第188話 冬の陽だまり(2)
次に碧の目覚ましとなったのは、出汁の甘やかないい匂いと、額に当たるひんやりとした心地よい感覚だった。
いつの間にか、そこそこ深く眠っていたらしい。
気を取り戻した碧の悪寒は鳴りを潜めた代わりに、分厚い冬掛けによるこもった熱気がびっしょり汗をかかせていたのだが、そんななかでおでこだけを何かが冷やしていた。
おかげで、暑苦しさがすーっと嘘のように鎮まる。まるでここだけ、万年雪の積もる山にでもなったかのようだ。
まぶたを上げればどうやらその正体は、くるみの手だった。もしかしたらまた熱の具合を確かめていたんだろう。
直前まで氷かなにかをさわっていたのか、冷たい掌が僅かに動く。彼女の細い指が、汗で額にはりついた前髪をそっとかきあげた。勝手に出たひとつぶの涙が目尻から零れて耳に垂れる。まだ苦しいが、さっきよりはだいぶましだ。
まだ焦点の定まり切らないまま、ぼんやりと婉美な髪のながれを眺めていると、こちらの目覚めに気づいたらしいので、先に尋ねようとして——気道を焼くような感覚に呻いた。
「んんっ……うわ。喉いってえ。……くるみさん今何時ですか?」
「夕方の六時」
普段はしないように心掛けている荒っぽい口調を、それこそ掠れた喉からつい出してしまうも、全く気にしない風な返事。
手で支えながら上体を持ち上げると、体は頼りなくふわふわしていた。
「……英語のレポートがまだだったからやらないと」
ふらつきながら壁を支えに立ちあがろうとすると、さすがにそれはまだ駄目らしく、くるみがそっと手で制してきた。
「こら。まだちゃんと寝ないと。この様子じゃ明日も学校行けないでしょ?」
「英語なら僕がやればすぐなので……」
「すぐでもだめ」
めっとばかりに人差し指を嗜めるように振ったくるみが手早くスポーツドリンクを注いで渡してくる。熱のせいか、ぬるくて苦かった。碧が少しずつコップを傾けているその横で、彼女は薬局から買ってきたらしい小さな箱の裏を読みつつ開封している。
「薬も買ってきたんだけれど、さきに晩ごはんは入りそう?」
「……たぶん」
「じゃあ持ってくるから待ってて。ないのかなと思って体温計も買ったから、熱測っておいてくれる?」
「ありがとうございます。そこに財布あるんで払ったぶん持っていってください」
「そういうの今は考えなくていいから。細かい清算はあとで」
語調がいつもよりずっとずっと柔らかくて優しい。
今はミントグリーンの服だが、これが白かったらもう天使かと思う。
くるみが台所に行っている間に測れば、三十八度四分だった。
まあこのぶんなら……明日の金曜日は学校を休んで、土日も出かけずにきちんと寝れば十分に治るだろう。
しばらくしてノックされるので返事をすると、くるみが土鍋の乗ったおぼんを持って、そろそろとベッドの隣にやってきた。出汁の匂いはそこから来ていたようだ。
「柔らかめにしてあるから、消化にはいいと思うけれど」
小さな土鍋を開けると、中身は澄んだつゆの掛けうどんだった。
刻んだ九条ねぎと大根おろし、それと生姜などの薬味が乗っていて、真ん中には落とし玉子が半熟のようなぷるぷる具合で座っている。湯気が控えめなのは、火を切ったのが少し前だからだろう。
如何にも具合の悪い人に体力を取り戻させるような、そんなうどん。
けれど碧にとってはそれが誰かの……とくにくるみの手づくりというだけで、途方もない価値がある気がした。
「お箸は自分で持てる? 私が手を貸さなくても平気?」
「それ訊くってことは、厳しいかもって言ったら手、貸してくれるんですか」
「ううん。そこまで体調が悪いなら碧くんには代わりに重湯をさしあげます」
しょうもない冗談にも、いつもより手心のある返事だ。
温かい匂いにじんと沁みながら蓮華を口に運ぶと、つゆを吸って柔らかくなった讃岐うどんはなぜだかむじょうの甘露のようで、みずみずしく唾液が湧いた。
くるみはまたてきぱきと仕事をしている。
「えっと……薬は二錠ね。スポーツドリンクはよくないからこっちのお水で服用すること。あとは体を拭けるように温かい濡れタオル持ってくるから。あっそれと、桃の缶詰とゼリーも冷やしてあるので。お好きなほうをどうぞ」
「……なんでここまで」
「だって一人暮らしなのに体調崩したら、そうじゃない人より心細いでしょう?」
要するに、家族と暮らしている人と平等になるように、そうじゃない碧に対する情け、もとい梃いれということか。
こんな素敵な幸福再分配があるのなら、一人暮らしでかえって得したなと思う。
なんて考えている間も、くるみは心配と優しさが綯い交ぜになった表情を、こちらに注いでいる。
伝染すのが悪いと思う気持ちにかわりはないが、その心優しさに甘えてみたくなり、せっかくならと、多少のわがままを言ってみることにした。
「じゃあ心細いついでに、少し話し相手になってくれると助かるな」
「いいけど、体調のほうはどうなの? 辛くはない?」
「熱は三十八度くらいだったけど薬あるし平気です」
「そう。本当は寝てなきゃだけど、ずっと寝るのも疲れるものね」
と素直に頷き、机の前にあるデスクチェアを見て、またこちらを見る。
座っていいよと促すと、ちょこんと余所よそしく腰を下ろした。
そりゃ仲よくなったばかりの人間とこういうシチュエーションになったら困るよな、とひっそり笑いつつ、言っておいて肝心のトークテーマがなかったのでと話の種を探そうとしていると、くるみの肩が微かに揺れた。
「……あの。訊いてもいい?」
頷けば彼女は言葉を継ぐ。
「どうして碧くんは敬語なの? それに男の子にしては言葉遣いがきれい」
「ああ。これですか」
とくに理由がある訳でもないが、ひとつ挙げるとすれば——
「敬語自体は子供の頃から父さんに叩きこまれていたんですよ。でもいざ帰国して実演となると、初めの頃は遣い処がよくわからなくて、学校の先生にも砕けた口調で話したら注意されちゃって」
「でしょうね」
「とりあえず今は一括で誰にでも敬語するようにしてます」
「なるほど……」
「敬語じゃなくてもべつに、言葉遣いを崩す気はないんですけどね。僕って日頃からこう、落ち着いた人間で在れと心掛けてるので。そうしたら勝手に喋りかたもきれいになったというか……」
今度はなぜそう在ろうとするのか追究が始まるんだろうなと思いきや、そんなことはなく、くるみは別の方角を気にしていた。
「……でも、お友達とお話しする時は敬語じゃないんだ」
「そりゃそうでしょ。敬語だと心開いてないみたいで他人行儀じゃないですか」
「他人……」
くるみはどこか寂しげに、そして不服そうに目を眇めると、じっと何かを考えこむように動かなくなってしまった。そのさきをかろうじて言わないのは体調不良者への気遣いか。
——僕には分かる。
これは人生で十番目くらいには気の利いた返答を試されるシーンだって。
熱で思考の回転がひどく遅くなっているなか、碧はフルスロットルで今言うべきことを導き出した。
「……。……。くるみ」
躊躇したあとでやっぱり敬称をつけたくなった。
まだ知人程度の、しかも日本の女子の名前を呼び捨てにするのがこんなに照れくさいんだって初めて知った。
今までもドイツの学校で外国人の女子と話す機会はあったが、とくに同年代相手では、外国語は敬称に当たるものがない。呼び慣れているはずなのになぜくるみ相手だと、こんなに照れてしまうんだろう。
でも、と。それを振り切るように残りの言葉を絞り出した。
「……ありがとうね。看病してくれて」
素直にお礼を言えば、くるみの頬がほんの……ほんの僅かに色づいた気がした。
じーっとこちらを見て、それからツンと逸らされる。
「いいの。困った時はお互い様って言うもの」
「今のところは僕が寄りかかってばっかりですけどね」
「そんなことは……ないのに。というか、また敬語に戻ってる」
くるみが、けんもほろろに言及する。
碧はへなへな頼りない挙手をした。
「違うんです。言い訳させてください」
「許可します」
「くるみさんはなんか。くるみさんだけは。……なんというか」
礼儀のなってない馴れ馴れしい人間だと思われたくない。高嶺の花に対し今まで会った人のように急に距離を詰めたりして嫌われたくはないし、敬語のほうは止めたとしてもさすがに呼び捨ては本人も嫌だろう。
自分でもよく分からないけれど一番は、ぞんざいに扱っちゃいけないと思えるひとだから、それプラス、尊敬の気持ちのまま話したら敬語になっていたのだ。
でもそれを言葉にするのはどうも抵抗があり、結局言い淀む羽目になる。
「……やっぱり熱があるせいかもね」
そんな碧を見て、くるみは可笑しそうに喉を鳴らした。
「ほら、お喋りはまた今度にして今日は大人しく寝ましょっか」
そう言って、めくれあがった冬掛けの四隅をベッドにあわせ、きちんとかけ直しててくる。ひざの上の土鍋をサイドテーブルに退かして横になると、襟もとまでそろりそろりと引っぱられた。
——もう帰ってしまうのだろうか。
なんて心細くなってしまうのはどう考えても熱のせいなのに、表情に出ていたらしい。
こちらを見たくるみがますます……今度は子供をあやすような笑みを深くするのでばつが悪くなる。
「そんな雨に降られたワンちゃんみたいな目をしなくても」
「してませんって」
「大丈夫。もうしばらく……夜までは本でも読んでるから。もし何かあったら、そこのスマホですぐ呼んで。——それと」
ドアを出ていくすがら振り返ると、頬を僅かに染め、やや畏まった表情で。
「どういたしましてって、ドイツ語でなんていうの?」
「Bitteschön?」
「……びって。しぇーん」
ぎこちなく真似っこをしたくるみは、その穏やかな表情に涼しい笑みを乗せた。
遠ざかるスリッパの足音を聞きながら、碧は戸惑っていた。
この熱の底から突き上げてくる、冬の陽だまりのようにあたたかい気持ちに。
「……くるみ」
彼女の名前だけを、冬掛けに口を埋もれさせたまま、誰にともなく呟く。
それだけで焦ったくもどかしく、恥ずかしいけれどやっぱり嬉しい、そんな感覚がある。
敬称のほうは兎も角として、敬語のほうはいずれ少しずつ外してもいいのかなって、そう思えた。
——それはそうとして二日後、今度はくるみがうちで熱を出して碧がソファを貸したのは、また別の話とする。




