第19話 友人と道しるべ(3)
それを見て、やっぱりそうかと碧。——どうやら、正解だったらしい。
言葉を慎重に選んでから、ブランケットみたいに温かな響きになるように続ける。
「誰かに頼るのは、嫌?」
返事はすぐには返ってこなかった。あどけなく可憐な面差しをスノードロップの花のように静かにうつむかせてから、刻々と沈黙の時間が過ぎていくのを碧が見守る。
碧はくるみを見ていて、思ったのだ。
彼女が碧にここまで尽くしてくれるのは、彼女が碧に何かを求めているからなのではないか、と。
やがて言葉が見つかったらしい。箸を置くと同時に、くるみは遠くを見上げて言った。
「……別にそういうわけじゃないの。これは人と人とで関わるための……誰かに何かをしてもらうための、ただの礼儀です。何かをしてもらうには、自分からそうしなくちゃいけないの」
碧はその回答を聞いてふぅと息を吐き、静かな昼休みの時間に身を委ねる。どうやら思っていたよりも遥かに、雁字搦めらしい。一本解くのにも難儀しそうだ。
けれど一つわかったことがある。
くるみはきっと、碧の今まで見てきた世界をもっと知りたかったのだ。
あの外国の街並みが物珍しく瞳に映るくらいには、彼女は箱入りのお嬢様だった。
けれど無条件で他人に甘えることを、自分で自分に許すことができない。
だからお弁当を碧に持ってきた。碧に写真を見せてもらう口実にするために、そのための引換券にするために。それが差し入れの理由のうちの一つ目だ。
常識から考えれば、彼女の考え方は真っ当で正しくて大人なのだろう。人に何かしてもらうために対価を用意する。それは世間から見ても褒められるべき気遣いであり世渡りなのだから。くるみの場合、天に十物を与えられた才女なだけあって、かえって誰かに縋るという発想をそもそもありえないと思っているのかもしれないのだが。
その可愛らしい矜持や意地を、しかし碧はどうすることもできない。できるのはただ、今みたいに優しい言葉をかけてやることくらい。突っぱねられることは分かっていたけれど、それでも毎日碧にせっせと弁当を届けにくる健気さを見ていると、そう言ってやらずにはいられなかった。
それに、あの料理からも彼女の家の事情が察せられた。
たとえば教科書に出てきそうなほど完璧な卵焼き。けれどもそこには誰かの好みのためにたっぷり甘くしたり塩っぱくしたりといった、ちょっとずつレシピを書き換えてできる足跡が見当たらなかった。
もちろん何度もつくるなかで細かなレシピの調整はしているだろうが、それはおそらくくるみが自分の舌を頼りにしたものであって、誰かの声を取り入れたものではないはずだ。彼女がさっき言ったとおり、料理はできても誰かに振る舞うこと自体、今までなかったんだと思う。
はっきりとした根拠はないけれど、それはきっと彼女が人に頼ろうとしない理由とつながりがあるような気がした。
「もちろん無理にとは言わないですけど。くるみさんがそれでいいって思えるならそれで。ただ僕はそういうしゃちこばった礼儀のない関係の方が好きってだけですから」
返事が来る前に、続ける。
「念の為に確認しておくけれど、くるみさんが僕にお弁当を持ってきたのは〈知らなかったことを教えてもらいたいから〉……その対価のためですよね?」
やはりその予想は当たっていたみたいで、くるみは静かに頷く。
「……家が、厳しいの」
それもまた、ある意味で予期していた言葉だった。
「良くも悪くもお嬢様の宿命ってことか」
「たとえば鯛焼きは食べたこともないし、お友達の家にお泊まりしたことも、夜にこっそり家を抜け出して花火を見に行ったこともない。お祭りも雪遊びもみんな、今から向かう人たちの姿を家の窓から眺めているだけ」
「だからくるみさんはそれを今からでも知りたかった」
「いろんな世界を見てきた君にちょっぴりだけ、憧れたの」
狭い世界で生きてきたんだな、と思う。
当て所ない広さを目の当たりにしてきた碧からすれば、それは鳥籠の中で暮らせと言われているのと同義だ。
そして同時に気づいていた。その鳥籠から美しき金糸雀を外に連れ出すかどうかは——自分の手にかかっているのだ、ということを。
「あなたのことを、もっと知りたいって思った。広い世界を見てきた人が、今はどういう景色を見てどんなことを考えているのか。きっと私の道標に、なってくれると思ったから」
「……そっか」
碧は、確かめるようにまっすぐ目を合わせる。
榛色の美しい双眸に、自分の姿が鏡のように反射する。
心境はもう、移ろっていた。
誰かに知らないことを教えるということは、その人の世界に影響を与えるということだ。それがいいことでも、悪いことでも。
今まではためらいこそあれど彼女と真っ向から向き合う覚悟はなかったわけだが、そうも言っていられないということは今の発言から、ひしひしと強く感じた。碧が逆の立場だったとして、蝶よ花よと大切に育てられたところに、もし目の前に自分よりも遥かに視野が広い人間がいたとしたら——多分彼女と同じことをしていただろうから。
知りたいという気持ちに人は抗えない。
パンドラの箱に、人は手を伸ばさずにはいられない。
八年前に碧が誓いを立てるきっかけとなった、あの日のように。
「ところで、くるみさんがさっき言ったのって」
碧は思い出したように人差し指を立てた。
「……僕のことを知りたいって言ってたけど、つまり僕と仲良くなりたいってこと?」
「別にそういうわけではないです」
「そこはばっさりいくんだ……」
差し入れする理由の二つ目として、ちょっとした希望的観測を含みつつ尋ねてみると、しかしこっちは呆気なくすっぱり否定された。隣の少女は窓から差す木洩れ日の下でヘーゼルの瞳を可笑しそうに細めつつ、小首を傾げてこちらを見上げてくる。
「……碧くんは、私と仲良くなりたいの?」
「前はそんなこと欠片も思っていませんでした。住む世界があまりに違いすぎて」
「じゃあどうして聞いてきたのよ」
呆れのため息を零すくるみに、碧は話は終わっていないとばかりに続ける。
「前は、って言いました。けど今は違う。くるみさんからはどういう世界が見えているのかずっと気になっている……今はただ、知りたい」
教科書の知識をはじめとした学業はなんでも完璧な彼女。
碧の知らない温かい手料理をくれた彼女。
けれど鯛焼きも隠れんぼも知らない彼女。
奇跡みたいな調和の上に成り立つ、ちぐはぐで不条理な彼女の実情。
碧にとって彼女は、今までに会ったことのない人間だった。
くるみは一体どんなものが好きで、普段何を見て生きているのか。どんなものに価値を感じて、彼女の世界はどんな彩りにあふれているのか。
妖精姫だからじゃない。楪くるみだから、知りたいと思った。
けど、とつなげて話を戻す。
「さっきああ言ってたけど、僕にはくるみさんの道標にはなれないと思う」
黙ったままのくるみを横目で見て、淡々と続ける。
「僕は道しるべでも地図でも羅針盤でもない。そういうのそっちのけで、ただひたすら前を見ながら、野良猫みたいに好き勝手に気ままに生きてるだけ。どう考えても憧れられるような存在じゃない」
「……けれど私は、その野良猫についていきたいの。歩いたことのない怪しい路地裏とか、ぼうぼうに伸びた草むらとかを通りながら」
「そのさきに高い高ーいフェンスがあって、野良猫はぴょんと軽々跳び越えるけれど、くるみさんはぽつんと置いていかれてしまう」
「……いじわるな猫」
むぅとほんのり頬をふくらませて拗ねる様子が可愛らしくて、碧はくつくつと笑いながら言った。
「言ったでしょ、道標になれないって。……だからもしなれるとしたら、そういう一方的な関係なんかじゃなくて。同じ学校に通う同い年の友人です」
我ながらちょいと格好つけた台詞だなと思った。けれど今のくるみには、そんな行きすぎたくらいの大仰な言葉が丁度いい。
友人なら、碧がくるみのことを知りたいと思うもっともらしい理由になるだろう。友達とは、相手を知りたいと思うのが関係の第一歩なのだから。
碧の言いたいことを汲んでくれたようで、くるみはどこまでも透き通るような瞳でこちらを見て、それから呆れたように笑った。
「……かっこいいのね、君ってば」
ほわっと空気を和らがせつつ、世にも珍しい褒め言葉を零すくるみに、碧は目を丸くした。ゆっくりとくるみが眼差しを持ち上げて碧のそれと交錯したとたん、驚く男の様子が可笑しかったのか、口許にゆるく弧を描く。
「妖精姫様に言われると照れるな」
「誰ですかそれ。そんな人知りません」
つん、と不機嫌そうに横を向いて言い放つくるみに、碧はふふっと吹き出した。
「くるみさんって意外ところころ表情かわるんですね」
「……みんなが言うような人形みたいじゃなくて、嫌だった?」
なぜかしゅんとするくるみに、碧は気づけば思っている言葉をそのまま送っていた。
「いーや。可愛いなって」
呟きを零した後で、我に返る。
一瞬やってしまった、と思ったが、しかし碧を猛烈な照れくささが襲ってくることは、なかった。残ったのは不思議なまでの穏やかな気持ち。
くるみは潤んだ瞳の底に驚きを示しながら、ちらっとこちらを見上げる。しかしそれも束の間。口許をきゅっと結ぶと伏目がちになり、白い頬に火照ったような赤い波を帯びさせた。
自分のまっすぐな言葉に彼女が照れている、という事実を目の当たりにして、腹の底からじわじわと何かが込み上げてくる。
——僕が、この表情をさせてしまったのだろうか。
さっきの碧のプロポーズまがいの爆弾発言でもそうだったが……自分の何の気ない発言でくるみが感情を動かしてしまうのが、どうもこそばゆい。
キッシュの最後の一切れを頂いてから、照れ隠しに口を開く。
「別にこのくらい、学校で嫌になるほど褒め慣れてるんじゃないですか」
「……別に照れてなんかないもの。図書館の空気があったかいせいよ」
くるみもまた、一目瞭然の強がりを見せて、取り繕うように言い訳をしてきた。
どうにもなぜだか知らないが、今日のお昼は空気が甘めのカフェラテみたいに甘ったるくて困る。腹の底がくすぐったくて、むず痒い。
それを打開しようと、碧は一つの思いつきを落とした。
「そういえば……よかったら『ローマの休日』観ますか? ほら、この間本屋でちらっと言ったやつ。たぶん今のくるみさんにぴったりの映画だと思うんです。父親が昔買ったDVDがうちにあったはずだから」
碧の提案に、しかしくるみは乗っかるでもなく榛色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「どうして?」
「それは観たらわかります」
「ふうん。せっかくのお勧めなら、お言葉に甘えようかしら。早速だけど、碧くんの家は今日、都合大丈夫?」
「僕の家?」
突然の不意打ちたる発言に、口をあんぐり開けて忘我する碧。
そうか、彼女の家は厳しいんだ。事情をもっと考慮すべきだった、と発言の甘さを悔いる。
ただ一度家に上げたことがあるからといって、あの時はただ恩返しという名の義務があったからそうしただけであって、一緒に映画を見るためというそれだけのために家に来るのはもはや——
「先に言っておくと、今日も親とかは帰ってこないですよ? それでもいいんですか?」
「いいけど……それがどうかしたの?」
「…………何でもありません」
何が問題なのか分からない、といった純情な回答。
告白の疑いが晴れる前はあんなに警戒されていたのに。
おそらく碧を信頼しているからそういう発想に至らないのだと思うが、碧はなんだか年頃の高校生らしい心配をする自分が恥ずかしくなった。
ずっと書きたかった世界観の作品なので、執筆が楽しいです。
現時点では碧くん視点のみですが、今後はくるみさん視点もコンスタントに登場させる予定です。
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