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第203話 バイトとコーヒー(3)



「秋くん。初日だしそろそろ上がっていいよ。お疲れさま」


 と声が掛けられたのは、いつも見ている土曜の音楽番組が丁度始まる時間だった。


 初日からがっつりと七時間働いた——とはいえ半分は見て勉強したり指導してもらったりだったのだが——碧は、一日の終わりを自覚したとたん、どっと疲れが押し寄せることに気づいた。


 着替えたりタイムカードを押したりして帰路に着いた頃には、時刻は夜の八時すぎ。


 まだ体力は残っているけれど気持ちはくたくただったので、行きは節約のために歩いてきた道を、帰りは電車で引き返すことにした。


「……紬さんもああいう話が好きなタイプだったとは……」


 湊斗が余計なことを話したせいで、結局碧の恋愛事情はあの三人の間での話の種、あるいは恰好の的になってしまっていて、あの後も主にかずさと紬により、いろんなことを根掘り葉掘り訊かれた。


 とくに碧がメロメロになって溺愛しているとうわさのくるみに好奇心の矛先が向けられており、その人物像をどう伝えようものかと改めて難儀。交渉に交渉を重ねた結果、そのうち連れてくる約束を取りつけられ、その場は丸く収まった。


 ——くるみを連れていけば『こんな可愛い子が秋くんの彼女!?』と驚かれるのは目に見えているので、正直おっくうなのだが……決まってしまったものはしょうがない。


 やがて電車が最寄りに停車する。駅から家までの道は目を瞑っていても歩いて帰れるくらいなので、考え事をしていても気づけば玄関についていた。


 静かな夜の気配に包まれているマンションを上がり、家の鍵を取り出す。


 さすがに来てないか、来てたとしてももう帰ってるだろうな、と施錠を解いて扉を引くと、ぱたぱたとスリッパのかろやかな足音と共に、愛しの恋人が姿を現した。


「おかえりなさい。碧く——」


 ポニーテールがさらりと揺れ動き、それからその主人がぴたりと動きを止めた。


「ただいま……どうしたの?」


「だってその髪」


 どうやら碧の見慣れない格好に驚いてしまったらしい。


「バイトの時はこれでいこうかなと思ってて。ヘンだった?」


「……ううん。それも格好いいなって」


 つい数時間前の、湊斗の予言を思い出した。


 くるみの一番の理解者で在りたいとは思っているが、歴戦の恋愛ドラマ視聴者である彼には、どうやら乙女心全般の理解度ではまだ一歩及ばないようだ。


「ほんと? なら普段からこっちのがいい?」


「えっ。それはそれで格好よすぎて私が困るしたまに見れるからこそのレアさも捨て難いというか普段の碧くんがいるからこそ映える訳であって一粒で二度おいしいかんじがしてつまりそのっ——」


「う、うん。分かったから落ち着こうか」


 頬を紅潮させながら、息継ぎもせず早口でまくしたてるあたり、余程この格好が刺さったらしい。普段の落ち着いたくるみからは考えられないくらい瞳がきらついていて、思わず一歩仰け反ってしまった。


 くるみが碧のことを大好きなのは周知の事実だが、まさかここまで喜んでもらえるとは思っていなかったので、気恥ずかしさと困惑が勝っている。


 ——世界に一人だけのファンを持ったアイドルって、こんな気持ちなのかな?


 とはいえ碧。この状況に好奇心が疼いているのも事実。


 大予言者湊斗のいれ知恵、改めありがたいお言葉はもう一つある。


 リアクションなかったらめちゃくちゃ恥ずかしいだろうな、と覚悟を決めつつ、物は試しにと右目でぎこちなく下手なウインクを決めてみた。ついでに暇を弄んでいる右手も酷使し、指でハートにする。そして決め台詞。


「じゃあ今度は……バイトしてる時に来てくれたら制服姿も見せてあげるよ」


 ——あれやばいぞ。思ってたのより十倍は恥ずかしい。


 しかしくるみはぼふっと真っ赤になると、両手で顔をすっぽり覆い隠してしまった。


「なっ……え。なに今のっ」


 ぽわぽわとハートを飛ばしながら、指の隙間から興奮覚めやらぬ様子でこちらを見詰めてくる。取り敢えず、すべり散らかしたりはせずに済んで安心した。


「あ……碧くんがアイドルみたいになっちゃった」


「大好評のようで何よりです。もうしないけど」


「えっ!! ……してくれないの?」


「そんなびっくりせんでも。何度もは恥ずかしいよ……」


「きゅんってしたのに。偶にはまたしてくれたっていいんだからね?」


 くるみが名残惜しそうにしつつも、ようやくいつもの落ち着きを取り戻したのを見計らってから、碧は苦笑混じりに言う。


「くるみってわりと推し事とか向いてそうだよね」


 もともと彼女は物事に拘りを持つタイプだし、その対象が今は料理とかだけど、ある日突然人間を推すようになってもおかしくはない。


 いや、案外くるみは他人への興味がない。なので考えようによっては、大好きな碧が彼氏でもあり、同時に推しのような存在でもあるといったかんじなのかもしれない。


 デフォルメされた碧の缶バッチを大量にバッグにくっつけて、ペンライトとうちわを両手に掲げながら、何の迷いもないきらきらした目で彼氏を追っかけてくるくるみ。


 そんでちゃっかり、自分自身のグッズも隣にくっつけて仲のよさもアピール——うん、妄想だけどものすごく可愛い。


 現実のくるみは、きょとんとしていた。


「お仕事? 家事全般ならそれなりの自信はあるけど……」


「漢字が違うよ。や、いいやこの話は。とりあえず疲れたからごはんにしてくる」


「はあ。あいかわらずマイペースなひと。賄いはあったんじゃ?」


「帰ってくる間にお腹空いちゃったんだ……余った野菜でてきとーに炒飯にでもする」


「くいしん坊さん。でもそう言うだろうと思って、今日は和風の栗とチキンのクリーム煮があるから、それ温めてくるわね」


「え? わざわざつくってくれてたんだ。名前だけで美味しそ……いつもありがとね」


 碧がいつだってくるみの料理を世界一心待ちにしていることも計算にいれていたのだろう。それだけで、今日一日精を出した値打ちはあったと言える。


 だが惜しむらくは、この時間じゃ一緒にテーブルを囲めないことで。


「くるみ。門限は……」


 ヘーゼルの瞳が、寂しげに揺らいだ。


「うん。今日は平気な日——って言いたいところだけど、そろそろ帰らなきゃかも。あ、タクシーで帰るから送らなくて大丈夫。碧くんはごはん召し上がってて」


「そっか。僕が帰ってくるまで待たせて……ごめんね」


「私が待ちたくて待ってたから。碧くんがバイトしてるのに私だけ家でのんびりってわけにいかないし。それに碧くんがお仕事で疲れて帰ってきたら、いやしてあげたいなーっていうのが、その……彼女心ってものでしょ?」


 言いながら恥ずかしくなったのか、赤みを帯びた頬を隠すように、ぷいとそっぽを向く。だが垂れた横髪の隙間から見える耳の赤さで、概ねのことは分かるのだ。


 故ににまにま笑っていると、それにはっと気づいて、抗議するようにべちべちと掌で罪と罰をする。それがまたくすぐったくて、碧の笑みを加速させて、くるみがぷっくり拗ねる。


 ——こういうとこなんだよな。くるみの一番かわいいとこ。


 こればかりは写真じゃなく直に見ないとバイトの人にも説明できないよな、と碧は一人頷いていると、くるみが唐突に、思い切り抱きついてきた。


 急なことだったので仰け反りつつ、それでも愛しい人をしっかり抱き留めると、くるみはパーカーにもぞもぞさせてから上目遣いし、花のように笑った。


 甘く淡いヘーゼルは、こそばゆそうに細まっている。


「ちょっと充電」


「……じゃあ僕もしちゃう」


 愛しい人の温もりと柔らかさを心ゆくまで享受していると、くるみもこちらの体にぐるりと回した細い腕をぎゅむぎゅむと締め、実にあどけなく喉を鳴らす。


「バイトの初出勤はいかがでしたか?」


「うーん。まだ一日目だったからあれだけど、そこそこかな」


 指示代名詞だらけの拙い報告も、くるみは文句を言わず聞き届けてくれる。


「がんばれそう?」


「もちろん」


「……私もがんばるね」


 何を? と問うより早く、くるみは小さく続ける。


「明日はお母さんが一日家にいるの。だから進路のこと、きちんと言う。……そしたら碧くんに一番に報告するね」


「うん。がんばれ」


 重圧を与えてしまわないように、なるべく優しく響くように祈りながら、励ましの言葉を掛ける。


「ありがとう。がんばる」


 話す時の振動はか細くも直に伝わってくるのに、どうしてか切なげで、それが少しだけもどかしく思えた。


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