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第198話 今の自分にできること


 十一月末日。バイトの面接の日。


 木曜なので少し短めの六限目が終わった後、学校の図書館で少し時間をつぶしてから、マウンテンパーカーを羽織って校門を出た。


 夏であれば、この時間はまだ西の空もまだ青々しているのに、今ではすでに空の光はアイスを全てとかしたクリームソーダのように冷たくひんやりしていて、季節の移ろいを思い知らされる。


 湊斗の家は電車で数駅となりにあるのだが、面接までは時間に余裕があったし、節約もしたかったので運動がてら歩いて行く。ちなみに本日木曜は定休日で、湊斗はじゃまをしちゃ悪いからとつばめの家に遊びにいったようだ。


 細長い建売住宅がどこまでも連なる道をしばらく歩き、うっかりすれば間違えてしまいそうな、かわり映えのしない角を、迷わずに曲がる。


 すると今度はひっそりとした路地が静かに続いており、その三軒目に目的地があった。


 去年いくどとなく通い詰めた、湊斗のカフェバーだ。


 古びた黒板のメニュー。アンティークの椅子には、この時季でも咲くビオラの鉢植えがある。深緑のひさしの上には〈Adrable(アドラブル)Cafe(カフェ)〉の看板。


 クローズドの札が下がるドアを、あえて身構えることなくいつものように押すと、からんころんという音の後に、街の静かな喧騒が遠ざかる。


 いちおう辺りを見渡してみるが——


「……誰もいない」


 湊斗のお父さんは、不在だった。


 ただ染みついたようなコーヒーの芳醇な香りは残っており、営業中と同じようにレトロな洋楽が小さく流れている。しっくい塗りの壁には、晩秋のほのかな木洩れ日が四角い光を落としていた。


 時間ぴったりのはずだが、なにか急な用事があって出かけているのだろうか。


 どうしたものだろう。このまま立っていてもいいのだが、何となく所在ないので、荷物だけカウンターに下ろした。 


 左の壁はいちめんが本棚になっている。湊斗のお父さんの蔵書らしく、取っつきやすそうな文芸書や雑誌から、難しそうな専門書まで種々雑多なことも知っている。


 それを読みつつ待つのもできなくもないけど、もしかしたら裏のほうに居るかもしれないから、まずは一度呼んでみよう……と口を開きかけたところで。


 ——どさどさっ。


 スタッフルームにつながる扉から、何か重たい物を落とすような音が届いた。


「大丈夫ですか?」


 思わずカウンターを潜り、扉を開こうと手を伸ばすと、それよりも一瞬早くドアがさっと引かれる。


 そこに立っていたのは、伸びっぱなしの髪を乱雑にまとめた、ぶしょうひげのおじさん。


 湊斗のお父さんだ。


「おお。久しぶりだね秋くん。よく来てくれた」


 秋くん——というのはこの人が勝手につけた、碧のあだ名。苗字から取ってるらしいが、呼んでくるのはこの人だけだ。


 苦労が滲み出た、煎ったコーヒーのように深くて渋いバリトンボイスで挨拶されるので、碧はいちおうぺこりと会釈をしたものの、体勢を崩して今にも転びそうなところを壁に手をついて事なきを得た、みたいな格好にしか目がいかない。後ろには珈琲豆の大きな包みが落ちている。


「……あの。怪我はないですか?」


「え? いやぁ恥ずかしいな。見られちゃった? 実は豆を一度に三箱運んで階段降りてたら足下が見えなくてさぁ。おじちゃんももう若くないんだから骨でも折ったら半年は歩けないよってのにねえ」


 謎の壁どんのまま、どこかお疲れ気味な目を糸のように細めて、低いテンションでせらせらと笑う湊斗のお父さん。


 よっこらせっと年寄りくさい掛け声で上体を起こすと、ネイビーの前掛けの埃をぱっぱと払っている。


 こう言ったら友人に怒られそうだが、実の親子だけあって、湊斗と系統はよく似ている。


 長身で体格がかなりいい。一見だらしない印象を与えがちな、ぼさっとした長髪とひげが、却って只者じゃないかんじを醸しているのだ。


 常連に慕われている姿がすぐに想像つく——そんな人。見た目のわりにフレンドリーなので、その魅力がこのバーの集客力の秘密なのかもしれない。


 そして孤独だった自分のためにいつも席を空けて迎えいれてくれたことから、碧が密かに尊敬している人物でもあった。


「ところで秋くん、去年は寒そうな格好だなぁって思ってたけれど、今年は洒落たマフラーをしてるじゃないか。それはどこの?」


「これですか? 売ってないんです。大事な人からの頂き物で」


 もちろんくるみから貰ったマフラーは、毎日大事に巻いている。


 まるで自分の恋人を直に褒めてもらったかのようで、なんだか嬉しくて、小さく相好を崩してしまう。


「へー。いいねえ相思相愛。そういうのおじちゃん好きだよ。これうちの名刺ね」


 渡された小さなカードには『HAYAMA KAZUSA』と書いてあった。


 名前を知るのは実は初めてだ。湊斗の苗字が葉山なのでそっちの漢字表記はよいが、下はどのように書くのだろう。


「そんで面接だっけ?」


「はい。あ、これ履歴書です」


「別にいいのにわざわざ持ってきてくれたんだ。証明写真までつけて」


 デイパックから取り出したそれを手渡すと、湊斗のお父さん——改め、かずさはさっと目を落とし、それから大仰に驚いた。


「えー。すっげえ。なにこのカタカナだらけの学歴。外国語を話せる秋くんが来てくれたらうちも百人力だよ」


「それは……光栄です?」


「おじちゃんさぁ、英語がてんでからっきしでね。近頃どっかの旅行雑誌に載っちゃったみたいで外国人がいっぱい来るんだけど、センキューベリーマッチしか言えないのよ。だからそっちの対応は大学生のバイトの子に丸投げしてんの。まぁその子も喋れないんだけど俺がやるよりましだからさ」


「雑誌って……掲載許可したのはオーナーのかずささんなんじゃないですか?」


「そうだっけ? あー。そう言われれば取材……来た気がするなぁ。いや参った。断っておけばよかったなぁ」


 椅子にもたれつつ、シャツのポケットからへこんだ煙草の箱を取り出したので、碧は思わず突っこみをいれる。


「あれ。結構前ですけど、禁煙したって言ってませんでしたっけ」


「んー?? んなこと言ったかなあ……うん。言ったわ。そうだ禁煙だ。秋くんがうちに来ない間もずーっと、めっきりしっぽり我慢してたよ。……ほんとだよ?」


 にへらと笑ってかずさは煙草を名残惜しそうにポケットに戻す。


 ——何度か会って喋ったことはあるものの、こんなに駄目さの垣間見える人物だとは思いも寄らなかった。


 ここでのバイトは本当に大丈夫なのだろうか、と行く末を案じてしまう。


「秋くんはうちの大事な常連だったし、昼と夜の時間で出すものがかわるのは知ってると思うけど、今のところはその両方の時間に出てもらうかたちでいいかな?」


「大丈夫です」


「よし。あとは問題ないか」


 かずさが書類を持って立ち上がった。


「さて……平日何日かと、あとは週末に土日のどっちかは来てくれるって話だし、初出勤をいつにするかはまたおいおい調整するとしますか。じゃあ秋くんこれからよろしくね」


「え。もう終わりですか?」


 あっさり即決されたので肩透かしをくった気分だが、かずさはもともとその気だったらしく、淡々と腕を組んだ。


「まあ言うて、こっちからぜひ働いてほしいっておねがいしていたしねえ。それに湊斗がお世話になってる友達に、これ以上根掘り葉掘り聞くことなんてないもんなぁ」


「いや……お世話になってるのはこっちのほうですよ。とくに去年なんかはもう……ほんとに。すごく助かってました」


 高校一年だったときの自分にとっては、このカフェバーはもうひとつの家のようなものだった。学校でもあんまり馴染めず、帰っても誰もいない自分の家があんまり好きじゃなかったから。


 知る人ぞ知る、隠れ家。限られた人だけが訪れる、秘密の空間。


 そこ行き場のない自分にも、こんなほっとできるところに席があったことが、たまらなくありがたいと思った。


「去年……か。確かに秋くん、ちょうど一年前からあんまり遅くまでうちに居ることはなくなったよね。何かあったんじゃないかって心配してたんだけど、湊斗が何も言わないから、あったとしてもそれはいいほうなんだろうなと思ってたよ」


「すみません。近況報告もなく」


「いやいや。いいんだよ。これからは出勤のたびに嫌でも言わされることになるんだから。次はその大学生のバイトの子……(つむぎ)ちゃんとも会わせるからね。あとこれはメニューだから、もし時間があったら見といてくれる? 別に今すぐ覚えなくていいから」


「はい」


「じゃあ帰り道は車に気をつけるんだよ。渡した雇用契約書はてきとーに埋めて、てきとーに捺印しとけばいいから」


「てきとーですね」


「次うちに来た時でいいからよろしくね」


「はい。ありがとうございます」


 正直一時は心配したが、湊斗のお父さんはやはりいい人である。


 学校の教師などを除けば、もともと日本で孤独だった碧を親よりも近いところで見守ってくれてた、唯一の大人なのだ。ああは言っても信頼しているし、だからこそバイトとしてお世話になることを決めたわけであって。


 ——今のところは順調だ。


 碧は抑えきれず、相好を崩した。


 ——ちゃんと一歩ずつ前に進んでいけている。


 将来への第一段、ひとかけのピースを掴んだ現実味があることが今は嬉しい。


 店の外まで見送ってくれて、碧は背中にこそばゆさを覚えながら、行きと同じかわり映えのしない角を、確かな足取りで曲がった。


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