第185話 優しい掌(1)
・このお話は「第50話 誰かさんみたいだったから(1)」のくるみ視点のお話です。
「……鍵」
くるみは最近になって通い慣れてきた住宅街の道を足早に横切ると、大きな七階建てのマンション——自分の家ではない——に立ちいり、慣れない手つきでオートロックを解除するとエレベーターに乗りこんだ。
「家の鍵……」
ところで先ほどから呟いているのは、小さな手にしっかり握られた物の名前だ。
碧が友人たちに、自分たちの関係についての事情を説明するというので、先に帰っててとこっそりカウンターテーブルの下で渡されたもの。
くるみがまさか何かするわけないだろうと信頼して、預けられたもの。
「……これで私が悪い泥棒だったらどうしてたんだろう」
もちろんそんなことはしないし、碧もそれを分かっていたから託したんだろうけど。
「碧くんていったい、私のことをどんなふうにとらえて……」
誰もいないエレベーターなのをいいことに呟いてみたとたん、ゆびさきで掌をくすぐられた時のむず痒くこそばゆい感覚がよみがえり、羞恥がぶわりと頬を赤くする。
伝言のためとはいえ、女の子の手を取ってあんなことをするなんて、いくら独国紳士と分かっていれど恥ずかしいというか。あの人かつあの状況だから許せるけれど、他の人なら見逃してはいなかった。
——今度同じことして、碧くんに同じ気持ちをお返ししてやらなきゃ。
せめてもの譲歩でそんな罰を思いついたくるみが明後日の方向にやる気を発揮してぷんすこ憤慨しているうちに、目的のフロアに到着する。
鍵を開けて玄関に身をすべりこませると、空調はついていないのに、自分の家よりほのかに空気はあたたかい気がした。
おずおずと、躊躇しながらリビングに来ると、くるみは着ていたコートを裏返しに折りたたんで椅子に掛けようとして——やっぱりやめて、ラグの上にそっと乗せた。
家主に断りをいれず勝手にエアコンをつけていいものかと迷ったが、家のなかとはいえ冬なので気温は低いし、これでがまんして風邪を引いたら却って碧に申し訳なさそうだったから、少し控えめな温度設定でリモコンの運転ボタンを押した。
かちかちと時計が針を刻むのどかな静寂。午後のぽかぽかした陽だまりが、床にくっきり影を落としている。くるみのほかには、誰もいない空間。
さきほどの玄関でのあたたかさが錯覚だったように、空調の風が行き渡ってもそれだけで妙に寒々しく、そして寂しかった。
——なにをして待てばいいんだろう。
十秒ほど棒立ちで途方に暮れるも、とりあえず座るくらいは許されるだろうと、ソファにあったクッションを手にして、ロッキングチェアにゆっくり腰を下ろした。
この揺り椅子は、碧の父親がその昔にどこぞの国で見かけたのを気にいって購入し、船舶で運んできたらしい。このマンションにおける数少ない思い出の品だそうだ。
そんな大事なものに勝手にいいのかと自問自答したが、碧は好きに寛いでいいよと言ってくれたし、なにより子供の頃読んだ絵本に出てきそうな素朴で田園っぽく抒情ゆたかな風体に妙に心惹かれたのもあり、ゆっくり体重を預けてみる。
ぐらりと後ろに傾き思わず身構えるも、もちろん椅子がひっくり返ることはなく、前後にゆらりゆらりと寝かしつけるように揺れるだけ。でもそのたゆたいが、くるみに不思議と心地よい安らぎをもたらした。
ひざの上にあるクッションの、落ち着いたいい匂いも、それに拍車をかけている。
緊張を手放し、しばらく重力の遊びに身を任せていると何となくうとうとしてきたが、ここで寝るわけにはいかない。
碧が合鍵を持っていなければ、彼はくるみが開錠しない限り一階のロビーにもはいることはできなくなるから。もちろん勝手に外出もできない。
「……早く帰ってこないかな」
寂しさを持て余すように、クッションを横からもちもちと押してみる。
そういえば、何もせずこうしてただ時の走り去るのを待つなんて久しぶりだ。
くるみは幼い頃からむしろ、常に時間に追われていたのだから。
ランドセルを背負うようになった頃にはすでに習い事は週に六日もあったし、残りの一日も授業の予習やらピアノの練習やらで忙しかった。友人関係を築く時間も犠牲にして。
昔は信じていたのだ。
自分が、きっと誰の目にも明らかな立派な大人になることを。
〈ではそうでなくなったのはいつ?〉
ふと湧いた問いに答えを求めるように、くるみは自分の記憶を遡り始めた。
*
くるみは都内にある、私立のいわゆる名門学校に通っていた。
百五十年近い歴史のあるそこは、幼稚園から始まり高校に至るまでの一貫校で、転入してくる生徒も少なく、きめ細やかな指導を行うべくクラスあたりの定員もかなり少ない。
外界のあらゆる些事から守られ、各家から集まったお行儀のいい生徒が仲よく平穏な日々を送る、真なる箱庭。
そういう世界でくるみは生きてきた。
「それでは、帰りのホームルームを終わります。宿題を提出できたひとから、気をつけて帰ってくださいね」
小学校二年生のことだった。
放課後のチャイムが鳴ったあと、先生の一言で、同じ制服を着たクラスの学友たちは空気を弛ませつつ、よく解けた算数と漢字のプリントを持って教壇に集まる。くるみもまた赤いランドセルから彼女らと同じものを取り出して、黒板の前に近寄った。
「くるみちゃん」
その時、先生に名を呼ばれた。
新任ではないがまだ若い女教師だった。おっとりして優しげで皆に人気の彼女が、今は少し困ったように眉を下げている。
「ちょっとこっちに来られるかな?」
「……? はい」
呼ばれる理由に心当たりはなかった。
なにか持ち物を忘れたわけでも、テストで悪い点をとったわけでもない。むしろ自分の学校での振る舞いは今のところ優等生の見本のそれでしかない。
では何かここでは話しづらいことでもあるのか、と思いながら教室を出る。
連れてこられたのは、同じ階のカウンセリングルームだった。生徒が相談事を話しやすいように柔らかな色あいのレイアウトになっていた。
そこで先生は、腰を屈めてくるみと目線の高さを揃え、一枚の紙を見せてきた。
右上には、楪くるみという名前が鉛筆で小さく記されている。
「聞きたかったのはこれのことなんだけれどね——」
もちろん見覚えがある。それは先週の授業で書かされた、自分の思い描く将来の夢についての課題だったからだ。
一番下には、将来の自分に宛てた手紙の欄もある。まさか本当に十年後へ届けるわけではないだろうけれど要するに、自分の夢を見つめ直すきっかけにするのが目的の授業だろう。
与えられた時間では足りなかったため、各自持ち帰って週明けに提出するように指示があった。くるみは言われたとおりにきちんと書いて提出した。
なにか問題があるわけではないはずなのに、と思う。
先生は責めるようにではなく、言葉を選ぶようにゆっくり尋ねた。
「ちょっと気になったんだけれど、これってくるみちゃんが自分で書いたの?」
「? はい。自分でかきました」
「そう……」
先生はますます困惑したふうだった。
何が悪いのかも分からず、将来の年表に目を落とす。
書かれた将来の予定はくるみの記憶に新しい。
中学——〈お勉強をたくさんがんばる。生徒会をする。いっぱい一番になる〉
高校——〈もっともっとお勉強をいっぱいがんばる。白陵院のゆうとうせいになる〉
大学——〈お母さまのいう大学にいく。えらい賞をとる〉
おとなになった自分への手紙——〈 〉
もう一度読み返しても、やっぱり何が悪いのか分からなかった。
手紙のところが空白になっているせいだろうか。けれど、他の子も想像がつかずまだ書けなかった人は何人かいて、先生も今すぐ書けなくても大丈夫だと言っていた。
戸惑いに眉を八の字に下げるくるみを見て、先生が慌ててフォローする。
「あのね。書いてくれたのはとても素晴らしいことだと思う。……でももしこれがくるみちゃんの本当に思うことと違うのなら、正直に書いてくれてよかったのよって言いたかっただけなの」
「本当に思うこと……?」
「うん。くるみちゃんのお友達は、たとえば歌手とかパティシエとかお花屋さんとか、そういうのを書いている人が多かったから。他にも、中学でも好きな習い事を続けるとか、大学では一人暮らしをしてみるとか……何かこうしたいなってことはない?」
並べられた実例には、いまいちくるみの心に訴えかけるものがなかった。
「私が……したいこと……」
昔から母によってくるみは将来を案じられてきた。習い事も家庭教師もすべては、母のよく言う「将来困る人間になってほしくない」——という言葉を叶えるためのものだと、すでに理解していた。だから今日まで、文句の一つも言わず励んできたのだ。
くるみもそれを信じている。母はいつも正解を教えてくれる。
言いつけられたこと以外を書くことに、意義を見出せない。
それに、この年表は教室の後ろに掲示されると先生は言っていた。そうすれば次の授業参観で、来訪した親が見ることになる。母の期待にそぐわぬいいかげんなことや叶いもしないことを書いてもよくないだろう。
くるみの、思うに芳しくない様子を見兼ねてか、先生は諦めたように笑った。
「とりあえずこの紙は返すから……今日お家に帰ったらもう一度じっくり考えてみてくれる? これでもいいって言うのなら書き直さなくても大丈夫だから」
返却されたスケジュール表を見て、先生の優しい声がけを聞いても、しかしくるみの心は晴れなかった。
整然と書かれたそれら以外に、己の将来を想像できるものが何ひとつとして思い浮かばないことに、気づいたからだ。
*
やがてくるみは中学に進学した。
その時の年表に何を書いたかは結局、覚えていない。直さずに提出したか、先生の気にいるものに修正したかのどちらかだったとは思う。
ともあれ、一年生から予定していたスケジュールのとおり生徒会にはいった。学年首席の地位も築いた。全ては順調に、あの日鉛筆をすべらせたのと寸分も違わぬ未来へ。
でもなぜか虚しかった。
まるで心に大きな埋められない穴が開いているような。
——ぜんぶいい方向へ進んでいると言うのに、それはなぜ?
問いかけも虚しく、時間は加速し……くるみは気づけば高校生になっていた。
その名をあやかった木の花言葉のように、賢く聡明に。いつだったか、誰かに『妖精みたいだ』と言われたのにふさわしく一段と美しく育った。
身につけていたのは、白陵院の高等学校に与えられた校章の刻まれる純白のブレザー。切り立ったチャコールグレーのプリーツスカート。
小さな頃のくるみが憧れていた、お姉さんの格好いい制服。
髪も背丈も伸び、順当に大きくなった自分が、それを着ている。
何かの表彰式なのか、壇上で賞を受け取っていた。
が、その姿も僅かしか留めなかった。やがて予定調和のとおりくるみは大学生になっていた。見知らぬ広いキャンパスを私服の自分が、静かに独りで歩いている。
そんな静寂には慣れているはずなのに……自分にはその光景がひどく虚しく思えた。
ふと再び、学校の課題で出された〈将来の予定表〉を思い出す。
皆はどうなのだろうか。自分の望むままに描いた幸せを叶えているのだろうか。
気がかりを振り払うように言い聞かせる。
「だいじょうぶ。何も間違いはないはず……」
けれどもう気づいていた。
あの時、将来のスケジュールにくるみの書いた言葉は、親が日頃言っていた理想の姿の寄せ集めだったことに。
自分が心から望んでいるものかどうかなんて、考えもしなかった。
ただ間違いのない〈いい子〉でいるのが、何より一番に優先すべきことだと思っていた。
でも、もう手遅れだ。
目の前にいるもうひとりの自分は、すっかり大人になっていた。
霞ヶ関の天を衝くビルの一角で、時間に追われながら仕事をただ黙々とこなしている。
誰とも心をかよわせることのないまま大人になった自分の〈IF〉の世界。
ふと、何か白いものが空から降ってきた。
雪……? いや違う。
紙だ。あの日思うままに書けなかった、埋めることのできなかった空白の紙。
将来のスケジュールが、十年以上後の自分に宛てて書いた手紙が。一枚や二枚じゃなく、数えきれないほど音もなく降り積もり、くるみの辺りを真っ白く染め上げていく。
散らばった想いが、いくつも————




