第183話 七月の縁結び(2)
約束の日、碧は予定より少し早く、夏祭りのある最寄駅にやってきていた。
茜に染まる空にそびえるスカイツリーのかたわら、碧たちの家から少し離れたそこは昨日の花火大会よりもたくさんの人が行き交っていた。
帯の結び目を気にする女の子たちや、ビール片手に陽気そうな夫婦。
からんころん。からんころん。
一歩進むたびに、聞き慣れない下駄が小気味よく鳴る。
ずっと遠くから腹に響いていた太鼓が大きくなった。祭囃子が涼風を連れて、焼きとうもろこしの匂いと共に西の空へと立ち上る。
待ちあわせのスタバの前にやってきた碧は、くるみに呼び出しのコールをする。
何度か鳴ったところで返事の代わりにぷつりと切れ、からころんっと近づいてきた足音が止まり、後ろから鈴を振ったような声が——
「碧くん」
呼ばれるがまま振り返ると、とんでもなく清楚な浴衣美人が、そこにはいた。
直前まで身だしなみを気にしていたのか、前で重ねられた右手には、巾着に仕舞いそびれた小さな手鏡があるのがいじらしい。
「お待たせ……待った?」
「ううん。今来たとこ」
お約束すぎるやり取りを交わしながらも、碧はくるみに見惚れていた。
彼女の浴衣は、白を基調に、ラピスラズリのような群青と淡い藤紫のあさがおを散りばめた、夏にぴったりの涼やかな意匠だ。
帯は夏の夕月夜のような明るい紺藍で、可憐かつ華やかなアイリス結び。その上に重ねられたすり硝子のような菫の紗が妖精の羽みたいに広がり、ひらりひらりと重力に柔らかく引かれ尾を引いている。
もともとが嫋やかで楚々とした佇まいなので、日本の伝統着もきれいに着こなすだろうとは想像していたが、ここまで見事な格好を見せられると、出てくる感想も出なくなる。
「——……」
祭りのせいだけじゃなく、ほんのりと紅潮した空気。
何となしの数秒。
それをさきに破ったのはやや動揺気味のくるみだった。
「碧くんも、浴衣なんだ」
着ていたのは柄もないシンプルな藍の浴衣に同系統の帯だが、くるみを驚かすのには成功したらしい。
「あ。ああこれ……母さんの同僚が貸してくれたんだ」
「私服で来ると思ってたからちょっとびっくりしちゃった。お母様の?」
「ほら。うちの母——出版会社の編集者でいろいろつながりがあるからさ」
今の担当は週刊誌になっているみたいだが、大きな会社なため、違うフロアにはファッション誌を刊行している部署もある。丁度そこに母の知り合いがいて、琴乃が頼んで浴衣を貸してもらうことになった……という訳だ。
くるみが浴衣を着てくる以上、こっちも浴衣じゃないと彼女のほうが浮いてしまって気の毒だ。あとは自分が少しでも釣り合いが取れる格好で当日赴きたかった気持ちは事実なので、ここは母の機転に素直に感謝しておくことにした。
「こういうの初めてだから、ちょっと落ち着かないな」
「んーん。格好いい。すごく似合ってると……思います」
思いがけず真剣な感想を貰い、ぽかんとしてしまう。
だが、言うにしても堂々と言ってほしかった。もじもじと頬を上気させて、横髪を指にくるくる巻きつかせながら言われては、こちらにも照れが伝染してしまう。
今日のくるみは浴衣にあわせ、長い髪はかんざしで結い上げていた。三連になって光る蛍硝子の揺れもの、そして真っ白なうなじに目を細める。
「それでいうならくるみも。すげえ可愛いと思います。と言うよりはきれいのほうが言葉としてはぴったりかな。大人っぽくて色香もあるし……」
くるみは照れたように笑った。
「そう言われたくて、この浴衣を選んだの」
不覚にもその言葉には、まんまとドキッとさせられてしまった。
本当に、この子とはいつも碧を——〈もしかして〉と期待させてくる。
彼女の一挙一動に一喜一憂して、風にさらわれた紙吹雪のように、いともたやすく舞い上がってしまうのだ。
くるみがおずおずと窺うように訊く。
「……あとで写真、撮ってもいい?」
「いいよ。インスタントカメラ持ってきたんだね」
「うん。巾着小さいから、それとスマホと身嗜みのあれこれと、小銭いれだけでいっぱいになっちゃった」
「じゃあ荷物持ちは僕がします」
とりあえずこのまま見つめあっていては恥ずかしいだけなので、出発を提案した。
「行こうか。ほら手」
「……うんっ」
大人しく手を引かれたくるみが、恥ずかしそうに美しく笑う。
はぐれないようにという些細な口実が今はとても愛おしい。
いつもより体温の高い手を結びながら、二人はお揃いの足音を鳴らした。
*
「それで……夏祭りってどういうことをするの?」
人混みをはぐれないようにゆっくり歩いていると、隣からそんな問いかけがあり、博識のくせにこういうのは本当に何も知らないんだなと碧は密かに笑った。
夏祭りが初めてのくるみにはぜひとも、いい思い出を持って帰ってほしい。そのためには自分がリードしなきゃならない。
「もうすぐ行ったら縁日があるから、そこでいろいろ買ったり遊んだりとかだよ。そういえば言ってなかったけれど、お腹は空かせてきた?」
「お昼からは何も口にしてないけど。縁日ってどういうのがあるの?」
「定番で言うと焼きそばにたこ焼きに唐揚げ串、じゃがバター……とかかな。あとはデザートに冷やしパインとか」
最後に挙げた甘味の、その言葉の響きが好きだった。
こうして音にするだけで、口のなかに南国の甘酸っぱく清涼な風が吹く気がするのだ。
「じゃあそれも買わなきゃね。……いろんなのがあるなら、もしかして歩きながら決めてもよかったりするの?」
「うん。むしろ初めのほうにお腹いっぱいにしちゃうと、後からこれだっての見つけた時に困ることになるから。ゆっくり回ろうか」
これが花火大会なんかじゃ開催までに購入を分担したほうが効率はいいのだが、今日に限ってそれは野暮だろう。こうやって浴衣同士並ぶように、あちこちを見て回るのがお祭りの醍醐味だ。
「碧くんはなかなか詳しいのね。今のそれも熟練者のアドバイスみたい」
「言うて海外が長かったから、幼稚園のときに親に何度か連れて行ってもらったくらいだよ。昔すぎてもうあんまり覚えてないな。覚えてるのは、そのとき流行ってた戦隊ヒーローのお面がほしくて駄々こねたことくらいかな」
「ふふ。それ見てみたかったなあ」
くすりと肩を揺らしたくるみの唇には、淡いリップが引かれていた。
さっきは浴衣に気を取られていて気づかなかったが、今日は持ち前の美しさを引き立てるような、ほんのりとした化粧をしているらしい。手許もいつもより華やかだなと思えば、爪も桜貝のようにつややかに塗られている。
いつもお洒落に余念がないとはいえこれは珍しいな、と見つめていると、くるみも一度こちらを見て、再び前を見て——もう一度、今度はやや居心地悪そうにこちらを見る。
それでもなお逸らさずにいると、恥じらうように伏目がちになった。
まぶたと繊細な睫毛が、やぐらのカラフルな明かりを交えて、濡れたようにきらきらと光っている。
「な……なに? なんでそんなにじろじろ見るの?」
「いや。きらきらしてるなって」
「だって……浴衣だからお化粧もしなきゃって……あんまりし慣れないけど……」
へんだった? と自信なさげに問うくるみに、碧は首をゆるりと振った。
「ううん。そういうんじゃなくてさ。ただ、そんだけ可愛いのに、これ以上どこに手を加える必要があるんだろうなと思ったから」
ほんの些細な疑問だったのだが、くるみはきゅっと口を結ぶと、つないでいた手を碧の拳ごとこちらの腹にぽすぽすぶつけてきた。地味に響いてくる。
「何これ? なんの儀式?」
「なんでもない。それに儀式でもない」
「……あるんじゃ?」
「ないったらないの。私あれ買ってくるからっ!」
縁日のはじまりに差し掛かると、困惑する碧をほっぽってくるみは足早に走っていく。
慌てて追いかける間にさっさとお会計を済ませたらしく、氷から取り出したてで水の粒をまとったラムネの瓶を渡してきた。
「はい。私の奢り」
しかし持っていたのは碧に渡した一本だけ。
「くるみのは?」
「私はしゅわしゅわ苦手だから」
——まーたこの人は可愛い言い方を。
「じゃあ僕がなんか奢り返すよ」
「んー……私はお茶でいいよ?」
「せっかく夏祭りに来たのに買わなきゃ損だよ?」
「それじゃあ、なにか別のもの買ってほしいな」
「もしかして僕のセンスが試されてる?」
「ふふ。それもいいかも。……でも今日は私が選んでみてもいい?」
もちろんだと頷くと、くるみは淡い期待と羨望の交じった目を雑踏のむこうに注いだ。
「私、かき氷……たべてみたい。なかったの今まで」
想い人の希望には一も二もあるはずない。初めてなら、なおさら。
さっそく列の後ろに並びつつ、庇から下がったラインナップに目を細める。
「何味がいい? いろいろあるけど」
「苺にレモンに……みぞれ? 思ったよりいろんなのがあるんだ……」
「うん。けどかき氷のシロップ自体、味はぜんぶ同じで、なのにぜんぶ違う味として認識されるのは匂いと色による人間の錯覚らしいね」
「あ。それ、さっき前を歩いてた人が同じこと話してた」
碧は白々しく目を閉じる。
「あえて気づかないふりをするのが優しさだと僕は思うなぁ」
「知ったばかりなのについ博識ぶっちゃったってこと? 碧くんてばずるい」
くるみはからかうように口許を押さえた。そうやってはしゃぎながらまた何かを見つけたのか、きゅ、と袖の振りを抓んでむこうを指差す。
「ねえねえ碧くん。あのブルーハワイってのも味なの?」
「もとはお酒って聞いたことある。ハワイの海を表現した綺麗なカクテルだって。舌がすごい青くなんの」
「……今度はちゃんと自前の知識?」
じとーっと坐った目がとてつもなく愛らしくて、つい首を縦に振り忘れる。
「それにしたって味の想像がつかないね。島の名前なんだもの」
「けど案外名前のとおりだよ。南国っていうか……『夏!』ってかんじの味?」
「ふふ。それ言ったらかき氷自体が夏のおやつじゃない?」
とお喋りに興じているうちに、順番が回ってきた。
「僕は抹茶ください。くるみは?」
「じゃあ私は……苺みるく……? がいいです。ください」
お金を店員に渡し、一歩ずれたところで確認する。
「ハワイ挑戦しなくてよかったの?」
「苺好きだし。だってそれに青くなったら私……いざと……いうとき……」
ごにょごにょと口ごもりながら、苺のかき氷並みに真っ赤になって、終いにはぷいとそっぽを向いてしまった。
やり取りを見ていた店員のおじちゃんが氷をがりがり削りながら笑う。
「兄ちゃん達いいねえ。青春だね〜」
その冷やかしの意味がよく分からずもう一度くるみを見ると、氷が一瞬で昇華するんじゃないかと思うくらい茹だってぷるぷる震えている。
「……どういうこと?」
「なんでもない」
「え? 今日そればっかだね」
「なんでもないったらなんでもないの。ばか」
よく分からないが、不機嫌になったという訳でもないようだ。
その証拠にこっちが笑いかけてみたら、一瞬拗ねたふうにしつつ、今日すれ違った誰よりも可愛いと断言できるようなとびきり可愛らしい笑みが返ってきたから。
受け取ったかき氷を、並んで味わう。
こめかみがきーんとして、それでまたふたりして笑った。




