第193話 まだ見ぬ明日へのスタートライン(2)
しばらく紅葉狩りを兼ねた散歩を続け、やがて行き着いたのは、川の下流だ。
とはいっても、都会の住宅街を下る川なので、柵を飛び越えない限り水辺には近づけないのだが——ここらにとっておきのスポットがあることを碧は知っていた。
くるみの目は早速、気づいたらしい。
「ふわあ……っ。猫いるっ」
首都高が走る大きな橋りょうの下で、まず太い柱の影に二匹。そこから先の草むらに一匹が、気ままに寝転んだり、こちらを見つけて警戒のままにじっと見てきている。
「ここ、猫の集会があるっぽいよ。ただ今日はちょっと少ないな」
「集会……」
くるみは逃げないようにボリュームを抑えながらも、しかしいつになく上機嫌だ。
にこにこと口許に小さな三日月を築いている。
「碧くんってなんでも知ってる」
「前に通りかかった時に偶然見かけただけだよ。首輪ついてる子もいるっぽいね。人慣れしてたしきっとどっかの家の子なんだろうな」
あんまり猫の種類には詳しくはないが、あのしましまはきじとらで、トリコロールは三毛猫で、もう一匹の首輪ちゃんは、ロシアンブルーのようなグレーの毛並みに青い瞳。
文鳥のモチとたのしそうに遊んだりと、くるみが動物大好きなことは知っていたので、もし猫を見れたら——と目論んでいた。居ない日もざらにあるので、今日はどうやら運がよかったようだ。
ごうごうと車の走る音にまぎれるような、小さな声で言う。
「ちなみにここ。猫の集会があること、くるみ以外の誰にも教えてないよ」
「え——」
「くるみだけの秘密の場所にしていいから。だから、好きな時に来ていいと思う」
表情をうかがう限り、碧の目論見は多分ほんの少しだけ外れていた。
くるみの伏せった瞳には、シンプルな喜びだけじゃない感情が見えていたからだ。
「……ずるいなぁ」
裏腹なぼやきが、その証拠に思えた。
「ずるい?」
「だっていつも碧くんは私の気持ちを分かっちゃう。どうしてそんなに私の気持ちを汲むのが上手なんだろうって。だから、ずるいなって。……だからその上で、ありがとうも言っちゃうね」
はっとしてから、きゅっと口を結んだ。
それこそ、くるみのほうがずるいと思った。
実は先日の進路面談のあと、くるみは少しだけ元気がなさそうだった。ただ、好きな子が落ちこんでいるのは自分も嫌だからさりげなく気を回したつもりだったのに、それが結果読まれていたのだ。
くるみは好奇心をあらわに、ぐいっと一歩こちらに詰め寄る。
「実は『くるみの取り扱い説明書』を持っていて、それが秘訣だったりする?」
「あはは……なんだそれ。ただくるみが可愛いなって思って日頃から見てるだけだよ」
「わ。はぐらかそうとしてる。碧くんがなんの脈絡もなくそう言う時は、決まってはぐらかす時だって知ってるんだからね」
まるで平気そうに言い返すのだが、頬はうっすら朱を帯びていて、くるみが照れていることを明確に示していた。
高架下で近くには人っこひとり……いや猫しかいないのだが、その猫達の鋭い瞳孔にいちゃいちゃを見られるのもあれなので、碧は小さく咳払いをする。
「僕が前に来た時はなでさせてくれたからくるみもやってみたら?」
「うん!」
くるみは一刻も早く猫と遊びたいようで、スカートを折りながらしゃがみこむ。
「ほら、怖くないよ。おいでー」
そわそわしつつもすこぶる慎重に手を伸ばしたが、一定のラインを越えた瞬間に一匹がすさまじい速さで走り去ってしまい、しゅんと落ちこんだ。
「行っちゃった……」
「猫は勝手気ままの気まぐれだからね。二匹は残ったんだからあっちから近づいてくるのを待ってみたら?」
「う……そうしてみる」
くるみはアドバイスに素直に頷くと、近くのベンチにちょこんと座って、そわそわと猫の到来を待ち始めた。その間、なんとも律儀なことに手をおひざにしているので、思わず笑ってしまいそうなのを堪えた碧は、同じくベンチの隣に座る。
やがて二匹が、にゃおんと高らかに鳴きながら近づいてきた。
相当人慣れしているようで、ぴょこんとかろやかな動作でベンチに飛び乗ると、そのまま二匹ともがひざの上に乗って優雅に前足を折りたたんでしまう。
——あろうことか碧のひざに。
今励ましてほしいのは僕じゃないんだよと言いたいが、暢気にあくびまでしている猫相手に言ったところで、だ。
隣からちくちく羨ましそうな視線が飛んでくるのは、きっと気のせいじゃない。
「……ずるい」
「今度は本来の意味でのずるいだよね?」
「そうだけど、どっちに対してのずるいなのかはご想像にお任せします」
「どういうこと?」
「分からないならいい」
ツンと氷柱のような返事をするものの、その眉がまた八の字になる。
「——ところで、私のことなでようとしてるのはどうして?」
気づけば碧の手がくるみを可愛がっていたことに、当の本人は困惑気味。
いつもは喜ぶのに、今日は複雑そうなのは、なでてるポイントが喉だからだろう。
「猫がもう一匹いたなって思って」
「あ。ひとを猫扱い。しかもなでればご機嫌取れると思ってる。それに私べつにこれくらいで怒ったりなんかしないもん。いいなあって思うだけで」
「その『いいなあ』の空気だけで僕は参っちゃうの。ねこじゃらし持ってきたからこれで遊んでみたら?」
たとえばくるみが横で物ほしそうに碧のアイスを見てたら丸ごとぜんぶあげちゃうだろうし、迎えに来てって言ったらすっ飛んでいく。いや、言われる前から改札の前で待ってるだろう。
湊斗にはひどい溺愛っぷりだと呆れられそうだけど、そのぐらい彼女には常に幸福でいてほしいのだ。
くすっと「やっぱりはじめから猫が目的」と笑うと、くるみは碧から猫じゃらしを受け取り、それからぴょいぴょいと小刻みに振った。
すると一匹は高みの見物みたいな可愛げのない目を向けて微動だにせずいたが、飛び降りたもう一匹は丸い目をきょろりと動かして、紐に下がった羽根にじゃれついている。
「かわいい」
「可愛いね」
お互い猫に見惚れる何となしの時間がながれ、やがて猫じゃらしがゆっくりと力なくコンクリートに垂れる。
ロシアンブルーが今だと言わんばかりに羽根を抱えてごろつくなか、か細い呼びかけが、隣から聞こえた。
「……あの。ちょっとだけ話、聞いてくれる?」
「うん?」
「碧くんはもう気づいてるからここに連れてきてくれたんだと思うけど……進路のことで」
ああ、と碧は唸った。
「そういえばまだ聞いてなかったよね。くるみの行きたい大学」
くるみは静かに頷く。
「私が考えていたのはね、都内の大学。通学の時間を考えて家を出るにしても、親にあんまり心配はかけたくないから、何かあった時に実家に戻れる距離で、きちんと関心のある分野が学べる——つまり進みたい学部があるところで、あとは私の成績で問題なくはいれるところ。そう考えたら、たまたまだけど私も、教院大学がいいなって」
「……うん」
「君が一緒に暮らそうって言ってくれた時に、私からもこのこと報告できたらよかったんだけど、これはこれで提案とは関係なしに、結構前から考えて最後まで決めかねてたことだから。白紙に戻ったらぬか喜びさせちゃうかもだし、その場の勢い任せじゃなくて、ちゃんと納得して決断してから伝えたいと思ってたの」
「そっか。くるみも自分なりの進路、見つけられたみたいでよかった」
もし万が一に遠方の地方の大学を受ける、なんて切り出された時のことは何も考えていなかったので、ひとつ肩の荷が降りた感覚だった。
碧としては大学が違くても、その中間で家を探して一緒に住めればよかったところに、思わぬ展開。降ってわいた幸運……とはまた違うが、愛する彼女が自分と同じ大学を志望してくれているのは、とても喜ばしいこと。
ふたりとも受かれば、四年間同じキャンパスで一緒にいることは確約されるわけだ。
その後は、碧が大学院へ二年間、オーストラリアに行く予定なので、大学で一秒でも多く一緒の時間を送れるのは、ものすごく貴重でありがたい。
くるみがむりに碧に形に嵌まろうとしたわけではなく自分で選んだ結果なら、なおさら理想のかたちに落ち着く。
「他の人の当たり前を知らないまま生きてきた私だから、ただ小説や物語を読んだだけで、実際に何かを味わわないまま、何となくそれで十分なんだって思ってた。でも碧くんのいろんな話を聞くうちに、ぜんぜんそうじゃないって気づけて。伝聞と、自分で見て世界の広さを知るのって、百八十度違うんじゃないかって。だから大学ではもっといろんな経験値を貯められたらなって思ってる。……ううん。そうしたい」
とりたてて重くもなく、むしろ遠くを見透すようにキラキラと明るい口調で、説明はすんなりと返ってきた。
つまり、迷っているのはそこじゃないということだ。
「……でも」
くるみの語調がここで重くなる。
「母にまだ言えてなくて」
それはある程度の予測のついたものだった。
「……そっか。お母さんはなにか考えがあるの?」
「兄と同じ大学に行ってほしいって。そこは親戚が理事長をしてるんだけど、有名私大で知名度もあるし、世間の評判も上々だし、兄は一人暮らしをしたけれど家からも通える距離だから、娘の私が通うことになってもそこなら母も心配ないだろうって」
そうだよな、と碧はくるみに聞こえないように唸った。
親は娘の将来を案ずるもの。今まで聞いてきたくるみの母親像を聞くに、それがだいぶ過保護な方向に働いているようだが、それはきっと、根っこに心配があるからだ。
遠回しにだが、娘の一人暮らしも反対——どころか初めから考慮にすらいれていないところからも、それが分かる。
本人にしっかりした軸がないから親が心配する、というのはありがちだが、むしろくるみの考えは、高校二年生にしては妥当だろう。初めから将来の目標やなりたい姿が決まっていてそれに対して大学を選ぶ碧が稀有なのであって、本当は進路選びなんて、先輩がみんなそこに行ったからとか、就職に有利だからとか、たとえば昔からなんとなく憧れていたからとか、後は自由な大学生に羨望を抱いたとか——そういう曖昧な理由でも十分だと思う。
というか、大抵はそういう要素を取っ掛かりに決めていくしかないはずだ。
だから別にくるみは何も間違ったことは言っていない。
きちんと伝えさえすれば、なんとか希望の光が見える気がするのだが……
「言えない理由が、あるんだよね?」
くるみは叱られた子供のように睫毛を伏せ、ゆっくり言葉を選ぶ。
「……うん。でもなにか重大な理由がある訳じゃなくて。ただ、私がなんとなくこうかなって手探りで選んだ理由より、兄の進路も見守ってきた母の言い分のほうがきっと、ずっと筋が通っていて、娘の将来像もしっかり見えているんだと思うと……どうしても」
その気持ちは分かる気がした。
——高校生にもなれば、将来を語るのに説得力が必要なんじゃないか。
きっとくるみはそう思っているのだろう。
かつて十数年前に自分と同じ道を辿ってきて、さらに正解を選んで今に至った親を、納得させるだけの筋道を。そのうえ相手は、大学教授ときた。
けれど、厳しい世の常というものがある。
自信がないひとの言葉を、他の人はもっと信じてくれないという事実。恋人の碧はくるみのどんな言葉も信じ応援するが、子供の将来に責任を持つ親は、十七年面倒を見てきたとはいえ……いや、だからこそ、我が子が選んだ道を肯定しきれないなら他の堅実な道を勧めるだろう。
「今までもね、言えたことないの。いつも母は正しかったから。言うことを聞いていれば、成功は保証されてた。引き替え私は、大都会の真ん中にあるキャンパスでメイクをして私服を着て、自由にキャンパスを歩いている自分を、今はまだ想像できてない……けどっ」
そこですっぱり今までの憂慮を切り落としたように、伝えるのはあくまでここまでだと強調するように、立ち上がって声を上げる。
「それは私ががんばることだから。ちゃんと母に伝えて、教院大学を目指す」
柱のむこうから差しこんだ日差しで逆光になり、その決意の表情は見えなかった。
「幸せは自分の手で掴んでいけるはずだもの」
「……偉いな。くるみは」
「だから今のは相談とかじゃなくて、私なりの決断のご報告。碧くんに言ったらどんなことでも叶っちゃう気がするから、おまじないみたいな感覚で」
「まるで僕が神様かなんかみたいだよ、その言い方だと」
「お供物しなきゃね? ほうれん草のおひたしとか、だし巻き玉子とか」
「それは喜んでいただきます」
くるみはベンチに座り直すと、ふふっと上品に笑った。
「やりたいことリストに書いたこと、碧くんがほとんど一緒に叶えてくれるんだもん。私なんか、いつかやれたらって思っててなかなか行動に移せないことでも、これ今日出来るんじゃないって言ってくれて。それがすごく……心づよくて、頼りがいがあって」
優しいトーンでそう言うと、鞄から古びた手帳を取り出し、ぱらぱらと捲って最後のほうにあるページを開いた。
彗星を見に行くから始まったそれは、今や結構な数にチェックと日づけが記されている。
もちろんそれはクリアした証だ。
「だから本当はね、碧くんと一緒に住むのも、やりたいことリストに書こうかなって思ってた。でもそしたらきっと碧くんが主体になって私を引っぱって、せいいっぱい叶えてくれようとするでしょう? でもそれはあなたに頼り切りにするみたいで違うのかなって」
「くるみ……」
碧が何か言いかけたその時。
丁度会話に交ざるように、なぁーんと猫が鳴いてくるみのひざの上に飛び乗った。
「きゃっ——あっ碧くん……見て! ねっ猫さんがっ!」
どうやら猫じゃらしで遊んで貰えなくなったのを拗ねて、困らせようとしているようだ。構えと言わんばかりににちらちら横目で見ながら、どっしりとスカートを陣取っているので、おいそこは僕の席だぞと大人気なく乱入したくなった。
だがくるみはこの瞬間を待ち望んでいたので結果は Win-Win ——感動に打ち震えながら目を輝かせるくるみに、見てるこっちも嬉しくなるなと思いつつも同時に、大事なところを猫に持っていかれたなと苦笑する碧。
「じゃあ、それがくるみの今年最大のクエストだね」
「うん。……がんばる」
くるみは小さく両手で拳を握る。
「もうすぐ中間もあるから、そこで一点でも多く稼いで、説得材料にしなきゃ」
「くるみなら日頃からがんばってるし大丈夫だよ」
喉をごろごろ鳴らすひざの猫をなでながら、碧はうっすらと笑った。
「したら僕のクエストはもう決まってるな」
「碧くんは何をするの?」
「同じく次の試験でいい点とるのはもちろんだけど……もうひとつ」
そっと目配せをした。
「近いうちに、くるみのご両親に会わせて。もちろん僕らはまだ学生で本分は学業だし、すぐに説得できるとは思ってない……けど、住むにしても住まないにしても、挨拶はいずれ必要になると思うから。思い立ったが吉日と善は急げに則って、動くのは早いほうがいいと思うしさ」
くるみは黙ったまま少し放心したように、こちらを見ていた。
「もしかして駄目だった?」
「あっ。ううん。何でもないの! ただ、どんどん前に進んでるなあって」
「くるみを連れて一緒にドイツ行く話はうちの家族にはしてるから、僕の親はそのときに改めて紹介するよ」
「う。うん」
「あはは。真っ赤だけど大丈夫? もしかして照れてる?」
さすがに今回は何が原因か分かっている。ただの恋人関係からより牢固たるつながりへ、一歩踏み出そうとしているのだ。
それを踏まえて、さっき紅葉のくだりで言われたのをそのまま意趣返しをしたのだから、いじわるなことこの上ない。
「…………うん」
だが、くるみはきゅっと口を結び、頬を火照らせたまま、ものすごく小さい声で素直にこくりと頷く。いかにも思わず守ってあげたくなる様相に、うっと息が詰まった。
なので碧はすっかり、ピュアで可愛らしい彼女を、これ以上掌で転がすことはできない気持ちになってしまうのだった。
「……だからまぁ、明日すぐって訳でもないしそんな緊張しなくてもいいから。ね?」
こくこく。亜麻色の絹束が焦れったく揺れる。
日和った碧に、にゃおーんと。猫が二匹揃ってからかうような合唱をした。




