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第189話 春嵐日和

・このお話は「第62話 チョコレート箱より甘い日(2)」の後のお話です。


「荒れてるなあ」


「……うん。降ってる。すごく」


 ふたりは平日の昼下がりにも関わらず家に缶詰になって、叩きつけられた雨のしぶきが波模様のごとくうねる掃き出し窓を、心配そうに眺めていた。


 立ちこめる重たい黒雲と、ごうごうと空腹の獣のように唸る風がベランダをがたがた揺する。烟る大雨のせいで、外は日暮れ後のように光に乏しく、世界が終わる一日前ではないかと思えるほど遠雷が低く鳴り響いていた。


 三月上旬に到来したそれは、春嵐と呼ぶべきものだった。


 なぜ二人が家にいるのかはもうお分かりかと思うが、この暴風雨警報により学校全体が午後の授業を切り上げて早退になったからだ。


 学校の決断が早いおかげで、雲行きが怪しい段階でなんとかマンションにぎりぎりセーフで帰宅できた。その直後に雨が降り始め、たちまち春の嵐となった。


 今はすでに電車は運転を見合わせているようで、学校を出るのが遅れた生徒たちは親に車で迎えに来てもらったり、地下鉄で振り替えてもらおうとバスの行列に並んだりと、なんとか手段を講じて帰宅を試みているらしい。


 くるみもこの荒天で外を歩くのは危ないので、しばらくうちで様子を見ることになったのだった。


「……この調子だと、私もしばらくは帰れなさそう」


 荒くれる外に釘づけになりながら、くるみが空を反映させたようにどこか曇った表情で、ぽつりと呟いた。


 またごろごろと空が低く威嚇する。


 くるみはびくっと僅かに身じろぎすると、どこか頼りない歩調で窓辺から離れた。そのままきょろきょろとそこいらを見渡してからソファに浅く座り、ぬいぐるみを抱き締める。


 落ち着かないんだろうな、と思う。


 もちろんそこに言及はしないが、気持ちは分かる。自分も昔ちょっと子供の冒険のような気持ちでルカと遠出した時、帰りに見事な嵐がやってきて、目の前の木に落雷した時はさすがにびびった。


 外の世界からすっかり切り離してやれればいいがそれも叶わないため、せめてカーテンだけでもとそれを閉め、くるみから少し離れたところに座った……その瞬間。




 ぴしゃっと白昼のような閃光。




 音もなく視界が真っ白なモノクロに染まる。


 その直後——どおんっという地響きと共に——家中のすべての明かりがふっと落ちた。


「あっ」


 一足早い夜のような外と閉め切ったカーテン、そして風烈なまでの明度の落差のせいで、ふたりは自分の手さえ見えないほどの闇に放り出されたのだった。


「急だな……びっくりした。結構近くに落ちたっぽいね。くるみさんは大丈夫?」


 同じカウチソファに座っているはずの彼女に、何事もないことを念の為に確認する。


 しかし返事はない。


「くるみさん?」


 もしや何かあったのかと、彼女が居たと思しきほうへ手を探るように差し出す。


 と、彼女も同様にこちらに縋るような手が伸ばされていたらしく、ゆびさき同士が唐突にぶつかりあった。


 その拍子に、空気が慌てて動いた。同時にソファがぎしりとやけに遠くで軋む。


 驚いたくるみがさっと飛び退いたのだろう。


「わ……」


 零された小さな声は可哀想なくらいに震えていた。


「わたしはここに……。て、停電?」


「みたいだ。くるみさん手許にスマホある? 僕のは鞄にいれっぱだから」


「……テーブルの……碧くんがいるほうにあったはず……取ってくれる?」


「わかった」


 テーブルには湯呑みも載ってたはずなので、それを倒さないよう慎重に手を伸ばす。手帳ケースのスマホ、と記憶を頼りに念じながら手探りし……それらしきものを発見した。


「あったよ。渡すから明かり点けれる?」


 勝手にロック画面を見てしまうのもよくないので依頼をすると、一拍おいて、またソファがぎしりと鳴いた。くるみがおそるおそる近寄る気配がする。


 渡そうと試みるが、如何せんお互い焦れったい手探りなため、上手くいかない。


「碧くん……どこ……?」


「こっち」


 音を頼りにしたらしいくるみの手が、俄かに碧の腕を間違って掴んだ。


 一瞬力が弛んだ隙にスマホは碧の掌からすべり落ち、床上のラグでとんっと鈍い音を残し、行方を眩ませる。


「ごめん。落としたっ。今拾うから——」


 慌てて屈もうとしたところで、またくるみの手がこちらを、今度は求めるように掠めた。


 ぺたぺたと碧の存在を確かめるように探ってきた挙句、腕が柔らかななにかにぎゅっと掴まれる。くるみが抱き締めているのだと分かったのは、ぶるぶるという震えと彼女の甘い匂いが、一度に伝わってきたからだった。


「待って……いかないで」


 密着にそこまで動揺せずに済んだのは、くるみの呼びかけが想像よりずっと泣きそうに滲んでいたからだと思う。


 碧は、ただ浮かしかけた体を戻す他なかった。


「明かりはいいから……おねがい。ここにいて」


 くるみは烈しい雨音に上書きされてしまうほどに小さく、縋るように言う。


 それは今まで聞いたことないくらいの怯えに、沈んでいた。


「うん。いるよ。どこにも行かない」


 碧は咄嗟に言う。


「僕がいるんだから、大概のことは大丈夫だって思っていい」


 己から出たただの気配りのはずの言葉も、今まで聞いたことないくらい角の取れた優しい響きで、自分が戸惑うくらいだった。


 ——なんでだろうな。


 ——この人相手だといつも必要以上に……甘くしてしまう。


 そりゃ碧だって人間だから親友には他の人より目を掛けたりするが、くるみに対するそれは全くの別物な気がした。もっとこう、彼女の可愛いところも脆いところも独り占めしたいとか、守ってやりたいとか……そういうのが前提にあるのだ。


 自分の行動指針が自分でも分からないせいで戸惑いも晴れなかったが、兎に角いまは少しでも気を落ち着かせてやりたい。


 目が慣れてきたおかげで、ほのかに光を察知できるようになってきた視界でくるみのシルエットを捉え、二の腕に額を押し当てる彼女の髪を優しくなでる。


 その行動がよかったのか、よくなかったのか。


 数秒ののち取り繕うことは出来たようで、まだ若干へたっているものの、ツンと澄ましたような返事があった。


「べ、べつにね。怖いわけじゃないの。……ただびっくりした、だけで」


 表情の仔細を見られないのをいいことに、碧は音を立てずに笑ってみた。


「うん。知ってる」


 腕を掴んでいる小さな手を、上から包むように握る。


 それだけでくるみの心細そうな息遣いが、安堵を含んだそれになる。


 普段あれほど大人びて見えても、彼女も一人の女の子だ。どんなに平気な振りをしたところで、年相応に怖いものや、気丈さだけで隠しきれないものはあるのだろう。


 碧が隣にいることでそれが多少和らぐのであれば、そばにいることくらいはいくらでもお茶の子さいさいのお任せあれだ。


「……あったかい」


「僕は体温が高いからな」


「それもあるけれど他の意味でも……だから」


 くるみは一度言葉を切り、恥じるように額を腕にぶつけた。


「……さっきの私のこと。子供っぽいって、思ったでしょ」


「思ってないよ」


「嘘」


「うそだと思う?」


「ばか」


「それは違うって言い切れないな」


「……碧くんは、優しくていい子だと思う」


「言ってることが真逆だよ」


「うるさいです不敬罪です」


「なら罰とかしとく?」


「…………今は手。離したくないから。見逃してあげる」


「そっか」


 トークでスタンプを順番に飛ばしあうような、他愛も取り留めも全くない、それでいて心穏やかになる会話がしばらく続く。


 くるみの体の震えも、いつしか止んでいた。


 しばらく互いに密着し体を許したままでいると……世界にぱっと明かりが戻る。


「あ」


 明かりを奪われた時と全く同じ一文字を洩らす。


 テレビが気象情報の番組を連れて復帰し、エアコンがあたたかい風を吐き出し始めた。


 とたんに音と日常が舞い戻ったなかで碧はぬくもりと柔和な感覚があった腕——正しくは隣を見る。


 そこには、くるみはもういなかった。


 ただ……どたどたと少々女の子らしさに欠けた足音と、小さな呻きを残して、淡い茶系統になびく風が、一瞬だけ視界のはしっこに見えた気がした。


 それはキッチンカウンターの後ろにしゃがんだらしく、すっかり隠れてしまう。


 おそらく恥ずかしいのだろう。ソファにあったクッションが失くなっていたので、持っていって羞恥を逃す道具として有効活用しているに違いない。


 様子を見に追いかけようとして、やっぱり止めた。


 自分の今の、名前のつけられない感情が、頬に余計な熱を焚べていたからだ。


 ——お互い様だよな、今のは。


 彼女も同じことを考えたように、頼りない提案が見えないところから聞こえる。


「碧くん。べたなこと言ってもいい?」


「どうぞ」


「……さっきのは忘れて」


 十年後もばっちり覚えてるだろうな、とひっそり笑いつつ、碧は空返事をした。


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