき、面映さを覚える。
いちおう許可は貰おうと湊斗を見れば、にっこりと寛大なグッドサインをくれた。
「俺オーダー取るから行ってこいよ」
「うん。さんきゅ」
友人に短い礼を残し、カウンターから颯爽と駆け出した。




