第20話 小さなゆびきり(1)
くるみを家にあげるのは三週間ぶりなのだが、ずいぶんと昔のことのように思える。
あの時頂いた焼きたてふわふわのだし巻き玉子の味は、きっと二度と忘れることはないだろう。
冷やしてあるジンジャーエールをグラスに注いでリビングに運ぶと、くるみはコートをかけた大きなカウチソファにちょこんと腰かけて、妙にそわそわとした様子だった。何気に楽しみにしてくれているということが伝わってきて、こっちまでなんだか嬉しくなってくる。
「碧くんは映画よく見るの?」
「向こうでは家族揃ってよく週末にムービーナイトをしてました。こっちに戻ってからはほら……僕この家あんまり好きじゃなかったから、あまり映画は観なくなったけど」
くるみが気まずそうに眉を下げたのを、碧はゆるく手を振って制した。
「……やっぱり見るのは洋画が多いの?」
「うん。みんな怖いもの好きだったからホラー系のDVDとかたくさんありました」
怖いもの、という言葉にくるみがほんのり怯えるように体を強ばらせて伺うように見上げてくるが、上の空で記憶を辿る碧はそれに気づかない。
「まだ小学生だった妹が映画の後、夜に寝れなくなったりしたなあ。たとえばほら『エルム街の悪夢』とか。夢の中でどれだけ逃げても男が追いかけてきて。もし殺されたら現実でも死んじゃうから——」
「いやっ!」
しかし碧が咲かせる思い出話は、くるみの可愛らしくも切実そうな悲鳴と雷光の如く閃いた白い掌によって妨げられた。口許にぷにっと柔らかいものが当たり、一瞬遅れてからふあっと花の香りがぶわりと押し寄せてきて、くるみに口許を塞がれたのだと理解する。
手刀めいた勢いでびしっと空気を切り裂いて飛んできたので、何事にも動じない節がある碧でも若干びっくりした。
「……く、くるみさん?」
掌の下でもごもごと喋ると、手を伸ばしたままきゅっと目を瞑って震えているくるみが、我に返ったようによろよろ腕を引っ込める。碧が安堵のため息を吐くと、くるみがさすがに悪いと思ったのか心底申し訳なさそうにしょんぼりした。
「ご、ごめんなさい……」
「……もしかして怖いの苦手?」
「べっ、別にそんなんじゃない。悪夢の話をすると現実になるっていうし、妹さんの不名誉なお話を聞くのは可哀想だし……そう、ただそれだけ。本当の本当に何でもないったら」
言い訳を早口で捲し立て、羞恥から頬に赤みを帯びさせながらツンと鋭く否定するものの、すぐにしおしおと項垂れてしまう。あらすじだけで怖がるなんて、よほど苦手らしい。
碧が知る限りくるみは完璧な人間だ。だから怖いものに怯える姿は……正直意外だった。
「くるみさんにも苦手なものってあるんですね」
「努力でほとんどのことは出来るように克服したけど、私だって人間ですもの。一つや二つくらいあるわよ」
「教えてって言ったら教えてくれるの?」
「いやよ。絶対に教えません」
「……『十三日の金曜日』って映画があるけど来週の十三日って確か」
言いかけたところで、きゅいっと強引にパーカーの裾が引っぱられた。転びそうになって慌ててソファに手をつくと、すぐ近くでくるみが頬を紅潮させながら、涙目で碧を恨みがましげに見上げてくる。ちょっと本気で申し訳なくなった。
「ごめんなさい。つい、からかいたくなっちゃって。もう絶対にしません」
「……すぐそうやって、掌の上で転がしてくる」
「ごめんって。もう言わないから」
せらせらと笑えば、くるみからは拗ねたような甘さを帯びた声がくらくらと立ち昇ってくる。掛け値なしに可愛いなと思ったが、さすがにやりすぎて嫌われたくもないので、碧は映画の準備を進めることにした。DVDを読み込ませつつ尋ねる。
「字幕と吹き替え、どっちがいいですか?」
「私はどちらでも大丈夫だけれど、碧くんに拘りがないなら字幕がいいわ」
くるみもくるみでさっきのことは忘れたいらしく、咳払いしてから静かに返事をする。
「了解。はいこれ、映画のお供にキャラメルポップコーン。寒いかもしれないから、ここにブランケット置いておきます」
「うん。……ありがとう」
開封したお菓子をお皿に出し、洗い立てのブランケットをソファの背もたれにかける。
そんな調子でてきぱき用意をしていると、くるみからじーっと視線を向けられていることに気がついた。なんですか、と眼差しで問いかけると、意外そうにしているくるみの面持ちがぷいと逸れる。
不思議に思いながらも自分のぶんのポップコーンを戸棚から出していると、
「——くしゅん」
後ろから小さくて可愛らしいくしゃみが聞こえた。
「部屋寒いですか? 温度もうちょっと上げる?」
訊きながら振り返ると、くるみは手の中のジンジャーエールのグラスを忌々しそうに睨んでいた。瞳までもが心持ち涙でうるうると潤んでいるのは、さっきからかってしまった残滓だろうか、はたまたジュースのせいだろうか。
「寒くはないの。ただ、これが思ったよりぱちぱちしていたから……」
「ああ。じゃあちょっと待ってて。それは僕がのむから」
キッチンに戻り、硝子棚からマグカップを取り出す。温めたホットミルクを注いで、蜂蜜をひと垂らししてスプーンでかきまぜてから渡した。くるみの隣にふかっと座り込み、リモコンを手に取る。
またもやじーっと見つめられている気がしたので再び眼差しで問いかけると、今度は答えが返ってきた。
「……ありがとう。なんだか至れり尽くせり、ね」
「これが他の知り合いでも同じことしてた……とは言いませんよ、今回は。くるみさん相手だからしたんです」
「もう、君ってば」
怒ったような照れたような、あるいはちょっぴり呆れたような。何とも名状し難い声で投げかけられた声に、碧はそっと笑った。
再生ボタンを押すと、映画が始まる。優雅でメロウな音楽と共に映し出されるローマの街並みを見て、温かいミルクを幼げにふぅふぅしていたくるみが榛色の瞳を丸くした。
「わ、これ白黒映画なの?」
「一九五〇年代の作品ですからね」
「すごい。本当に実在したんだ、初めて見た」
「なんか初々しいな。僕も初めてモノクロの映画観た時は同じリアクションだったんだろうけど」
初めてのことにほんのり目を輝かせるくるみを見て、碧は微笑ましい気持ちになった。くるみからしたらきっと目に映る様々なものが、宝物のように思えるのだろう。
この物語は、ローマの街を訪問したアン王女が夜にこっそり抜け出し、ジョー・ブラッドレーという新聞記者の男と出会うところから動き出す。
束の間の自由を手にして、ヘアサロンで髪を切ったりジェラートを食べたりして遊び尽くす王女と、それを追う記者が少しずつ惹かれあって恋に落ちる——というラブストーリーだ。
ふと隣を見ると、くるみはようやく粗熱の取れてきたホットミルクを満足そうにくぴくぴと頂きながら、映画に釘付けになっている。
よく考えたら我ながら恋仲でもない同い年の女の子と家で恋愛映画を見るなんてずいぶんと大胆な真似をしてしまったと思ったが、本編が始まると画面の向こうのローマの街並みに碧もすっかり夢中になってしまった。
*
映画が終わってから、まるで止まっていた時間がようやく動き出したように、碧はうんと伸びをした。
最近はあまり映画を楽しむことがなかったので、観賞後特有の気怠さや満たされる感覚、ひとつの物語が終わったことへのちょっとの切なさに懐かしさすら覚える。
ふぅと息を吐いて隣を見ると、もちもちのクッションをひざの上に置いてぽーっとエンドロールに魅入っているくるみの端正な横顔がそこにあった。
「面白かった?」
「……うん。ちょっぴり切なくて美しくて、けれどロマンチックで夢がある物語だった。王女様でもああやって、普通の女の子として自分のやりたいことを好きなように満喫しながら街を散策できるのは、いいなって」
どこか夢見るような彩りを瞳に湛え、詩的な言葉を綴るくるみに、碧は訊いてみる。
「もしくるみさんが王女様で、もしその日限りの自由を手にできる一日乗車券の切符があったとしたら、どういうふうに使う?」
「私は…………自分では多分思いつかないまま一日が終わっちゃうんだと思う」
「それは勿体ないな。二度とないチャンスかもしれないのに」
「いいの。もしそうなった時は、ジョー・ブラッドレーに晩ごはんをごちそうして、代わりに丸一日案内してもらうから」
「記者仲間とのポーカーに連れ出されてしまいそうだ。ルールが分からないくるみさんは、せっかくのお小遣いを全部取り上げられてしまう」
碧が冗談めかすと、くるみは可笑しそうに笑った。




