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第186話 優しい掌(2)


 気づけば、左の頬にあたたかい感覚があった。


 思考の回転が遅くぼんやりするなかで、ちょっと武骨だけれど、大きくてぽかぽかする何かが左半分を包んでいる。


 ——あたたかい……


 その温もりに、妙に心が惹かれた。


 まるで雪に鎖された真冬の家で、ただひとつ明かりを灯すストーブのように。


 そういう安堵をもたらす不思議な力が、これにも宿っている気がする。


 よく分からないけどきっとこの熱がくるみを寒々しい世界の底から引き摺り上げてくれたのだと、勝手にそういう解釈をした。


 そう結論づくと——この温もりがすごく離し難く愛すべきものに思えて、もっと甘えてしまいたいと思えて、くるみはそれに預け切るように、僅かばかりの体重をかける。その温もりは最初は一瞬動揺を示したように柔らかく押されるも、くるみを支えず落とす気など微塵もないように、びくともしなくなった。


 それがまた家でブランケットにくるまったように穏やかな気持ちにさせてくる。ずっとここにいてほしくて、何処にも行かないでと乞う気持ちで頬擦りをすると、温もりがびくっと動く。まるで生き物のように。


 ——……さん!!


 遠くで誰かが自分の名前を呼んだような気がした。


 近頃聞き覚えのあるようになった声。優しくて——それから隣にあるのが当たり前になってきたそれがくるみを、微睡の海底から浮上させる。


「うぅ……ん」


 自分のだと思えないほどに甘く掠れた呻きが、喉から零れた。


 いつの間にか半分開けていた視界は不明瞭にぼんやり滲んでいたが、それが寝起きの涙だと気づくと、しぱしぱと焦れったい瞬きを二、三度行い、それから一番上まで持ち上げる。


 ものすごく近くに、何かがいた気がした。


 見間違いかと再度ぎゅっと目を瞑り、確かめるようにおずおず開ける。


 二十センチの距離にいたのは、青みがかった黒曜石の目の少年——碧だった。


「っ!! ゃ……」


 なんでと思う束の間、反射で仰け反ったせいで椅子がぐらりと傾いた。


 そういえばロッキングチェアに座っていたんだっけ……と、他人事みたいにぼんやり思い出す。


 スローモーションのように時間の進みが遅くなるなかで、重力が下方向からかかる……その時、嫌な感覚を伴う落下が、こつぜんと止まった。


 見ると、碧がその腕を、くるみの後ろに回している。


 おかげで距離が五センチに急接近したが、それを糺問する権利もなければ余裕もない。


「……危ないなぁもう」


「え、あっ……あの……?」


 椅子ごと戻すと、碧が小さく笑いながら離れる。


 親戚の子供を見下ろすようなその目を見るにつけ、様々な心配事やこの怒涛の展開への追いつけない混乱が、おもちゃ箱をひっくり返したように一度に押し寄せた。


 それらを一気に片づける答え合わせが、次の彼の挨拶でなされる。


「おはようございます」


 やっぱり自分は知らぬ間に眠っていたらしい。


 羞恥のあまり頬を火照らせながら、なんとか言うべきことを返す。


「お……おはよう。ご、ごめんなさい私勝手に……うたた寝だなんて……」


「いや僕が帰るのが遅くなったせいだし、気にしないで」


 そういう優しさが碧のずるいところなのだと、くるみは話すトーンを上げる。


「気にするっ! だって私今……夢か本当かわからないけど……」


「その記憶多分封印したほうがいいんじゃないですか?」


 おそらくは、これ以上言わせまい、と差しこまれた碧の発言に、くるみは見事に黙る羽目になった。


 夢の出来事として忘れておきたかったことまで、碧が知っている。


 もうくるみは恥ずかしくて恥ずかしくて、穴があったら半年は冬眠したかった。


 感情の昂りのあまり涙まで滲み出したくるみを見兼ねてか、碧は立ち上がり——


「僕すぐそこまでコーヒーでも買って……って、くるみさんそれ何」


 と目線を落とす。


 釣られて見てみると、自分の指が主人の意思とは関係なしに、なんと碧のブレザーの裾を抓んでいたのだった。


 何でこんなことをしてしまったかは分からないが、これ以上恥の上塗りをする気はないと、慌てて離してかぶりを振る。


「……ご、ごめんなさい。何でも、ないの」


 彼はじっとこちらを探るように見て、それから尋ねる。


「もしかして、悪い夢でも見ていた?」


 先刻までの寒々しい記憶にはっと息を呑んだ。


 洞察力がある人だとは思っていたが、まさかここまで言い当てるとは。


 きっと普段からよく他人を見ている人なんだろうなと思う。


 怯えた気持ちをそのまま吐き出せばきっといくぶんか整理はつくだろう。でもそれは如何にも自分らしくない行動だ。一瞬ためらいを見せたくるみは、やはり話さない選択をし、しかしここで隠すのも誠実さに欠けるだろうと、概要だけを正直に言うことにした。


「うん、ちょっと……()()の夢を見てて」


「大丈夫?」


「……最後の方は誰かさんのおかげで大丈夫」


 余計な心配はかけたくない。そもそもくるみという人物の辞書には、甘えると言う行為は載っていないのだ。


 だからそう取り繕ったのだが……次の瞬間、大きくて頼もしい掌が、優しく降りかかった。と思えば、なぜか碧はわしわしとこちらの髪を大雑把になでていた。


 はたと動きを止めて見上げると、彼は照れたように赤くなって、申し訳なさそうに眉を下げている。まるで自分のたった今の行動さえ想定しておらず、つい勝手に動いた自分の手に対して困惑していると言わんばかりのような。


 言葉を失っていると碧が言った。


「しばらく休んでていいよ。無理しないでゆっくりしてて。僕はどこにもいかないから」


 その時、僅かだが……またじわりと涙が滲んだ気配がした。


 泣きはしないがそれでも、よく分からない優しさに心が動かされた感覚。


 どうしてそんな事を言えるんだろう、と思う。


 自分の家族ですら一度たりとそんな約束をしてくれなかったのに。これまで一度も人を裏切る嘘を吐かなかった碧が、どこにもいかないって、そんな。


 ——そんなこと言われたら、じゃあずっとここに居てって言いたくなる。


 奔る感情に弄されて、普段の冷静な自分じゃまずぜったいに思わない事を思い口を噤んでしまうくるみ。


 碧は、やっぱり申し訳なさそうに言った。


「……ごめん。今の、嫌だったらもうしないから」


「べ、別に嫌って訳じゃないけど……」


「じゃあ、いいの?」


 くるみはうぅっと小さく呻きを洩らした。


 咄嗟に返したとおり、嫌じゃないのは事実。かと言って、いいと今すぐ断言できるほどくるみは碧に好き勝手を許しているわけじゃない。許可したが最後、なで回されても文句は言えない。だが悪い夢から救った恩人にそのままぶつける不義理は働けそうにない。


 この問いはちょっといじわるだ。


 困った表情を見せまいとクッションを抱いて隠していると、碧は大真面目に言う。


「僕、海外暮らしだったからこういうところでも違うところでも嫌な思いさせちゃうかもしれない。もし嫌なことあったら教えてくれる? 駄目ならもうしないから」


 それを聞き、ふと納得したものがあった。


 この人は今までもこうして言葉で一つずつ確かめながら、人との距離を測ってきたんだ。


 だからこんなに信頼できるんだ、という得られた一つの答えに、思う。


 ——碧くんなら。


 このひとならきっとくるみを尊重してくれる。嫌なことはしないし蔑ろにすることもない。もう既に大事に扱ってくれているのは十二分に伝わっている。


 もし一人だけ、何もかもを許す人を選ぶとしたら、この人がいい。


 気づけばほろりと、そんな想いは言葉になって、口を衝いて出ていた。



「……嫌なことは、ない。碧くんなら……大丈夫です」


番外編はあともうちょっとだけ続く予定です。

それが終わったら間髪入れずそのまま第5章始まるのでよかったら見てやってください☺️

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