第202話 バイトとコーヒー(2)
そうこうしているうちにとっぷりと日が沈み、冬至を控えているのもあり外はすでに夜の帷が降りている。同じく押し寄せた夜の気配を報せるように、からんころんと。澄んだドアベルが低く鳴った。
「いらっしゃいませ」
と碧が言うと、
「お疲れさまです」
ダウンジャケットの女の人が寒そうに手を擦りながら進んでくる。
上着を脱ぎつつ、その視線はまごうことなく、こちらを捉えていた。
「……もしかしてこの人が、例の新しい人ですか?」
それには湊斗が答える。
「お疲れ様でーす。前に言ってた、俺の同級生です」
文脈から察するに、どうやら彼女がここで働いている〈紬〉という人らしい。
すらりとした長身をリブニットとジーンズに包み、ダークブラウンに染めたミディアムヘアをさっと払う様は、ほたるとはまた違ったお洒落大学生といった風情だ。丸みのある額をすっかり出しているからか、如何にも頼れる先輩といったオープンな印象もある。
自己紹介の後、クールな口調で紬が言った。
「じゃあ呼びかたは秋さんですね」
「……そういうルールがあるんですか?」
「マスターの和佐さんに倣っただけですよ」
ふっと、静かな目許を和らげる。
「湊斗さんから聞いていた話によるともっと派手な人が来ると思っていましたが、秋さんは今時珍しいくらいの純朴青年ってかんじですね」
「お前、僕のことどんな紹介したんだ?」
友人はその問いには答えず、吹けてない口笛でそっぽを向く。
「湊斗さんからは、なんだかんだ大事な親友って聞いてます」
「あっ。紬さん……」
もちろん幸運にも武器を得た碧は、ここぞとばかりに湊斗をにやにやと突く。
「『なんだかんだ』ってとこにいろんな感情こもってて可愛いな」
「おいからかうなや。お前の賄いにだけ激辛の唐辛子を仕込むぞいいのか」
「僕辛いの得意だからなんも効かないけど?」
「その唐辛子の名前が『キャロライナの死神』と言っても尚、余裕でいられるかな?」
「なんてものを客に出す気だよ」
そんな正しく男子高校生らしいばかな応酬をしている間に、紬が制服に着替えに行き、休憩していたかずさと一緒に裏から戻ってきた。
ぱん、と手を叩いて三人の注意を集める。
「さーて。こっからはバータイムな訳だが、秋くんはもちろん今日が初めてだ。幸い予約も遅い時間に一件だし、お客さんが来始めるのはもうちょっと後だから、とりあえず紬ちゃん、彼にいろいろ教えてやってくれる?」
「はい」
この時間の仕事は、彼女のほうが詳しいのだろう。
湊斗から碧の世話を引き継がれた紬は、淡々と、それでいて分かりやすく仕事を説明してくれた。
「——で、今言ったお酒のレシピはぜんぶ、この間辞めたひとがメモ帳にまとめておいてくれてるから、秋さんは注文がはいったらそれ見ながらやってみてください。もちろん私も隣で見てるので」
「分かりました」
一度に教えても覚えきれないからか、あるいはたった今客が来たからか。
取り敢えず今日のところの指導はそこまでらしい。
メモを見つつぎこちない手つきで酒を注ぎ、トレイで料理を運んだりしてしばらくすると、注文も落ち着き一段落の空気になった。
空のグラスを下げながら、額を袖で拭った紬が、何となしに訊いてくる。
「秋さんはバイト代はいったらどうするか決めてるんですか?」
話が気になったのか、ピクルスに漬ける玉ねぎを刻んでいた二人が耳と口を挟む。
「あー。それ俺も気になってたあ。秋くん大事な人いるんでしょ?」
「おっさんは恋話に参加すんな」
「えー。差別だよそれ。俺も甘酸っぱい想いしたいもん」
どうやら、湊斗が恋愛ドラマ好きなのは、お父さんに似ているかららしい。
ふたり——湊斗はすでに知っているため除外とする——の関心はすでに、碧の次の発言に一点集中。
こうなってはしかたないので、なるべく小さい声でぼそっと回答した。
「……実は、卒業したら彼女と一緒に暮らそうと思ってまして」
しかし残念なことに、紬の耳はしっかり拾ってしまう。
「ふーん。しっかりしてるんだ。ちなみに彼女さんってどんな子ですか?」
「いい子ですよ。すごく」
「写真とかないの?」
「ありますけど……そんなに見たいですか?」
紬はなぜか好奇心を示しているが、困るのは碧だ。
くるみに関して事実だけを言うならば、家柄よし文武よしの美少女と何拍子も揃ったミス・パーフェクト——というきょうび小説でも見ないような存在なのだが、それだけを言っても信じてはくれないだろう。ただの惚気と捉えられるのが、おちだ。
あと——写真は二人きりの時に撮影した物が多い。
どれも碧にしか見せない潤びたはにかみや、幸せそうな表情が可愛らしく収められていて、相手が女の人であろうと、何となく他人に見せたいとは思わなかった。
だというのに、紬は納得したように。小さく相槌を打った。
「そっかあ。彼女さん、すごい可愛いんですね」
「僕まだ何も言ってないです」
「目が『世界一可愛い』って言ってますよ」
「……」
否定はおろか謙遜すらできず、助けを求めるように湊斗を見る。
「うん。まあ、きっと近いうちに碧が働いてるところを見に来るんだろうから、知られるのも時間の問題だし諦めろ。それと」
「……それと?」
宿題を忘れてきた小学生のように、気まずそうに目が逸らされる。
「君たちがおしどり夫婦だってこと……実はもう喋っちゃってるんだ」
きれいさっぱり、裏切られた。




