第204話 親子の正解(1)
つばめが先日の学祭をきっかけに、ぶじに湊斗との恋を成就させた。
碧は自分の過去を見つめ直し、琥珀ともう一度話をした。
誕生日のみならず、その再会で一歩確実に大人になった彼は、大学のことを考えてくるみへ同棲の提案までしてくれた。自分のためだなんて言ってるけれど、きっと二人暮らしのためにバイトまで始めて。
——……みんな、前に進んでいる。
たとえ現実とすれ違っていても最後には自分の幸せを自分で掴みにいっている。
取り残されないよう、きっと、私も————
〈母と進路の話をする〉
そんな今までで一番難しいクエストを持って帰ってきたくるみは、翌日の午前中に少しばかり外出し、それからお昼前に戻ってきた。
玄関の鍵を開け、両開きの扉の右だけを引き、家へ身をすべらせる。
それだけで、身を切るような外の寒気から逃れられ、くるみはふぅと小さく息を吐いた。
玄関からつながるシューズクロークへ赴くと、母の普段づかいする黒いエナメルのピンヒールだけが、一番手前の棚に並んでいる。
今日この家にいるのは自分と母だけだ。
兄の帆高は神戸に引っ越してしまったので、今ここに住んでいるのは三人だけ。
実業家の父は忙しい。
国内でいくつものホテルを所有する彼は、祖父の代で始まったそれらの経営を譲り受けて、手腕を発揮。今は事業拡大を視野にいれて、視察のためあちこちを飛び回っている。
そして忙しいのはもちろん、大学教授の母も言わずもがな。
仕事は大学での講義や指導だけじゃなくて、地方の講演会での登壇、新聞への寄稿や自著の執筆など……家にいたとしても大半の時間は書斎にこもりきり。
これはくるみにとっては当たり前のことなのだが——両親は家を空けがちだ。
帰宅は大抵は街が寝静まる頃か、あるいは帰ってこない日もままある。家庭を持つ上枝も、さすがに遅くまではいられず夕方には契約の時間を終えてしまう。それに彼女にも休みは必要だし、毎日来れるわけでもない。
だからくるみは、ひとりでいることによく慣れていた。
それでも門限は決められているので、深夜まで外をほっつき歩くなどもってのほか。娘にやや甘い父しか家にいない日は、そこも大目に見てこっそり二十時すぎまで延長してもらえるのだが、母だとそうもいかない。
本当は毎日でも碧のマンションに居たいのに、この習慣が始まってから今日に至るまで、週に何日かの訪問しか叶っていないのは、それが理由だった。
ホワイトブーツのファスナーを下げ、重たいムートンコートを肩から下ろすと、ダイニングのほうからかすかに扉の閉まる音がする。
姿を現したのは、帰り支度をした家事代行の上枝だ。
くるみの帰宅を知るにつけ、深く腰を折る。
「おかえりなさいませ。お嬢様」
「お疲れ様です。上枝さん。ただいま帰りました」
「今日は旦那様がご不在ですので、食事のほうはおふたりぶんを、ダイニングにお出ししております。本日はこれにてお暇させていただきます」
「分かりました。いつもありがとうございます」
上枝が玄関を出るのをお辞儀をして見送ってから、一度サニタリーに寄る。
外の北風で乱れた髪の毛をブラシでざっと整えたりしてから、手にしていた鞄の中身を念のために確認し、うんと頷くと、勇み足を抑えるようにしずしずと書斎へ——。
こんこんこんと三回ノックをし、返事を待つ。
「どうぞ」
重厚な扉を押し開けたとたん母から、落ち着いているがよくとおる挨拶が飛んできて。
「おかえりなさい。くるみ」
「……ただいま。お母様」
くるみはただそれだけを返した。
切り花の密かな香りがする。ちらりと見やった壁には、母や兄の出身大学の卒業証書やらくるみの表彰された時の賞やらがおびただしい数、額にはいって僅かな乱れもなく整然と飾られてある。
年中多忙な母——宮胡は、キーボードの打鍵を止めることも、こちらを見ることもなく、ただノートパソコンの右下の時刻表示へちらりと目を落とす。
「もうこんな時間。上枝さんのお料理が出ている時間ね。ところでくるみはどこに行ってたの?」
「ちょっと買い物に……」
「そう。分かっているとは思うけれど勉強時間をおろそかにしちゃだめよ。私はもうすぐ行くからさきにダイニングにいてちょうだい。上枝さんにも伝えておいて」
それで話は終わりと言わんばかりに、ディスプレイを見て眉間に深いしわを刻むと、それきりまた静かに打鍵の音を響かせる。
全てを跳ね除けそうなそれに怯みそうになってしまうがなんとか、喉から絞り出した。
「あの……お母様。話があるんだけど……」
「話? 何かしら?」
母はそこでようやく初めてまともに、こちらを見る。
すでに兄——社会人の帆高を息子に持つ彼女は、くるみの同級生の両親よりも、年代が少しばかり上だろう。しかし歳を重ねることによる疲れを始めとした悪い印象は一切なく、あるのは昔から衰えない美しさと、年々より鋭くなっている貫禄。
昔から親戚に言われてきたとおり、くるみは母とはあまり似ていない。
仕立てのいいスーツの上には、ダークブラウンの髪が波打つように肩の下まで垂れている。怜悧な眼差しにいかにもやり手な仕事のできる人という様相は、きっとくるみより少し大人なはずの大学生さえも、気後れさせているのだろう。
実の親だというのに思わず怖気づいてしまうが、なんとか言葉を並べていく。
「進路のことなんだけど。卒業後の。大学のこと」
幸いにも傾聴するつもりはあるようで、母はノートパソコンをそっと閉じた。
「行きたいところがあるの?」
「はい。わたし……」
一瞬ためらってから、小さく告げる。
「教院大学に行きたいんです」
とりあえず、希望はちゃんと言えた。
どきどきしながら返答を待つと、母は深沈たる表情を崩さず、質問を重ねる。
「それはどうして?」
もちろん、その問いが来ることは想定済みだ。
その為の理論武装もある。
「これを見てほしいの」
くるみは左肩に提げていたトートバッグから、さきほど書店で購入した、分厚い大学案内百科を取り出すと、あらかじめふせんを貼っていたページを開いた。
キャンパスの情報や在籍学生数から始まり、ここ数年の入試方式といった事細かなデータまでもが、そこには載っていた。
「わたしの志望する学部だと、そこにしかない授業があったり、あとは専攻が——」
くるみはきちんと伝わるように、つとめて順序立てて志望理由を述べた。
感情に訴えてなんとかなる相手じゃないことくらい、百も承知だ。自分の展開する論理に正当な筋がとおっていることを一文ごとに点検しながら、慎重に話していく。
ひととおり喋り終わると、また鼓動に早鐘を打たせながら、祈るように母を見た。
母は熟考するときのくせでおとがいに指を当てながら、じっと大学概要の欄に視線を落としている。
その目には厳しさも、かといって甘さもない。
何を考えているか分からない目から、数秒後に差し出されるであろう回答のほんの僅かな尻尾だけでも探そうと様子を伺っていると、母は小さく嘆息して椅子にもたれた。
「そう。いろいろ調べたのね。それはいいことだわ。……でも」
——続く言葉が読めてしまう。
くるみは、身構えるようにぎゅっとスカートの裾を握った。
「分かってちょうだい。前から言ったとおり。くるみには他に行ってほしい大学があるの」
この返答は、ある程度は予期していた。
それでもやはり言葉を失ってしまうくるみをじっと見詰め、母はそっと息を落とす。
「……お昼にしましょうか」
ぎし、とリクライニングチェアを鳴らし、書斎を出ようとする。
まだ説得の余地はある。理論武装は呆気なく崩されたが、手立ては考えればいい。
——大丈夫。だいじょうぶ……。
そう自分に言い聞かせれば、すぅっと感情が凪いでいく。
うまく交渉できる自分を信じて、くるみは母の後をついていった。




