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第205話 親子の正解(2)


 雑誌に載っているペントハウスの写真から、調度品をそっくりそのまま持ってきたような、モデルルームさながらのダイニング。


 高台に立つ家だから眺望がよく、大きな窓からは光る真珠粒の群れのような東京の昼景が、はっきり見渡せる。


 どこかの国から輸入した豪奢なつくりの椅子も、一辺に八人掛けができる長いテーブルも、家族四人が長く住んでいたわりに傷が少ないのは——だんらんの時間が少ないというこの家の実情を物語っているようだった。


 母もくるみも何も言わないまま、決められた自分の席へ座る。


「温かいうちにいただきましょうか」


 こちらに気を遣うでもなく、母がいつもと同じ調子で言った。


 娘からの一生に一度の大きな相談事など、もう終わったものと言わんばかりの様子で、書斎のデスクから持ち出してきた何かの本に目を落としている。


 その余裕は、くるみからなけなしの自信を奪うには十分だった。


「……いただきます」


 銀のナイフとフォークを手にして、それから会話のない食事が始まった。


 余白のある皿に並ぶのは、いんげん豆と貝柱のテリーヌ、有機野菜のポタージュと、焼いた白身魚のフィレにブールソースをかけたもの、温かなブランパン——。


 完璧な栄養計算に基づき、ホテルで順番に出されるようなそれらを、音を立てず静かに口に運んでいく。


 母親は家事を全て任せきりなので、くるみは母の味を知らない。子供の頃、他の家にはお手伝いさんがいないと知った時には驚いたものだ。くるみにとっては、上枝の出すこれらが、一番初めに覚えた〈家庭の味〉だった。


 母の出す注文はこんなかんじで、いつも洋物。上枝の腕の見せどころ且つくるみのこよなく愛する和のものは、ほとんど出ない。


 健康志向なところはくるみと同じだが、そこに上流階級としての格式ばった堅苦しさを加えたのが、母親の好みだった。あらゆるものに対し〈こうあるべき〉という考えが根っこに染みついているのだ。


 でも、それでも。


「——お母様」


 まだどうしてもこのまま諦めきれない。


 そう思ったくるみは、せめて母親を少しでも理解しようと、対話を試みた。


「私の決めた大学がだめというのはなぜ? 理由があるのなら……教えてほしい」


「前にも伝えたとおり。お母さんはあなたにはお兄ちゃんと同じ大学に行ってほしいと思っているの」


「……それはどうして」


「そのほうがくるみが幸せになれるからよ」


 迷いのない断言だった。


「お兄ちゃんを見れば分かるでしょう? いい成績を修めていい大学へ進学して、お父さんの会社で順調にキャリアを積んで。それはあの大学を出たから成し得たことよ」


 さっきくるみが展開した説明をにべもなく取り払うような回答が続き、唖然とした。


「それは……お兄様の話で、私は違うわ……」


 そしてくるみには、母のような迷いのない断言はできなかった。


 なぜなら今までも——親の言うことはいつだって必ず、正しかったから。


 一本道のレールを辿れば、挫折を味わうことも大きな失敗をすることもなく、確かな成功が約束される。


 当たり前だがくるみにとって大学受験は人生初めてで、身をもって味わったこともないことに自信を持って説得するという感覚が、よく分からない。


 ましてや数々の学生の行く末を見守ってきた指導者の座に就く母が反対しているのだ。


「いいこと、くるみ。あなたは優秀な上に努力もできる。それも生まれ持った立派な才能だわ。けれど才はただ放っておいたんじゃ決して咲かないのよ。どんな偉大なピアニストだって鍵盤にふれる事すらなく育っていたら、全く違った別の運命を辿っているでしょうね。それもまた一つの幸せと呼ぶのは、お母さんは間違っていると思うわ」


「…………」


 確かに、母の言うようなそんな人達は自分たちの目に文字どおり見えないだけで、ごまんと存在しておかしくない。


 くるみと帆高が品行方正で器量のいい兄妹として育ったのは、前提に自分たちの努力はあれど、あくまで前提として、父と母が数え切れないほどの習い事や私立の名門学校に通わせ、お金をかけて、天塩にかけて育ててくれたから。


 誰かの喉から手が出るほどに、恵まれている境遇でもあるのだ。自覚と感謝は持っていたいし、それに対し言い返すのは親不孝な気がした。


 だから、違う角度から一矢報いることはできないかと、考えに考えてようやく言葉を捻り出す。


「……でも、高校進学のときは私が柏ヶ丘がいいって言って、お母様は許してくれた。それは私の将来を案じつつも、なるべく希望は叶えてあげたいって思ったからじゃない?」


 父に味方をしてくれるよう依頼し、家を空けっぱなしで娘に引け目があるからか父はすんなり協力。その時は、両親の長い議論の末に初めてくるみの希望が通ったのだ。


 誰かを介したその一回きりだったけれど——母は話を聞いてくれた。


 だから大学のことも、同様に分かってもらえるんじゃないか。


 しかしそんな淡い希望もすぐに破れる事となる。


「高校も大事ではあるけれど、あくまで中学の延長でしょう。柏ヶ丘が進学校なのは認めているし、お父さんまで味方につけられて、あれだけ()()で言われたら譲歩くらいはするわよ。……ただ、大学は話が別。学歴はあなたが思う以上に重要なものなの。だからそこは譲れません」


「そんな……私は今だって本気で」


「教院を志望する理由だって聞いたところ、まだはっきりとしたやりたい仕事は見つかってないのでしょう? ならなおさら、大学は堅実に目指せる限りの一番上を志すべきだわ。選択肢の多寡に関わりますもの」


 正直、それは言及されるとは思っていたが、いざ突かれると正鵠を射るものだった。


 くるみには碧のように、はっきり言葉に出来る目標はない。


 でも自分の意志で大学を決めるというのが、子供時代から言うことに従うばかりだったくるみにとっては何より重要で、意義があることで。


 それを伝えたくとも、舌がもつれたように、うまく言葉になってくれない。


 母は平坦たる論調を崩さず、眉をぴくりとも動かさず続けた。


「お母さんたちは、大人になってから何かしたいことが見つかった時に『子供の頃からああしておけばよかった』って後悔してほしくないの。それは大学も同じよ。将来の選択を狭めない今の一番の進学先がそこ。分かってくれるわね?」


「……」


 気づけば、ナイフとフォークを皿のはしっこに横たえていた。


 口を固く結んでいると、母はふうと短く息を吐く。


 言い募る説明に、今度は気がかりを滲ませ、駄目押しの反対を続けた。


「仮に百歩譲ったとして、その大学だとここから通うのは少し遠いでしょう。かといってくるみに一人暮らしをさせるのなんか……それこそお母さんは反対よ」


「……でもそんなこと言ってたら、私はいつまでもこの家から独り立ちができないわ」


「何もずっとここに居なさいと言っているわけじゃないのよ。一人暮らしは大学を出てからでも遅くはないでしょう?」


「けれど自分のことは自分が責任を持って幸せにしたいって思って……」


「じゃああなたの言う『幸せ』がなにかを、お母さんに今教えられる?」


「っ」


 口を噤むくるみをじっと見てから、母もまたカトラリーを皿に横たわらせる。


 諭すような語調で、続ける。


「……お相手にと分家の人を紹介してもらったのも、将来くるみに苦労させないような条件のいい人の確約を今のうちにしておくことで、多忙な時期に余計な心配事を抱えずに済むと考えたからです。お父さんもお母さんも、くるみが悪い男の人に引っかからないかって心配なのよ。ずっと女子校だったから世間知らずでしょうに」


 そんな風に育てたのはお母様なのに……と思ったが、今言ったところで寄り道の口論になるだけだと判断し、黙りこくる。


 自分が世間知らずの箱入り娘なのは間違いない事実だし、両親がそういうふうに大事にしてくれたからこそ、今まで何一つ危ない目にも遭わずに済んだのもまた事実だから。


 しかし他に何か自分に言えることを探そうとも、紙吹雪が風に吹かれて散らばったみたいに、考えはぜんぶばらばらになっている。


 それらを必死にかき集める思いで、くるみは二、三度口を開閉させると、やっとの思いで二の句を継ごうとし——結局言葉はなにも見つからないまま、静かに席を立った。


「ごちそうさまでした」


 ダイニングを出る直前、最後にこれだけと決めて、問いかける。


「お母様は自分でケーキを焼いたこととかは、ない?」


「ケーキ?」


「その……学校のお友達がたまに、家族で一緒にケーキを焼くって言ってたから……」


 冷静になればただ聞き返されただけなのに、くるみは自分が悪いことをしているかのように、言い訳がましく理由をつけ足す。


「別にわがままを言うつもりはなくて……ただお母様の手料理、一度でいいからたべてみたいなって思っただけで……」


「——ケーキね」


 母は、まるで初めて知る外国の言葉のように、もう一度ぼんやりとそれを呟いた。


「自分でなんて……考えたこともなかったわ。そもそも料理のことも。そういう家事に時間を取られないように、お手伝いさんとして上枝さんを雇っているんですもの」


 それは嘘偽りない本心なのだろう。決してくるみに対する詭謀ではないはずだ。


 ただ……信じたくはなかった。


 もしそうだとしたら、自分と母には埋めがたい溝があることの証明となるのだから。


 そこには大きな価値観の相剋がある。仕事ばかりを追い求める成果主義の母にとっては料理も、そこから生まれる暮らしも、重きをおくべきでないものだと。


 逃げるようにダイニングをあとにした。


 ばたばたと名家の娘に相応しくない荒っぽい足音を立て、階段をかけのぼる。


 自分だけの空間に戻ったくるみは、ベッドに身を投げ出すやいなや、そこにいるうさぎを抱き締めた。


 昔、誕生日に親からのプレゼントとして貰ったはずのテディベアは、何年も見ていない。


 だからこれを代わりにっていうつもりはないけれど、碧のくれたこの子をこうやってひざに抱えていると、小さかった頃の自分が、そのがんばりが報われる気がした。


 黒いぼたんのつぶらな瞳。ぽってりとした体にふかふかの毛並み。柔らかなリボンのように垂れ下がった長い耳。


 片想いの時はいつだってこの子に、伝えられない彼への想いを夜ごと語った。そうすると不思議といい夢を見られた。恋してるんだなあって嬉しくて……明日が来るのが待ち遠しくなった。ホワイトデーの花束もドライフラワーにして壁に立てかけてある。大事な宝物だ。


「あおくん……」


 いつでも何度でも助けに来てくれた、自分だけのパートナー。


 きっと電話をすれば忙しい時間を縫ってでも飛んできてくれるだろう。


 でも今のくるみは、大好きな彼と会うのを(おそ)れている。


 今日、くるみは自分に対し深く失望してしまった。


 母親を説得することすらできない自分に。折れてしまったちっぽけな矜持に。


 いつだったか、歩道橋で彼から貰った大事な言葉を思い出す。



 ——くるみさんが、くるみさんでいてくれたことが嬉しかったから。

 ——こんなにも綺麗に真っ直ぐに育ってくれたことが……



 その時に碧が言ってくれた自分は、きっと今の自分とは違う。


 彼が愛した〈くるみで在り続けようとするくるみ〉なんかは居ない。


 ここにいるのは、諦めて逃げ出した、弱くて引っ込み思案な自分だけだ。


 胎児のように丸くなり、うさぎのぬいぐるみを腕いっぱいに懐抱する。


 離さぬように抱き寄せていく。



 ——こうなった自分も、碧はかわらず好きで居続けてくれる?

 ——母の前じゃ為す術もない自分を、それでも格好いいと言ってくれる?



 自問自答するも、返ってきた自分の解はひどく冷めていた。



 ——私はもともとこうだった。一族の閨閥から今日までずっと逃げ続けたじゃない。

 ——綺麗で真っ直ぐな私なんてきっと、初めからいなかった……。


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