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第192話 まだ見ぬ明日へのスタートライン(1)


 かさり、と隣のローファーが、歩道の朽ちた落ち葉を踏み締め、自分のスニーカーの奏でるのんびりしたマーチに裏拍子を刻む。


 いつもの銀杏並木はすっかり黄金に染まり切り、名も知らぬ木々も絵の具で塗ったようにどれもがあざやかに紅葉していた。


 出して間もない長袖のパーカーは、霜月の寒さから身を守るには少しばかり心許なく、冷たい北風がざぁっと吹いては、碧の肩に垂れた手編みのマフラーの裾をさらって、ぱたぱたとはためかせていく。


 ——それは、彼女と出会った透明な冬の季節が、もうすぐまた巡ってくる兆しだ。




 碧の誕生日から、二週間。


 その日を最愛の人たるくるみと一緒に過ごした碧は、学祭を終えてすっかりいつもどおりの落ち着きを取り戻した学校の帰り、寄り道のためにわざわざ電車に乗って、しばらく揺られたところで降りていた。


 今歩いているのは、川沿いの遊歩道。


 あんなにそわそわして皆が待ち侘びていた学祭も、終わってしまえばただの思い出の一ページ。とはいえ帰ってきた日常に、はじめ皆はまだ浮かれた気持ちを戻せぬまま、しかたなく通学路を歩いているように見えたのをふと思い出す。こういう名残惜しさは、夏休み明けと一緒だ。


 そっと、隣に目をやる。


 見慣れた亜麻色の髪の少女は——あの日、碧の氷雪を陽だまりのようにとかしてくれたくるみは、こちらが盗み見ていることなど何も知らないまま。夕焼けをキャンバスに、繊細な髪を優しく揺らして、淡く幸せそうなほほ笑みを浮かべ紅葉を愛おしそうに眺める。


 その姿があまりに眩しくて可愛くて、その光に灼かれてしまわないように、碧は思わずすいと目を逸らす。


 自分の過去を打ち明けたあの日から、くるみはもっとたくさん甘えるようになったし、もっとたくさん甘やかしてくれるようになったと思う。


 たとえばこんな風に……。


「碧くん碧くん」


 ふとこちらを呼んできたくるみが、何か訴えたげに、つないだ手をぶんぶんと上下に振ってきた。


 見ればどこか寂しげな目で、くるみがこちらの様子をじっとうかがっている。


「なに? どうした?」


「……そっち駅の方角だから、もう帰っちゃうのかなって」


「ああごめん。ぼーっとしながら歩いてただけ。まだつきあうよ」


 するとくるみは、そっか、と安堵のため息を吐き、それから淡くはにかんだ。


「碧くんとこういう風に寄り道するの珍しいから、まだ帰りたくないし……それに冬の時期にこうして手をつなぐの、温かくて、碧くんとひとつになれてるみたいで、いいなって思ってたから……もうちょっとこのままでいたくて」


 喉を詰まらせつつあたりを見渡せば、なるほど、視界にはちょうど誰もいなかった。


 明らかに人の目があるときは鉄壁な優等生の猫をかぶりがちなのに、二人きりだと急にこの反則発言だ。自覚あっての事かは知らないが。


「……そういう危なっかしいこと、今後も僕の前でしか言わないでね。ぜったい」


「? どうして?」


「どーしてもです」


 そんな訳で、すっかり甘えんぼになったくるみに、碧はもうたじたじだった。


 もう秋も終わりだと言うのに、季節外れの熱中症になってしまいそうだ。


 でも肩の重荷をすっかり下ろしたくるみが、こちらに預けてくれるようになったことが、碧も嬉しかった。もう誰にも……本人にさえも『甘えんぼはくるみの対義語』なんて言わせたりはしない。


「ところでリストのほうは今どうなってる?」


 話題を逸らすと、彼女がむむっと可愛らしく唸りながら、手許の分厚い日記に目を落として言う。


「これって〈紅葉狩り〉にチェックつけていいのかな」


「ここまで散歩して紅葉狩りしてない扱いになるなら、僕が神様に抗議しに行く」


「じゃあこっちの〈秋の味覚をたのしむ〉は?」


「今から栗団子でも買って帰ろう。あとは今日できそうなのある?」


「一つしたは〈ちぎりパンを焼く〉で、その下は〈有名なシュトーレンを取り寄せて味比べ〉だから……今度かな」


「それは時間がかかるからまた明日以降だね。……にしても、くるみって自分の得意分野っていうか……好きな物への探究心はすごいよね。見事に料理関連だもん」


「あ。私のことくいしん坊だと思ったでしょ」


「君がくいしん坊なら、僕は相撲取りなみの健啖家になるって」


 今日ふたりでしていたのは、くるみがこつこつ日記の余りページに書き溜めた『やりたいことリスト』のクエストクリアの旅だった。


 勉強と習い事以外に縁のない人生を送ってきたくるみの、やりたいこと。


 碧の手伝いもあってここ半年で結構埋まってきたが、初めてのことやしたことのないことはまだ沢山ある。


 そのうちの一つ——ちょっとした紅葉狩りができることを期待して寄り道した川辺で交わしたのが、たった今の会話だ。


 半分は紅葉を見るよりもさっきのいちゃいちゃがメインだったけれど、花より団子が世の常だしそこはご愛嬌。


 くるみが日記を閉じ、ぱたむと空気を押し出す音が立った。


「とにかく、未知の味を勉強するのも料理の上達には大事だし、シュトーレンだって今からいろんなパティスリーの味を知っておけば来年は自分の好みの味で再現しやすいと思うから、これも勉強のうちなの」


「自分で焼く前提とはお見それしました」


「お見それされました」


「まぁリストを埋めるのが目的じゃないんだし、くるみは人生急ぎすぎないようにね。僕が一緒にいるときはなんだって手伝うし、力になるからさ」


「……ナチュラルにそういう格好いい事を言っちゃうの、ほんと碧くんしてるってかんじ」


「僕の名前っていつから動詞になったの?」


「それは私が知りたいくらい」


 恥ずかしくなったのか紅潮を隠すように、ぷん、とくるみがそっぽを向く。


 その拍子に、後ろを向いた栗毛に、舞い落ちた紅葉(もみじ)が一枚引っかかっているのを見つけた。


 くるみは生まれつき色素が薄いから、燃えるように赤い楓の葉はやけに目立つ。

 そっと取ってやると、澄んだ透明なヘーゼルの瞳がぱちぱちと瞬いた。


「これついてた」


「えっ。嘘」


「くるみが乗せてると髪飾りみたいできれいだから、そのままにしようかなとも一瞬思ったんだけど」


「も、もう。そういう碧くんのほうが似合うんじゃない?」


 突然くるみは何を思ったのか、紅葉を受け取ると、こちらの髪のあたりにかざしてくる。


「ほら、きれい。かわいい」


 葉っぱを抓んで、愛おしそうにこちらに手を伸ばすくるみが、夕陽に照らされて儚く染まっている。それがなんだか面映くて、見てはいけないもののように尊く眩く思えて、碧はそっと瞳を伏せた。


「僕には見えないから分からないよ……」


「碧くん真っ赤だ。紅葉みたい。もしかして照れてるの?」


「こら。ひとをからかうのはやめなさい」


「ふふ……鞄貸して?」


 やんわり叱るも効いた様子はなく、彼女はくすくすとあどけなく笑って、碧が持ってやってたスクールバッグから取り出したハンカチで紅葉を折れないようにそっと包むと、学校で出される課題を管理しているクリアファイルに挟んだ。


「お土産にするんだ?」


「持って帰って、栞にするの。そしたらこれを見た時、いつでもこの紅葉みたいに、今日のこと鮮明に思い出せるでしょう?」


 くるみの発言と同じくらいきれいな回答を見つけることができなかったから、碧もさっきのくるみの仕草を真似っこするように、片手を再び絡ませてからぶんぶんと上下に振って笑って見せた。


 歩みを再開すれば、風で僅かに漣立(さざなみだ)つ冷たい川のみなもには、ゆらゆらと陽炎のように、はげしい色彩のせめぎあいが揺れている。


 突風に追われるように、一羽の鴨が波紋を残して空へと飛び去り、民家の屋根の向こうに見えなくなった。


 かさかさと鳴る木々の葉擦れを聞きながら、ふと想念に沈む。


 ——ここ最近で、いろんなことがあったよな。


 今日までの二週間を、碧は優しく両手ですくいとるように思い出した。


 語るならばまずは、くるみがすごいお祝いのしかたをしてくれたとこからだろう。


 夢の大人様ランチも素晴らしかったが、驚くべきはパフェだ。碧の好みにあわせたデザートをいくつも詰めこんだグラスは、味自体は糖分控えめなのにむしょうに甘ったるく思えたのは、くるみが手ずからスプーンであーんしてたべさせてきたからに他ならない。


 そして後日。そのときのごちそうがいかに美味しかったかを語った相手が、ルカ。


 学祭のおかげで振替休日だったので、くるみと三人で都内巡りを決行していた。


 休み明けには、碧が誕生日だったということを知ったクラスメイトが、きゅうきょ購買で調達してきたお菓子を持ち寄って、お祝いしてくれた。


 琥珀とはまた会うことはなかったけれど、電話でおめでとうと言ってくれた。


 学校では進路面談があったり、そろそろ二学期の中間テストがあるからと、推薦を目指す人たちは内申点のためにぴりついた空気を出したり。


 あとはいつもどおり。くるみが週に何日かうちに来て、親がいない日は一緒に夜ごはんをする。後片づけをしたらゆっくりお茶を淹れて勉強をしたり、息抜きにお喋りをしたりテレビを見たり。夜道は危ないのでもちろん碧が送る。寒くなってくると日が短いから、ちょっと過保護かもしれないが夜十八時以降の送迎は欠かさない。


 ——もし一緒に住めば、そんな問題も気にすることはなくなるんだけどな。


 そんな希望を言葉にしたのは、誕生日を迎えた朝。


 あの時、大学から同棲の提案をした碧に対し、くるみはしばし驚きを見せた後、ほんのりと頬を上気させながら……



『うん。私も碧くんと一緒に、住みたい。住んでみたい』


 

 と、はにかみと期待と熱に瞳を潤わせつつも、しっかり了承の意を示してくれた。


 もちろん引くほど嬉しかった。まだ見ぬ先に小さな戸惑いはありつつも、くるみは自分の提案を受けいれてくれた。彼女の答えは碧の心に、またひとつの道しるべとなる温かな光を宿してくれたのだ。気持ちは紙吹雪のように舞い上がって、今すぐミュージカルみたく歌い出してしまいそうなくらいには嬉しかった。


 でもそれだけだ。


 何かその場で、話の進展があった訳じゃない。


 それができなかったのは、当たり前だが僕たちは高校生で、互いの親の意向なしに決める権限を持たないのと——くるみの笑みの裏に、小さな憂愁が隠されているのが僅かに透けて見えたから。


 くるみの将来設計において、親と考えがあわないのはもうすでに知っている事実。


 だからこのふたりのささやかな目標を叶えるにあたり、そこの和解は避けては通れない。


 それが彼女の負担になることは分かっているから、話はここまで、と線引きをした。


 碧が先導して伝書鳩のように間を取り持つのも……なんだか違う気がする。


 そうしたら、くるみの矜持とかを踏みにじってしまう気がするのだ。


 くるみが碧と琥珀の間にある目に見えない絆を尊重して、見守ってくれたのと同様に。


 これはあくまでくるみが立ち向かうべき家族の問題であり、今のところはまだ他人である碧ができるのはそれを支えることと、もし彼女に何かあった時に全力で守ることだけ。いくら彼女といえ将来のことに口出しはできない。いや、してはいけないこと。


 だから今のところは、この提案の続きは心のうちに仕舞っておこうと思う。



 それはそれとして——今の自分にできることの算段は、きちんと立てながら。


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