第2話 憧れ(1)
楪くるみという少女を語る上で最も相応しいのは〈完璧〉という二文字だ。
そんな彼女は有り体に言えば、この学校に咲く高嶺の花だった。
「ねえ、見てあの子……!」
「すっごい綺麗……! 何年生だろ?」
「知らないの? 一年生だよ。確かに学年が違うからなかなかお目にかかれないかもだけど。すごい有名だよ」
「はぁ……本当、近くで見るとまるで妖精さんかお人形さんみたい……」
彼女が校内を歩けば、冬が終わり気温が二度ほど上がったように、その場の空気が変わる。それが真冬の廊下であろうと例外なく空気は色づいたように華やぎ、すれ違った生徒は男女問わず、皆同様に感嘆の声を上げ、その姿を目で追う。
「すごい眼福だよなあ」
「もはや女神すぎる」
皆が彼女に羨望の眼差しを向けている理由はいくつかあるが、まずはその美しく儚げな色彩にある。
可憐さのなかに、凛とした気品を併せ持つ一挙手一投足。いつもお淑やかに微笑んだ表情を浮かべていることも相まって、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、という言葉がよく似合う佇まいであった。
それにとどまらず、入学して以来成績は常に学年首席。さらに運動まで万能。おまけに性格も楚々として物腰柔らかく品行方正、教師からの信頼も厚い。
まさに非の打ち所のない正真正銘の才色兼備なのである。
*
——そしてたった今、校舎の吹き抜けの下をゆく彼女を二階から見送った大柄な男子学生もまた、心持ち浮き立った声をあげた。
「相変わらずの人気だなぁ〈スノーホワイト様〉は」
後ろを刈り上げた焦げ茶の髪に寡黙な瞳、どこぞの軍人を思わせるほどの立派な体格を誇る男子生徒だ。嫌味にならない程度に適度に着崩した制服が、どこかゴールデンレトリバーめいた雰囲気によく似合う。
そのまま隣を歩く友人に話しかけた。
「あんな美人なかなか見ないから騒ぐ気持ちも分かるよ。な? 碧」
「んー……」
話しかけられた友人こと——秋矢碧は、心ここにあらずといった風に曖昧な返事をした。イヤホンを嵌めて、スマホ片手にぼんやりと歩いている。
「おい、歩きスマホ禁止。てか碧、人の話聞けって」
「あっ、ちょ……」
不意にスマホを上から取り上げられ、碧は半端な声を上げた。
「守れないならスマホは没収します。……って、今ちらっとトーク画面見えちゃったんだけど、全部外国語じゃん。向こうの友達か」
「ごめん、湊斗。で、なんだっけ? 世界の児童労働問題について? それとも購買のパンでどれが好きかって話? 僕はメロンパンが好き」
「お前が何も聞いてなかったということはよく分かった」
湊斗は、高校での唯一の親友。高校入学時から前後の席で、そこからの付き合い。
ドイツには〈Stille Wasser sind tief〉という諺がある。直訳で〈静かな水は深い〉と言う意味だが、要するにぱっと見は物静かな人ほど、実はどんな一面が隠れているのか分からないということ。
彼もまさしく一見寡黙な大男だが、喋るとなかなか阿呆……もとい愉快な奴なのだ。
「今、俺のこと心の中で貶してなかった?」
ちなみに、たまに妙に鋭かったりする。
碧がようやくイヤホンを外すと、湊斗は面倒がらずに教えてくれた。
「さっき言ってたのは、お姫様が今日も可愛いって話。隣のクラスのくるみさんだよ」
「ああ……あの人」
名前を聞いてようやく彼女のことだと思い当たる。どうも、あの妖精姫という仰々しいあだ名には馴染めそうもない。
楪くるみと初めて話したあの雪の日から、すでに数日が経っていた。
土曜の夜にあったことをすっかり忘れ去っていた週明けの月曜日。学校へ行こうと玄関のコート掛けに手を伸ばしたら、いつものマウンテンパーカーがなかった。そして初めて彼女に貸しっぱなしにしてしまっていたことに思い至る。
その時は、どうしたものかと頭を抱えた。向こうも返す宛てが分からず困っているだろう。その日一瞬だけの関わりのつもりだったのに、彼女の寒そうなくしゃみで気がかわってしまったのが敗因。
名乗らなかったことを後悔しつつ、しかし高価なわけでもないので、なんなら諦めても良いかなと思い始めていた。
だって、あんな格好つけた去り方をして後日上着返してだなんて、なんかちょっと恥ずかしいし。
「僕ってばかなのかもしれない」
「何だやぶからぼうに。帰国子女のお前がばかなら俺はどうなるんだ?」
「うーん……慎重を拗らせすぎた心配人間?」
「そーだな確かにのんびりやのお前のこと放っておけない心配人間だよ! お前こないだも上着を校内に忘れてったもんな。にしても上着ってふつう落とすか? 帰り道に寒いなってならなかったのかよ。拾ってくれた人に感謝しろよ」
「はは……だよね」
そう、なんだかんだ、彼女に貸したマウンテンパーカーは名前も学年も知らないはずの碧の手元に帰ってきた。
その機転がなかなか見事で、土曜日に学校に来ていた生徒が落とした、と事務室に届けたらしい。
土曜に学校にくる生徒は運動部を除けばそこまで多くはなく、立入には許可が必要なため自ずと数は絞られて、教師から碧に声がかけられた、と言うわけだ。
「なんか碧、あの人にあんまり興味なさそうだな? さっきから上の空だし」
「あーうん……まあ、だってクラスも違うし。湊斗も話したことないんでしょ?」
雪で帰れない妖精姫を歩道橋の上で見つけたという話は、親友である彼にもしていない。誰にも言わないと約束した通り、あの夜はちょっとした秘密だ。
ぎこちなく返したが、幸い彼は訝しんでくることはなかった。
「まあそう言われればそうだが……けどそれ言ったら、話したことある人の方が少ないんじゃないか?」
「そうだよね。なんか人前で話しかけたら取り巻きに校舎裏に呼び出されそうだし。それとも湊斗はお近づきになりたいの?」
「そもそも、その気があっても会話の糸口が見つからないだろ」
会話の糸口——そんなワードに、相槌を打たずに足を止めた。
それを見て湊斗は首を傾げる。
「どうしたよ」
実は、碧とくるみのかかわりは完全に途絶えたわけではなかった。もう会う用事も理由もないかと思いきや、糸口なるものが一つだけ手元に残っている。
その糸を辿るかどうかは、また別問題なわけだが——。
思いに耽る碧を見兼ねてか、廊下の角を曲がってから、湊斗がばしっ! と背中を叩いてきた。
「ほら、ぼーっとすんなよ。階段踏み外すぞ」
「うーん、まあ長く生きてればそういうこともあるんじゃない」
「いや、それはちょっと達観しすぎだろ」
いつものようなありふれた放課後、いつものような親友との戯れ合い。それはまさしく、今日という日が三百六十五分の一の、ただの平凡な一日だということを表していた。
だからまさかこの後あの妖精姫との思わぬ再会が待ち受けているなど、もちろん思いもしなかった。