第180話 大人に近づいた君へ
【前書き】
・次の章へ進むまえに、これまでのお話を対象に文字数や構成の関係で載せきれなかったものをいくつか短編集として掲載することにしました。どの時系列のお話かは、以下のように冒頭で注釈でご案内します。
・このお話は「第179話 ぬくもりの答え(3)」の後のお話です。
十一月七日。
碧は映画のチケットを一枚手に、家を追い出されていた。
「あるもんだなあ……因果応報って」
相当前から計画されていたことが分かる前売り券のチケットには、上陸したサメが街で大暴れする映画のタイトルが印字されている。
妙に覚えのあるこの状況は、九月十四日……くるみの誕生日によく似ていた。
あの時とは逆だが、一種の意趣返しだろう。こちらのやりかたに倣って碧の不在中にお祝いの準備を進めようという可愛い企みがよく伝わってくる。なので、因果応報というより正しくは善因福果。家主が追放されるのはどうかと思うが。
家主と言えば——ところで今日の朝ごはんのとき、碧はくるみに衝撃の申し出をした。
『高校卒業したら……大学に通う予定の、四年間。僕たち、ふたりで一緒に、暮らしませんか?』
いくら十七歳になったからって、まだちょっと早い同棲の話。
彼女のくれた返事も鑑みると、順調に進めば、大学はふたりで同じ家から通える。もちろん現実は甘い事を言ってはくれないから、その将来を叶えるには努力が必要だ。
「……いろいろやること盛り沢山だ」
だけど碧とて今日は年に一度の誕生日。小難しいことは考えず、くるみの折角くれた映画のチケットを有効活用したい。いくら家から追い出すための方便とはいえ、観た感想くらいは教えてあげたほうがいいだろう。
さて——話を戻すと、そんなこんなで映画鑑賞をしてきたのだが、つまらないのではと予想されていたその〈ウーバーシャーク 〜腹ぺこサメの逆襲〜〉は前言撤回。案外おもしろかった。
とくに自転車でサメの配達をすることになった男子高校生がサメをつまみぐいしようとして逆に丸かじりされるところなんかは、腹がよじれそうだった。
ポップコーンは一番小さいのを一箱だけ購入したので、観終わる頃にはお腹がぺこぺこに空いていた。くるみからは「つまらないなら寝ちゃってもいいけどお腹いっぱいで帰ってこないようにね」との可愛いお小言を預かっていたので、映画の半券を持っていくとレストランでドリンクが特典で貰えたりするのだが、寄り道はせずに真っ直ぐ帰宅。
駅前でワッフルの甘い匂いがしたりして危き目に遭ったが、そこは何より碧の帰りを待ち侘びる愛しい彼女さんを思い浮かべることで、事なきを得たのだった。
「ただいまー……」
玄関にはいってすぐに、いい匂いが碧を出迎える。
炒めた玉ねぎとバターのふくよかさ、高温で揚げた衣のさっくりと香ばしい匂い。
廊下の突き当たりからは、じゅうじゅうと油の爆ぜる音が聞こえる。まだ料理をしていているらしく、キッチンへ赴けばその時ようやく碧の帰宅に気がついたようだ。
「あっ。おかえり碧くん」
「ただいま」
挨拶もそこそこに、碧はゲームの発売日に学校から帰った小学生のように鞄を放り、興奮気味にキッチンを覗きこむ。
「もしかしてそれって僕のリクエストしたやつ?」
「ふふ。そうです。誕生日を迎えてひとつ大人に近づいた碧くんにぴったりな、夢の大人様ランチです」
さぞ会心の出来なのだろう。昨日お泊まりした関係で碧のだぼだぼスウェットを腕まくりした可愛らしい彼女さんは、得意げにふふんと笑った。
見ればそれも納得で、渡した要望だとコロッケとハンバーグ、それからピラフだったはずだが……それをすっかり凌駕する豪華なお料理が、ワンプレートにはところ狭しと並んでいる。真っ赤なナポリタンにふわふわオムレツ。子供が砂で築いた山のようにまんまるく盛られたピラフは赤いストライプの海老がころころ隠れていて、思わず涎が滲み出る。
帰り道、誘惑に打ち勝ってよかったと心底思った。
フライパンを火から上げ、ちょうどふっくらと焼き上がったハンバーグを、くるみは返しで皿に乗せる。
「今日は特別に奮発しちゃってビーフ百%で、切ったらなかからチーズが出てくるタイプにしてみたんだけど、碧くんそういうので大丈夫だった?」
「大丈夫も何もそこまでして貰えるなら毎日が誕生日ならいいです」
「私のほうが折角二ヶ月間年上だったのに、それじゃああっと言う間に歳の差開いちゃうじゃない」
「ならくるみも毎日を誕生日にしてみたら? そしたらずっと同い年だよ」
「ふふっ。今日の碧くんはだいぶ浮かれてるね?」
確かに普段よりいくぶん賢さに欠けたことを言ってしまっている自覚はあるが、それは相手がくるみで、どんな馬鹿を言っても笑ってくれるという信頼があるからだ。
「でも子供みたいにピュアな目で言われると困っちゃう。なんだか私の常識もおかしくなりそうだから。……うん、殿方はいくつになっても少年の心を忘れないって言うものね」
「くるみは僕が年上になっても何だかんだ、お母さんみたいに嗜めたり世話焼いてくるんだろうな」
「あ、そういう悪い事言っちゃう人にはごはんはお預けです」
さすがに恋人から親扱いされるのは複雑なのか、くるみが菜箸を持ったまま、つんとそっぽ。その仕草は、細身を強調するだぼだぼな格好のせいで、余計にむくれた子供のよう。保護者という線で言えば、身長差のせいで碧のほうがよほどそう見えるだろう。
でも碧はくるみのそれが戯れの冗談だと、もちろん分かっていた。
お互いに分かったうえで、この他愛のないやり取りを味わっていた。
テーブルに着いたあとは贅沢なごちそうを口に運びながら、くるみの話を聞いた。
「碧くんへのプレゼントのために毛糸を買い出かけたときの事なんだけどね、外でちっちゃな妹さんのためにマフラーを巻いている男の子がいたんだけど——」
「うん」
「それがもうぐるぐる巻きで、妹さんはもうハロウィンみたいになっちゃってたの。絡まって解けなくなってて見てられなかったから、私が声かけて直すの手伝ってあげたんだけど、そうしたら二人がお礼に拾った綺麗な松ぼっくりをくれてね——」
ずっと秘密にしていた、碧へのサプライズ。
マフラーが完成するまで話せなかったいろんなエピソードが、話し足りなかったことが、堰を切ったようにあふれていく。
大好きな恋人の可愛らしいお喋りを、いつまでも聞き続けた。
*
豪華なお昼ごはんを味わい尽くせば、今度はパフェだ。
しかし碧は出されたグラスを前に、空いた口が塞がらなかった。
「……ちなみにくるみさん。このパフェの秘訣というか、拘りのポイントは?」
「甘党の碧くんは甘味なら何でも好きだろうけど、とくにどら焼きがお好みなのも知ってたから、今回はそれ系統で和洋折衷にまとめてみたの。秋だから栗をメインにしつつ、同じ味が続かないようにバランスも考えて、あとはクリームの舌ざわりとかも……」
今日のくるみはやけに饒舌だ。
料理好きは、レシピや秘訣を聞かれるのが大好き——これはくるみ本人の弁だが、しっかり当人が長広舌を披露することで説を立証してくれた。
一番上の栗の渋皮煮と焼きりんご、そして抹茶プリンから始まり、黒胡麻のムースに白玉、ほうじ茶のジュレとバニラアイスに自家製のあんこ……といった力作たちがグラスに美しく積み重ねられていて、その姿は踊り出す前のバレリーナのよう。
繊細な硝子細工を模したホワイトチョコレートまで乗っていて、もはやこれは芸術品と呼ぶほうが相応しいかもしれない。
「本気出しすぎじゃない?」
「別に心配しなくても、これくらいはおちゃのこさいさいだからね? 実は買い出しのときに碧くんのお母様にも電話で連絡して、好みのパフェのリサーチをしていたの。だから碧くんはお母様にもお礼を言ってあげて」
「そっか……そこまでして……」
確かに碧はパフェを頼んだ。けれど想定していたのは、ソフトクリームとコーンフレークを組み立てて、気休めにチョコを垂らしたような、そういうのなのだ。相手が完璧主義なくるみだということをすっかり忘れていた。
試作する暇もなかっただろうに、よく短期間でここまでのものを仕上げてきたなと敬服せずにいられない。
「これはちょっと、崩すの勿体ないな……」
SNSを全くやっていない碧でも、さすがに写真を撮らずに手をつけては罰が当たる気がした。なのでスマホで数枚記録に残してから、柄の長いスプーンを握ろうとしたところで——くるみにそれをさっと奪われた。
「あーんしてあげる」
不思議な呪文を言われた。
「この拘りのパフェは、私が手ずからあーんしてあげることで初めて完成するの」
「急に業界の巨匠みたいなこと言い出した」
「だってほら、私ならココとココを一緒に食べるとおいしいとか、そういう組み合わせも熟知しているでしょ?」
それがただの口実だと分かるのは、くるみがそわそわと頬を赤らめているからだ。
しかしそれも、碧がまごつくせいで時間と共にしょんぼり萎んでしまう。
「嫌ならいいけど……」
「あーううん! 嫌じゃない! ほらあーん」
自棄になってぱくっとスプーンを咥える。
甘酸っぱい焼きりんごに染みたバターの香ばしさと和栗のほっくり温かみのある甘さが、ふんわりとリボンを解くように舌に広がる。遅れてアイスのすーっとする冷気が浸み、果実を連れて、喉をするすると難なくすべり落ちていった。
「……うっま」
つい瞳孔を開いて感想を洩らすと、くるみはふわあっと雪が解けるようにはにかんだ。
「本当? そう言ってくれたなら報われるなあ。がんばってよかった」
「ほんとぜんぶの味がよく調和してるのがすごいよ。これくるみは味見してないの?」
「単品の時に味のチェックはしていたけれど、盛りつけてからはね」
「じゃあこれ一緒に半分こしようよ」
スプーンを差し出すと、くるみは受け取らずに碧の手をじぃーっと見詰めている。
「……もしかしてくるみもあーんしてほしいの?」
「うん……おねがいしてもいい?」
素直に甘えるとこは可愛いなと思いつつ、まだ手のつけられていない雪原のきれいな沫雪をひと掬いして口に運んでやる。しかしくるみはしばしもぐもぐした後、両手で頬を挟み、掠れた返事をした。
「何だか……恥ずかしくて味がよく分からないね」
「きちんと味わってた僕が暢気ってこと?」
「あなたがマイペースなのは今に始まった事じゃないでしょう」
「けどよくよく考えたら、僕らつき合う前からこういうことしてなかった?」
「……言われてみれば確かに」
手をつないだりスキンシップをとったり、事情があったとはいえ抱き締めたり——。
振り返ってみれば、夏を迎える前にはすでに、自分たちはもう恋人同士でしか考えられない距離感だったと思う。初めの頃は互いに気づいて恥ずかしがってとかあった気がするのだが、いつの間にかこの心地よい近さに慣れきってしまったようだ。
「でもそれは碧くんが……」
「距離近いって怒られてたもんな最初は。やっぱ僕のせい?」
「——いえ。私もその、別に嫌とかじゃなかったし。いつの間にか気にならなくなったどころか、碧くんがいないと落ち着かないまであったから……『悪い事をしてるわけじゃないからいいんじゃないでしょうか』に一票いれます」
「じゃあ僕もそれに一票」
「……なら何も問題なしね。うん」
妙に気恥ずかしい空気のなか、しばらくそうして二人で甘味を分かち合っていると、くるみが沈黙を押し返すように言った。
「と……ところで碧くん、他におねがい事は何か思いついた?」
「ああ。いや実はまだでさ。どうしようかな」
今日くるみは一日何でもおねがい事を叶えてくれると約束してくれている。
折角だしな、とひととおり考えて……それから一つ妙案が思い浮かんだ。
「じゃあくるみの『ハッピーバースデー』が聞きたいな」
「歌ってほしいの?」
「うん。歌ってほしい」
何でもこなすミス・パーフェクトの歌唱力に対する好奇心もあるが、今はシンプルに、くるみから歌でお祝いをしてほしかった。きっとそうしてくれたら、十七歳の何よりの思い出になるだろうから。
てっきり恥ずかしがって拒否するかと思ったが、くるみはほんのり頬を染めてから、すっと居住まいを正し——。
「はっぴばーすでーとぅーゆー……はっぴばーすでーとぅーゆー……」
ささやくように柔らかに、クリアで甘やかな唄が紡がれた。
碧は大好きなひとのお祝いに耳を澄ませていたくて、そっと瞳を閉じる。儚げなメロディはまるで、誕生日のケーキに煌めくろうそくの小さな火のようだ。
「はっぴばーすでーでぃあーあおくんー……はっぴばーすでーとぅーゆー……」
大好きな人が隣にいる。
自分のバースデーをお祝いしてくれている。
それだけで十分すぎるほどに幸せだが、欲を言うのならまた来年も再来年も、碧はくるみとこの日を迎えたい。
次に目を開けた時に彼女は、どんな表情で「おめでとう」と言ってくれるのだろう。
一瞬先に約束された光景に口許を綻ばせながら、碧は視界を塞ぐまぶたを、そっと持ち上げる——。




