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第197話 sweet night(2)


 夜が来る。くるみを家まで送り届けるために、碧は玄関でブーツのファスナーを上げるくるみに腕を貸し、それからマンションを出た。


 気温はすっかり下がったが、おかげで雲一つなく澄んだ夜空には星がひと粒ふた粒と瞬いている。明日はいい天気になりそうだ。


 遠くに見える信号を見て、わざと歩幅をほんの少しだけ狭くする。


 横断歩道にたどり着く頃には計画どおり丁度信号が赤になり、少しだけ時間を稼ぐことに成功した。


 もう少し一緒にいたい——そんな想いが、密着した掌から伝わってきたから。


 くるみの耳がほんのり赤みを帯びているのは、寒さのせいではないだろう。


「ね。私の両親のプロフィール、知りたい?」


 右手と左手。片っぽずつ寒気に晒された素手同士をつないで歩いていると、ふいにくるみがそう言った。


 突然だったので意図を推し量りかねていると、それもお見通しのようにつけ加える。


「知っておいたほうが、挨拶の時に取っ掛かりになるでしょう?」


「そうか。親御さんと会うのたのしみだなーくらいしか考えてなかった」


「本当に何も考えずに打ち解けられそうだから、碧くんはすごいけど」


 くるみとは一年という長い時間をかけて深いところまで理解しあっている自覚はあるが、親となると話は別。当日はなるべくスムーズに打ち解けられるに越したことはない。


 自分より体温の低い手を、温めるように包み直した。


「じゃあお父さんはどんな人なの? あんまり話に聞いたことなくて」


 たとえば趣味や嗜好、出身地や学生時代のこと——会話一つで、どんな人間でも打ち解けられることを碧は知っている。


 逆に言えば、少しの会話で印象を悪くしてしまうこともあるはずだ。それを事前に知っておいて損はないだろう。


「んー……どんな。かぁ」


 自分から提案したというのに、くるみは指をおとがいに当て、考えこんでしまった。


 ちょっと曖昧すぎる質問だったか、と碧は答えやすいように誘導する。


「くるみを今の高校に行くことを応援したのも、お父さんのほうなんだっけ?」


「うん……母は私の進路とかに口うるさくて……でも父はなんていうか、少しは私の意思を支持してくれる……のかもしれないけど、結局は事なかれ主義で、母とぶつかりたくないから自分の考えを言わないような、そういうところがある人かも。……うん、総括するとやっぱりよくわからない人かな」


 思いの外、辛辣な評価が出てきた。


「好きなものとかないの?」


「趣味だとゴルフと車、あとは落語とか。お休みはよく寄席(よせ)に行ってるみたい」


 まずい。自分がさっぱり知識のない分野が出てきた。


 ヨセってなんだ?


「あとはお酒とつくねが好き。甘いものは口をつけたところはあまり見たことない」


 ようやく知っているワードが出てきた碧は、それを仮想のクリアボードに順々に整理していく。どうやら、手土産にケーキは止めておいたほうがよさそうだ。


「くるみなら大抵のことは分かるけど、これはお父さんもお父さんで覚え直しだな」


 うっかり口を衝いて出た独り言に、くるみがここぞとリアクションする。


「あら。ずいぶんな自信家さん」


「僕が君のこと、ずっとどんだけ近くから見てきたと」


「それは私も一緒だし、私のほうが碧くんのことよく分かるもん」


「そこで負けず嫌い発揮するんだ?」


「たとえば外で風が吹いて私が櫛で前髪直している時、手をつなげなくて残念そうにしてるところとか。……ふふ。可愛いなって思って見てたもの」


 つい何もないところで転ぶところだった。


「よくお分かりで。……いつから知ってたの?」


「いつだろう。もう何ヶ月も前からかな」


 勿体ぶらない素直な回答。


 しかし、その計算だと辻褄が合わない。とあるケースを除けば——だが。


「……そこまで分かってたならもしかして告白待ちしてた? 小悪魔なの?」


「何も聞こえません」


「あっこら。知らんぷりはずるいんだけど」


「それの真偽はともかく、私は仲よくなりたくていっぱい踏み出したのに、最後まで考えを読ませなかった碧くんにも問題はあると思うの」


 それを言われると、ぐっと言葉が喉に詰まってしまう。


 くるみは柔らかくはにかんだ。


「知らないの? 女の子は、殿方から来てもらいたいものだってこと」


 本当に告白を待っていたのか、いないのか。


 小悪魔と呼ぶには些かばかり清純がすぎて、天使と呼ぶにはいたずらっ子なその表情が、あんまり可愛くて目を奪われていると、束の間くるみは大人びた眼差しを空へと送る。


「ねえ碧くん。一緒に暮らすようになったら——」


「うん」


「…………」


 しばしの沈黙のあとに、まるで何か他のことを言おうとしてやめたかのように、くるみはぽつりと言う。


「こうして碧くんに夜、家まで送ってもらうこともなくなるのよね」


「そうだね」


「じゃあ今だけの特権だね」


 くるみの母のプロフィールは聞こうとして、やめた。


 自分といる時くらい、しがらみは忘れて心の拠り所にしてほしいと思ったから。


 やがて門扉の前に到着してしまい、ほんのひとときの会話を二、三言だけ名残惜しげに交わしてからばいばいをする。


 車回しを横切っていく華奢で美しい後ろ姿は、いつになく頼りなさげに見える。




 まだ、ピースが足りない。そんな気がした。


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