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第196話 sweet night(1)


 数日後、中間試験の順位が書かれた成績票が返却された。


 家に帰宅し、妙にしゃちこばった様子でソファで沈み向かいあうふたりの手には、その二つ折りの白い厚紙がある。


 碧はくるみの票を、くるみは碧の票を。


「じゃあ……開けるよ」


「うん。おねがい」


 今日一日、成績優秀者発表の掲示を見ずにまっすぐ帰ってきたのは、こうして渡しあった結果をここで初めて見て、お互いの目標がクリアされているか確認するためだった。


 自分が上手い事出来たかどうかは、自己採点の結果を見る限りそこまで大きな心配はないが、やはり学年首位に見られるのは緊張が勝つ。その点、くるみは今回もやってくれてるだろうという抜群の信頼があるので、碧はくるみのフルネームが印刷された厚紙を迷う事なく開いた。


 視界の隅っこで、彼女のほうも紙を開くのを目が捉える。


「——学年一位だ」


「そっか……よかった。そういう碧くんは五位、おめでとう」


 ほっと安堵のため息を吐いてから、自分事のようにほわんと笑うくるみだが、喜んでいいのかどうかは正味分からない。


「あんまり嬉しくない?」


「いや。いいことなんだろうけどくるみが凄すぎて霞んでるなって」


 合計のみならず各教科も平均は九十点台後半。のきなみ一位を独占しているのだ。


 しかし当の本人は、とてもそんな優等生には見えないあどけない仕草でぎゅっと距離を詰めると、少し低いところからじっと見上げてきた。


「でも私がどうこうじゃなくて、碧くん自身がすごいってことは事実なんだから、素直に認めてあげてもいいと思う。……そうしないなら私がいい子いい子の刑に処すけれど?」


「今それをされたらこの地点に甘んじちゃいそうだから、また今度頼みます」


 どうやら本気だったらしく残念そうにするので、碧は少しだけ笑った。


「にしても、さっき順位伝えた時にほっとしてたよね。くるみ程の人でも、結果を見るのは緊張するんだ?」


「もちろん。当たり前にするけど?」


「へー。そうなの?」


 くるみは頷くと、成績票をそっと閉じて静かに語る。


「やっぱりトップでい続けるのってそれなりの重圧があるもの。言わば追うものはないのに、自分は常に誰かに追われてる訳だし、この時期って受験を視野にいれて猛勉強してくるひとも多くなってくるし。誰かに負けて落ちたらどうしようって、たまに考えちゃう」


「それは……そんなことある?」


 二位とは結構な点差があったはずだが。


「あるある。解答欄がずれちゃわないかとか、すごく気にするもん。結果を見る時だって緊張するから実はいつも『人』を掌に三回書いてのんでたりしてね?」


 くるみはゆったりソファから立ち上がると、冗談めかしつつも、どこか穏やかな調子で話しながらキッチンへ行こうとする。


「それに本当は私、中高一貫出身だったからこの高校に来ることはなかったのに、それが許されたのも父がわがままを聞いてくれて、母に交渉してくれたからだし。この学校に来たから成績が落ちたなんて、思われたくないじゃない」


 振り返りざま、ふふっと上品に目を細めるその笑みの裏に、碧は想いを馳せた。


 ——〈天才〉という言葉を因数分解してみると、さまざまな要素が姿を現す。


 要領のよさや努力量、あるいは努力を努力と思わない精神、ひとつの領域に対する情熱と執念、生まれ持った体格や根性、不屈の心……エトセトラ。


 できない人間の気持ちがきちんと分かる彼女が、その全てを完全に兼ね備えているとは思えない。それを考えると両親から受け継いだ優秀さもあれど、くるみはきっと努力の人だ。


 もともと普段から毎日の予習や復習は欠かさない人なのだが、三週間前あたりからはもう寝る時間も惜しんで参考書や問題集を解き続けるようになる。


 がんばってもそのがんばりが実らない人もいるなかで、努力したぶんがきちんと成果になって百二十%報われる天賦の才もあると思う。けど前提としてたゆまぬ努力があるからこそ、一度も一位を明け渡したことがない。


「予想外だった?」


 くるみが首を傾げるので、碧はふるふると首を振る。


「って訳じゃないけど、くるみはそういうところを他人に見せないようにしてたから、皆も近寄り難くなってたんじゃないかなって思ってさ」


「ううん。いいの別に。それでも。そういう選択をしたのは私だし」


 夜の静けさをまとうように、遠くを見透(みとお)すように。くるみは凛とした理知の光が宿る瞳を、しんしんと窓辺へと送った。


「誰にどう思われても関係ない。一位は維持する。それが私の矜持だから」


「——……」


 多分このとき碧は初めてくるみを、格好いいなと思った。


 一番でいたいから、一番でいる。


 それ以上の理由は要らない、と全て跳ね除けるようなシンプルな堂々たる解に、気づけば碧は衝動のままに、くるみをむぎゅーっと抱き締めていた。


「わっ。どうしたの?」


 べたべたにくっついて頬擦りをするも、くるみは嫌がる様子はなくされるがまま。


 捕まえたままぐるりと体を旋回させ、キッチンのワークトップに腰を預ける。


「いや……知れば知るほど、くるみのこと好きになってすごい愛おしいなって」


「きゅ、急に巨大な愛情表現してこないの。ばか」


「こんなにがんばってるんだから労ってあげたい。ご褒美になにかしてほしいことある?」


「え? ごほーび?」


 腕の中できょとんとしていた瞳が、徐々に恥じらいを帯びた。


「……じゃあ、ごほうびに、ちゅー……してください」


「キスくらいは別に、おねだりしなくてもするんだけどな」


「そのっ……いつものじゃ、なくて」


 もじもじと言い淀みながらも、ぽつりと小さく希望を落とした。


「お……オトナの。キスがいい……です」


 〈大人のキス〉——。


 あのくるみから出てきたとは到底考え難いおねだりに、思考が真っ白になった。


 正直この子はこと恋愛においては潔癖主義じゃないかと危ぶんでいたが、今の勇気ある発言を聞く限り、どうもそういう訳でもないらしい。


 こちらの反応を見てか、彼女も茹だりそうなほどに真っ赤になって伏し目がちに。


 その表情は妙に色っぽくも、同時に清楚さもより強調されているのだから、本当に美人というのは隙がない。


 ぷるぷる震えているのを見て、つっかえながらも何とか言葉を捻り出した。


「で、でもそんなお誘いされたらその、僕のほうがよくないというか。……キスだけで止まれる気がしない、というか」


 くるみはますます、発火しそうなほどかんかんに赤くなって、碧のシャツの裾を掴みながらぼそっと何かを言った。


「————だって——」


 しかし聞き取れず聞き返す碧。


「何?」


「……わたし、だって。碧くんと……もっと、恋人としてお近づきに、なりたい、のに」


「えっ」


「碧くんはもしかして……その、そういうふうに考えたことなかった?」


 辿々しく紡がれた、迂遠にこちらを受けいれる発言に、ごくりと生唾を吞む。


 そりゃ碧だって好きな子と結ばれた以上もっと先へ進みたい願望はあるが——


「思ってなかった訳じゃないけど……その。いいの?」


「……駄目なわけ、ない。はれんちなおねがいで恥ずかしい、けれど……」


 くるみは羞恥と期待と渇望にヘーゼルの瞳をうるやかに震わせつつ、こちらから踏みこむのを待っている。


 彼氏冥利に尽きるけど上手くリードしなければ、という重圧とか、求められた喜びなんかは、そんないじらしい目で見詰められたことでぜんぶ吹き飛んでしまった。


 碧が僅かに動く。


 それだけでくるみはぎゅっと堅く目を瞑り、衝撃の到来を待ち始めた。


 お望みどおりに、彼我の距離をなめらかに縮める。


 閉じた可憐な桜貝に、自分のそれを、まずは慎重に重ねた。


 やはりくるみのは、自分と同じ名前を冠するとは信じ難いほどに柔らかくってみずみずしい。それに心做しか甘い気がする。


 彼女の持っている蜂蜜のリップクリームの香りのせいかもしれないが、くるみ自体が糖度を持っている気がしてならない。


 それすらも味わい尽くすように唇で優しく優しくついばみ、はんでいくと、与えられた未知の衝撃にくるみも時折びくりと体を揺らしながら、しかし逃げることも中止を求めることもなく、ただ身を委ねている。


 ——ああ駄目だ。止まれるかな……これ。


 普段の落ち着いたメゾ・ソプラノからは考えられないほどに甘ったるく喉を鳴らすのを聞くと、へその辺りに言いようもない高揚がぞくりと滲む。


 先刻はあんなに凛々しい目をしていた彼女が、自分だけに聞かせる声に……。


 たまらず、手を服の裾からすべりこませた。


 さすがに上のほうまで進む気はないが、なめらかで白磁のようにすべすべとした腰をなでるくらいは許されるだろう、と掌で彼女の輪郭を縁取っていけば、またびくびくと分かりやすく体が揺れた。


 こちらを見上げる瞳は涙をたっぷりたたえており、恥じらい具合を物語っているが、かといってそれは睨むようなものではなく、何かを熱望し訴えかけるようなもので。


 碧への〈好き〉の感情だけで埋め尽くされたような、そんな瞳で……。


「っ……」


 その目に見詰められ、一気に心拍が加速したせいで酸素が尽き、視界がぼやけた。


 息継ぎのため、浅瀬に浮上するように、一度離れる。


 息を整える一秒すら惜しく。それからすぐにもう一度——次はもっと深く深くに潜ろうと、再び重なった。


 初めはうかがうような、ひどく焦れったい探りあい。拙い愛情の伝えあい。


 華奢な体が根こそぎ力が失われたように、くてりと頼りなく寄りかかってくるのを掌で支えながら、ぼおっと遠ざかる別世界の出来事のように、まぶたの隙間から観察する。


 体温が熱へと昇華し、体が上から下まで貫くようにじんと熱くなる。感覚はどんどん研ぎ澄まされていくのに、自分の鼓動が煩くてほかに何も聞こえない。


 もっともっとと自分が自分を急かし立てるように、くるみを味わう。


 与えたい愛情に際限はないのに、今それを全て渡せないのがもどかしくて、愛おしさと切なさでくらくらした。


「——うぅっ。んむむ!」


 やがてか細い唸りが碧を現実に呼び戻した。


 ふらりと腰が砕けたように倒れこみそうになるので慌てて支え、キッチンマットにゆっくりしゃがませる。


 すっかりふやけきった表情はどこか心ここに在らずで、涙に滲んでとろけきった眼差しを、追い詰められたねずみのように床に落としていた。


「平気?」


「い、息をするタイミングが……分かんなくて」


「それは僕もだよ」


「え。そうなの?」


「なんか感覚でやってるところはある。何度も回数重ねれば、そのうち分かるんじゃないかな多分……」


 羞恥をこれでもかと詰めこんだくるみの頬が、一段赤くなった。


 うかがうようにして、押され気味に語尾を上げる。


「……今のを、何度も回数重ねるの?」


 何とも言えない空気になり、お互い目をまぐあわせ、それからふふっと曖昧に笑った。


 後ろからかき抱くように腕を回して、甘えるように白いうなじに頬を重ねる。


「今のはくるみがピュアなおかげで留まれた」


「あ。そういうこと言っちゃうの。いじわる」


 仕切り直しのつもりで、碧はくるみの手を引いて立ち上がらせた。


 くるみはというと、まだキスの感覚が抜け切らないようにふらふらしていたが、溜まった感情を発散させるべく、両手でこちらの頬をむぎゅっと挟むことで気が済んだようだ。


「いくら私だって毎日この時間に練習すれば、息継ぎくらいできるようになるもん」


 と言ってから、はっとして慌ててつけ加える。


「あ……今のは別に毎日したいって言ったんじゃなくて」


 どうやらその勇気はまだないらしい。


「水泳じゃないんだから。……けどそれ、捉えようによっては毎日すれば出来るようになるってことで……。あーでも」


 碧がぶつくさ呟くのをマイナスの反応と捉えたのか、くるみは複雑そうに眉を下げる。


 勘違いさせるのも嫌なので、すぐ訂正を掛けた。


「いや。ちょっとくるみに言わなきゃいけないことがあるんだけど————」


 試験前、湊斗に依頼したことを碧はそのまま、素直にくるみに話した。


「碧くんがバイト?」


 当たり前だが、それだけじゃいまいち要領を得なかったらしい。


「何かほしいものがあるの?」


「少し違うけれど、そんなところ。今までも時間のある土日の隙間だけ、その日限りのとこに働きに行ったりはしてたけど、それじゃ思うようにお金も貯まらないからさ」


「来年は受験生なのに……大丈夫なの?」


 こちらを案ずるような真っ当な問いと共に、くるみは首の角度を深める。


 早い人だと二年進級の春から対策をしている人もいるが、本格的な受験勉強にはいるのはこの時期が多いだろう。


 はぐらかすつもりもないので、きちんと理由を説明した。


「バイトは来年の初秋くらいまで続けて、あとは春まで休ませてもらう。それまでに目標金額は達成できると思うから。親御さんに挨拶する時、仮に卒業後の話をするってなったとしても……お金のことは卒業してから考えますより、今のうちから少しでも貯金していたほうが、見送るほうも安心するだろうしさ」


「それってもしかして私の——」


「ためじゃなくて、僕のため」


 言葉を先取りされたくるみは瞳をぱちくりさせていたが、若干呆れたようにふぅと息を吐いて、仕方ない人と言わんばかりに笑う。


「碧くんってぜったい、私のためだって言おうとしないわよね」


 くるみは口許のゆるやかな弧は保ったまま、困ったように眉を下げた。


「……ずるいなあ。そう言われたら寂しくても、がんばれって言うしかないじゃない」


「なるべく寂しい思いはさせないように、他はちゃんとくるみを優先するから」


「んーん。碧くんが折角がんばるって決めたのに、わがままで水を差すようなこと、私言えない。だから別に碧くんが決めたことなら、私はとやかくは言わないわ」


 白い手が伸びてきて、碧の髪をもふもふと撫でてくる。


 穏やかに、年上のお姉さんが弟を宥めるように、くるみはゆっくり言葉を紡いだ。


「寂しくなるは事実でも、自由なあなたに憧れたのに束縛なんかしたくないもの。やるならやるで妥協せずに、ちゃんと与えられた仕事をこなしてくれたほうが私も嬉しい」


 それはとても、彼女らしい台詞だと思った。


「うん。ありがと」


 自分は、業突くばりだ。


 進学もくるみとの将来も、どっちも諦めたくはないのだから。


 何もせずに全てが上手くいく人は存在しない。想像が及ばないほどに限界までに完璧主義とストイックを突き詰めたその努力量こそが、彼女を優等生たらしめているように。


 常に一番であり続けた稀有な自信と、それを結果で肯定する清い生き方。それに碧は今日、心を撃ち抜かれた。


 だからこそ、思うのだ。


 ——そんな彼女の隣でこれから人生を共に歩むには、僕が登ってかなきゃいけない。


 くるみが手を差し伸べに、降りてくるのを待つのではなく、自分から。


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