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第206話 会えない時間(1)

「……うん。美味い」


 バータイムへの切り替えもあと僅か、フロアのお客さんも全員捌けた頃。


 コーヒーカップをくるりと揺らした湊斗が、評論家の様相で審議の結果を発表する。


 結果、ここで働き始めてから碧は初めて、自分の淹れたもので湊斗の合格点を貰った。


「僕もやっと一人前か」


 早いもので初出勤からもう二週間。


 昼と夜のメニュー両方もすっかり暗記し、咄嗟の対応はまだだが、いつもの雑務くらいならメモなしでもてきぱき動けるようになってきた。


 しかし慣れてきたとはいえ、まだまだ客に出せるコーヒーを出せるのは先の話だと思っていたので——思わぬ朗報に碧は喜び半分、曖昧な感情半分で返したのだ。


「碧さあ」


 なぜか残念そうに眉を下げて、湊斗が言う。


「自分で味見してなんとも思わないの?」


 どういう回答を期待しているのかは知らないが、残念ながらきっと、湊斗の求める答えを持ってはいない。碧の嗜好については、湊斗はこの日本に限れば、くるみの次の次の次くらいに詳しいはずだ。


「ミルクと砂糖いれてるからかな。湊斗のはうまいけど、僕のこれは別にふつうのコーヒーだなって思う」


「こんなにブレンドとか焙煎に拘ってるのに……」


 湊斗はおおげさに嘆いてから、持っていたカップをこちらに押しつけてきた。


「試しにブラックでのんでみ」


「えー……」


「いいから」


 ブラックは苦いので正直苦手だ。


 昔、父親のマグカップと取り間違えた哀しい事故以来、角砂糖とは友達なのである。


 だが子供っぽいと言う勿れ。世界でもコーヒーは甘くするのが常識。そのままを好むのはどこを探したって日本人くらいなのだ。


 そんな子供じみた言い訳をする従業員がカフェで働くなどちゃんちゃら可笑しい話だが、自分が本当に戦力になるのは夜の時間。なので、大きな問題はないはず。


 それはそれとして湊斗はこのまま逃がしてくれそうにないのだが。


「どうしてもですか」


「ここでの今後のやり易さに関わってくると言ったら?」


 諦めてほんの少しだけ、舐めるように味見をする。


 眉をしかめる覚悟はしていたのだが結論、代わりに目が丸くなった。


 身構えていたのも嘘のように、薫りがすんなりと体を突き抜けていく。


「……あれ? うまい。コーヒーじゃないみたいだ」


 戸惑いつつも二、三口——さらには一気に呷り、カップはすぐに空になった。


 全く苦くない。焦げたような風味もない。どころか甘酸っぱいフルーツや花の蜜がはいっているような複雑な芳香が、舌の上にあざやかに広がり、長く続く。


 自分の中でコーヒーという概念ごと、がらっとひっくり返ってしまったようだ。


「だろ?」


 湊斗は誇らしげに、あるいは安堵したように言った。


「コーヒーじゃないみたいってのは、淹れ手に対しての最大の賛辞だ」


「つまり僕が上達したってことか」


「概ねそうだ」


「でもたった二週間でそう思えたのは、湊斗の指導が上手いからじゃないか?」


「まあそれもあるな」


 二人してぷっと吹き出した。


 まさかあれほど苦手だったのを克服したのが自分の淹れた一杯だったなど、そんな話、誰が信じようか。味覚も大人になるもんだ。


 湊斗はサイフォンを片づけながらしみじみと語った。


「お前初めて俺のコーヒー出した時、砂糖いれてたけどそれでも、うまいって言ってくれたじゃん。正直、俺が家の手伝いやめなかったのはそれが嬉しかったからだよ。余計なものをなにもいれない本当の味を知ってもらえて……やっと報われた気分だ」


「そんなことあったっけ?」


「ほんとは覚えてるくせにー」


「本当に知らない」


「またまたー」


 湊斗が肘で突ついてくる。かなりうざったい。


 仕返しを試みようと裏拳を持ち上げると、そのときバックヤードからの扉が十センチほど開いた。


 そこから腕だけが伸びてきてちょいちょいと手招きをする。


 もちろん正体はここに住み着いた幽霊ではなく、我らがかずささん——仕事中はマスターと呼ぶように言われている——だ。限定メニューの考案やら諸々の計算などで忙しく、やることが盛りだくさんな彼はこの時間まではずっと裏で、パソコンと睨めっこしていたらしい。


「あー秋くーん? ちょっとこっち来れる?」


「はい。今」


 珈琲豆の缶を棚に戻してから、かずさが引っこんだ扉の後を追ってフロアを出る。


 すると白い封筒を、卒業式の証書授与のように掲げた彼が待っていた。


 しかも謎にサンタクロースの帽子をかぶっている。お疲れ気味な表情と相俟って、実に十二月に働きすぎた白ひげおじさんのリアルな仕事風景といったかんじだ。


 あるいは、親戚の子供のためにむりやり着せられた哀しいおじさんみたい——と言うと怒られそうだから、黙っておこう。


「……なんですかその格好」


「もういくつ寝るとクリスマスだからね。さてサンタさんから、ここ半月がんばった秋くんに、お給料を進呈しまーす」


「お。おー。急ですね」


「びっくりさせようと思ってね。今時手渡しでごめんねー」


 まるで自分の初任給を思い出しているかのように、にこにこと目を細めながら渡してくるので、こちらも思わず衿を正してから受領する。


 家族経営の小さな喫茶だけあって、賃金は締日と同時に支払われるとは、事前に聞いていた。ここの従業員になってまだ二週間と少しなのだが、それでも八日ほどは働いたので、それ相応の金額が封筒には収められていた。


 かずさはニコニコと腕を組む。


「それで彼女さんにプレゼント買ってやるんだろう?」


 思わず目をやると、ほらクリスマス、とかずさが言った。


「あー……いちおう彼女とは、今年はアドベントにしようって取り決めしてたんです」


「え? なに? 弁当? ごめんおじちゃん横文字分かんないんだ」


「要するにクリスマスの当日にプレゼントを渡しあうんじゃなくて、その二週間前から毎日ちょっとしたお菓子とかを贈りあうんです」


 記憶を辿るは、ツリーを出した翌週のこと。


 手編みのマフラーをくれたくるみのことだから、碧の為ならまたプレゼントに手間暇かけて貴重な時間を削ってしまいかねない。かと言って何もあげないというのも味気ないので、議論の末この方法が採用されたのだ。


 さっそく、陽気なクリスマスソングが流れる近場の地下街を訪問した二人は、予算の決定と、そして一時間後にここに集合という取り決めののち、解散してお菓子を買い集め。帰宅後は十四の小包に連番の数字を振り、そこに購入品を封じた。


「毎日何が出るかなーってたのしみですよ。ちなみに今日はチョコ鉛筆が出ました。勉強がんばれって意味もあると思うんですけどやっぱり糖分はありがた……ってマスター?」


 気づけばかずさは、ひざから崩れ落ちていた。


「尊い」


「は?」


「いや……おじちゃん眩しすぎて目がつぶれそう」


「マスター!!」


「いやー若いっていいねー。そんで彼女ちゃんと一緒に住むんでしょ? いやー人生謳歌しすぎでこっちまで元気貰っちゃうよ」


「そ……そうですか」


「俺も若い頃はモテてたんだけどなあ。もうすっかり歳とったもんなあ」


 上機嫌なかずさがポケットから煙草の箱をナチュラルな動作で取り出す。


 思わず手仕草を見詰めていると、かずさもその視線にあっと気づいた。


「……」


「…………」


「………………今度マスターさんにはココアシガレット買ってきてあげますよ」


 ややあって煙草の箱は、ポケットへ戻っていった。


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