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第190話 出逢いの前夜

・このお話は「第1話 僕は白い妖精を見つける」の前日譚です。

・次回の更新から第5章開始します。





〈明日の土曜は関東にて、雪やみぞれとなりそうです。例年よりかなり早い初雪予報ですが、気温もぐっと下がりますので体調管理には十分お気をつけください——〉



 高校一年の冬。日の暮れかけたカフェバーで、有線を伝ったAMラジオの気象予報に耳を傾ければ、お天気お姉さんがそんなことを淡々と説明していた。


 雪、と言われても今さらはしゃぐ年頃でもない碧は、とくに何か感慨があるわけでもなくあたたかい壁にかこわれた空間で、黙々と数学の課題を進めている。


 たゆたうのは芳しいコーヒーの香り。


 よく遊びに来るこの店は碧にとっての第二の家のようなところで、こうして我が家のようにノートと問題集を広げても何も言われず、湊斗の父であるマスターはおかしな鼻歌を鳴らしながらビールを運んでいる。


 するのは大体、他愛のないお喋りとか課題、あとはふたりでボードゲームをしたりだ。


「明日雪だってさ」


「今聞いたから中継しなくていい」


 隣に座った湊斗がラジオと同じことを言うので、問題への集中を切らさないようにしながら淡白に返答。


 私服でいる彼は今日お店の手伝いをしない日なので、こうして碧の横で客の風格を醸しながら時折ちゃちゃをいれてくる。


 その視線が訝しげに注がれるさきは、背もたれにかかったマウンテンパーカー。


「お前、明日もその格好でいる気?」


「そうだけど。分厚いコートとかぜんぶドイツにおいてきたし」


「凍える気まんまんか」


「あんまり風邪引いたことないからいいんだよ。あとこれ見た目より結構あったかい」


「今年は引くやつだぞ、それ。フラグだ」


「確かに?」


「そこは同意するなよ」


 横からみょんみょんと肩を突いてくる。


 ここで勉強をすることの唯一の欠点は湊斗がちょっかいをかけてくることだと思う。


「第一、面倒みてくれる人もいないんだからもっと体調管理ぐらい気をつけとけって」


「湊斗が来てくれるだろ」


「そこで俺を頼るのかよ。まーしてやらんこともないけど」


 若干照れたらしく、まんざらでもなさそうに頬をかいていたが、べつに湊斗を照れさせても何も嬉しくないと思う情のない碧だ。


「でも勿体ないよなあ……俺なぞに頼らんでも彼女つくればいいのに。そしたら面倒どころかデートも出来るし、碧の日本での充実度は出世街道まっしぐらだぞ」


 なぜか会話のテーマは恋愛へ。


 碧は問題への集中を取りやめにして息を吐いた。


「想像するのは勝手だけど、別にそういうのはいいんだよ。今はほんとに」


 すると湊斗はへっと鼻で笑って揚げ足を取る。


「でも今はってことは、いつかはいいってことだよな」


「……まあ。一生独身はさすがに寂しいし嫌かもな」


「じゃあ結婚するならどんな人が好みなんだよ」


「犯罪しない人」


「おいやっぱ関心ないじゃないか」


「だから言っただろ」


 と返しつつ、それは少しだけ的外れだ。


 言ってしまえば、彼女は要らないと本気で主張する男子高校生なんか、結構根気よく探さないと見つからないと思う。それくらい大抵は彼女がほしいはずだ。


 碧もまた例に洩れず欲がない訳ではない。がそのためだけに恋愛したいかと訊かれればそれは否で、誰かと感情のつながりを深めることに対し、より優先度が高位のものがあるというだけなのだ。


 そういう碧の価値観を湊斗も知っているため、これ以上何を言うでもなく結論を出した。


「もう同じ家に住まわせるみたいなさ、あとは毎日会うだけの理由が初めに存在するみたいに、むりやりにでも距離を近くしない限り、お前は恋愛に進展しそうにないよな」


「それってどんな人?」


「……住みこみの家事手伝いを雇うとか?」


「お金持ちかよ」


 碧が突っこんだのを最後に会話が終わり、湊斗がにわかに席を立つ。


 窓辺に歩み寄ると、白く曇った窓を手できゅっと拭い、空を見上げた。


「なんか今日から降ってもおかしくなさそうだよな。今冬一の寒さ更新してるし」


「降られても困るな。ちょっと早いけど帰るか」


 勉強道具一式を閉じて立ち上がると、デイパックに詰めていく。


 平凡な日々。なんでもない毎日。他愛のないばかなお喋り。


 これが今のところの、碧の日本でのルーティーンだ。


                *


 改札を出た後、ガードレールの横をゆらゆらと深海の灯火のように揺れる車のテールランプに追いこされながら、ワイヤレスイヤホンで耳を塞いだ。


 ピアノの名曲集を集めたアルバムから、琥珀がよく練習していた曲の名を押す。ラフマニノフの協奏曲第二番——世界で最も美しいメロディと言ってもいいほどのそれはしかし今、聞き手に与えるのは甘く優美な夢想ではなく、重く切ない現実だ。


 天才と称された琥珀の指から奏でられる音はいつも華麗で格調高いものだった。練習を一緒にしていたおかげで自分も多少の心得はあるが、どんなに難易度の低い曲だって、碧が彼の音を再現できたことは今まで一度たりともなかった。というよりは……自分は聴くだけで十分すぎるほどだった。


 それだけで幸せだったのだ。


「……やっぱり今は考えるべきじゃないよな」


 湊斗はさっきああ言ったが、碧には誰かとの友情とか恋情よりもずっと、優先せねばならないことがある。もっと高い言語の壁を跳びこえるため、やることは沢山あるのだ。


 それを思うと僅かに歩調が鈍るが、立ち止まることも振り返ることもせず、ちょっと行儀が悪くも手許のスマホを見ながら、誰もいない家への帰路に就く。


 ——車道を挟んだはすむかいを往く、亜麻色の髪をしたひとりの少女に気づかぬまま。


 真冬に咲く芍薬のように真っ直ぐ歩く少女の視線は少しだけ下げられ、どこか愁訴たるものがあるようにも、何にも動じていないようにも見える。いずれにせよその存在に気づかぬ碧に、何か思うところはあるはずない。


 そのまま彼らは平行線の道を、少しずつ近づき……


「——……」


 言葉もないまま、ふたりはすれ違う。


 もし少女が少しでも目線を上げていたなら。もし少年がイヤホンを外していたなら。


 出逢いかたはすっかり別物になっていたかもしれないが、兎角そのもしもは両方とも実現し得ないものだから、考える必要もないだろう。


 切るような寒風が吹き遊んだ。


 何か引っかかるような感覚に碧は一瞬だけ歩みを止める。


 だがその正体は分からなかったから。


 やはり振り返ることはなく、再び自分の世界に戻った。




 ——碧とくるみ。

 ふたりが本当に出会うのはその翌日。冬の始まりの夜のこと……。

 


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