第201話 バイトとコーヒー(1)
週末の昼下がりに、記念すべき……かどうかは分からない初出勤は待っていた。
予定どおり、碧は湊斗のカフェバーにやってきている。
今までは客という立場で訪問していたが、今日からは歴とした従業員だ。
とくに勝手口のようなものはないと聞いていたので、正々堂々と表のドアを押す。
「おー。お疲れ秋くん。……どったのその目?」
今度はドアベルの音と共に、かずさが挨拶で迎えてくれた。
湊斗の父は夜に働いているので、普段この時間に見かけることはほぼない。今日はいろいろ碧に教えるために早めに来てくれているのだろう。
「おつかれさまです。いえ、また転ばれた時のために身構えてただけです」
「おじちゃんのことおじいちゃんと思ってないかい?」
その横には息子の湊斗がいる。かずさとほぼ同じ身長の彼は、すでにぱりっとしたシャツの制服姿だ。
「あれ。珍しく髪弄ったんだ?」
「接客するならちゃんとしたほうがいいと思って」
普段は直毛を下ろしっぱなしなのだが、誰に言われるでもなく明るいかんじの方がいいと判断して、分け目から横に流している。上手いことブローしてボリュームを持たせたりもしているので、今の自分は普段と結構、印象が違うはずだ。
「その格好……楪さんには見せたのか?」
「見せてないけど」
「ふーん。じゃあ今日帰った後が楽しみだな」
「なんで?」
「いやいや何でって……そりゃ彼氏の未だ見ぬ一面を知るのって彼女の特権だろ。折角だしファンサもしてやったらどうだ? ウインクとか。楪さんぜったい喜ぶぞ」
「そんな恥ずかしい真似できるかっての」
「愛する彼女のためなら何でもできる碧さんなんじゃ?」
「できるけど今回のは湊斗が面白がってるだけじゃん」
「……できるってとこは断言するのかよ」
そんな他愛ないやり取りをしていると、ウイスキー棚の横あたりをごそごそしているかずさが言った。
「お前ら仲いーな。うちは小さい店だから、従業員はぜんぶで四人。秋くんも含めてな。だから四人皆で仲よくやってこうじゃないか」
「じゃあ、僕が来るまでは三人で回してたんですか」
「一人いたけどついこないだ就活で辞めちゃったのよ。何とかなってるのは昼間のカフェ。人手が足りなければ、告知だけして潔く閉めてるからね。夜は常連さんがよく来るから俺が定休日以外、来客があればいつでもカウンターに立って酒を出してる」
「いつ休んでるんですか……」
「ははは……いつだろうね。苦労人だろう?」
道理で疲れた目をしている訳だ、と碧はひとりでに納得した。
「そのうちのひとりは夜に出勤するからあとで紹介する。早速いろいろ覚えてもらうことがあるんだけど、まずは制服に着替えてもらおうか」
渡されたのは、グレーの清潔なボタンダウンシャツと、深いネイビーをした帆布の前掛けだった。
「で、これがロッカーの鍵。学校帰りに来ることもあるだろうし、好きなもの詰めこんでいいけど、失くさないようにね。着替えはバックヤード行って突き当たりを左のところでよろしく」
言われた通りに裏へ行った碧は、説明を頼りにそれらしき扉を開く。
そこで正解だったようで、ロッカーが並んでいる他にシフト表が壁に下がっていたり、季節もののラベルが貼られた段ボールが積まれてたりしていた。
私服のパーカーからバイトの制服に着替え、フロアに戻ると、さっそく指導が始まった。
「よし。じゃあまずはいろんな道具とカトラリーの収納と……あとはコーヒーの淹れかたを覚えてもらおうか。とりあえずお客さん来てて注文はいってるから、そっち先にしよう。湊斗、実演頼む」
「うい」
制服に着替えている間に来客があったらしい。ソファの席には本を読んでいる年配客がひとり佇んでいた。
前もって購入しておいたメモ帳とペンを構えて、説明に備える。
「これはコーヒーミル。ぐるぐる回して豆を挽く」
「うん」
「ここは珈琲豆に拘ってるからな。豆の種類によって粗挽きにするか細かくするか細かく調整する。たとえば今回注文を受けたのはエチオピア・イルガチェフェって品種で、これは挽きすぎると苦くなって香りが飛ぶから中挽きがベスト。うちのブレンドにも配合されてるんだよ」
「なるほど……確かにいい匂いだ」
挽いた豆を香ってみると、確かにメロンや苺のような甘酸っぱくフルーティーな匂いが華やかに広がる。これがこの豆にとってのベストなのだと、香りだけで分かる。
これは物がいいからなのもあるが、湊斗の腕が熟練である証左でもあると思った。
「知ってのとおり、うちはドリップじゃなくてサイフォン式だ。抽出時間はタイマーで厳格に管理して手際よく行う。もたつくと味が落ちるから、そこは練習あるのみだな」
「ふむふむ」
かなりまじめにメモを取っているつもりだったが、湊斗はなぜか呆れていた。
「……すごい頷いてるけど、碧ってコーヒーの味ぜんぜん分からんだろ? 苦いの駄目だって言ってたし大丈夫なの?」
「えー。いいよいいよ。味なんか分からんでも出せればいいんだ」
と口を挟んだのはかずさだ。
「店長がそれ言うのおしまいだろ」
「ドリップ式だと淹れ手の腕によってもろに味が違っちゃうけど、サイフォンは量と時間さえ守れば毎回同じ味を再現できるからな。だから問題なーし」
「ゆっるいなぁ……!」
「味見係はお前がやっとけ」
「はいはい」
湊斗は手早く、かつ洗練された動作でフラスコの中身を注いだ。
白地に繊細な蔓草模様のコーヒーカップが、湯気で曇った。金縁はなおも天使の輪のように冷たく光っている。
見たところ、英国のアンティーク。大事な常連にしか出さないと言っていたそれは、おそらく“風”じゃなくて本物なので、こっちにも相当な拘りがあるのだろう。
そのカップが取り出されたのは、硝子が嵌められた古木のショーケース。そこには他にも一点物が整然と並んでいる。
目利きに自信はないが、多分どれも、碧の一日の働きじゃ到底手が届かない値段だ。
うっかり手をすべらせないようにしよう……と気を引き締めた。
「まーこの時間の喫茶は、もはや趣味みてえなもんだからなぁ」
初仕事として、注文の品を客に持っていくのは碧に任され、なんとかやり遂げて戻ってきた後に、かずさが言った。
「昼間閉めておくのも勿体ないし、かといって間借りしたい人を探すのも骨が折れる。だったら俺がコーヒー好きなのを生かして拘りの一杯を提供しよう——っていうおじちゃんのただの道楽だよ。だからまぁ秋くんも、それなりに楽しんでくれたらそれでヨシ」
「ということはやはり、本業は夜のバーですか?」
「ご明察だ。そっちは趣味じゃなくてちゃんとした実業だからね。週末なんかはとくに忙しくなるよ」
碧は後ろの棚に並んでいるボトルキープの名札つきウイスキーを見て、言った。
「いまさらですけど……僕未成年なのに大丈夫なんですか?」
「深夜まで残って働いたり、酒を出したりしなきゃ平気。まずは裏で皿洗いしたり、グラス出したり、料理運んだりになるかな? まぁうち狭いから卓も多くないし、仕事覚えるのもそんなにかからないよ」
「がんばります」
「おっ頼もしいねー。今日の賄いははりきっちゃうからねー若人くん」
「俺も若人なんですけど」
「湊斗は昨日の晩ごはんの残り物にでもしとけ」
「士気に関わるんだが」
その後も碧は慣れないながらに、宣言どおりメモをとりながらがんばって働いた。
今まで一番近くの特等席で湊斗の仕事を見てきたから、雑事であれば説明されるだけでなんとかこなせそうだ。
皿洗いをし、木綿のクロスで優しく拭き上げる。あとはオープンラックに重ねて収納。
お会計はさすがにまだ任せてもらえないが、客が帰ればおしぼりを下げてテーブルをきれいにして、テーブルの角砂糖を補充し、床をモップ掛け。
余裕があれば、サイフォンでコーヒーを淹れる練習をする。
一杯目は湊斗から不合格を貰ったが、とりあえず今日のところの働きぶりは及第点のようで、店長からは休憩のとき、お褒めの言葉と一緒にブルックリン風ピクルスのサンドを、賄いとしてごちそうしてもらった。野菜をウイスキーに漬ける自家製だそうで、酒気は飛んでいるものの、なんだかくらくらする味だった。




