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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
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第18話 友人と道しるべ(2)

 結論から言うと、勉強会はくるみに頼んで正解だった。


 くるみの説明の上手さのおかげで日本史と国語の振り返りが巻きで終わった上に、せっかくだからという彼女の申し出に甘えて他の教科も見てもらったのだ。


 もともと世界史や理数科目は得意な方だが、妖精姫(スノーホワイト)——改め女神様のおかげで勉強は大いに捗った。


「これで間違えたところの復習は全部……かな」


「お疲れ様、がんばったね」


 スマホを見れば、午前はとっくに終わっていた。忘れていた空腹がよみがえり、ペンを置いてうーんと伸びをする。


「助かりましたくるみさん。本当にありがとう」


「手の焼ける生徒だったけれどいいのよ。私も教えることで自分の勉強になるし」


「後半が事実なら、手の焼けるってところは言わないでほしかったな」


 くるみも自分の参考書を再び眺め始める。こういうちょっとした時間の地道な積み重ねが成績維持に大切なのだろう。


「……ich hatte Spaß heute」


 無自覚にドイツ語で独り言をこぼしたのだが、隣のくるみが初めて蛍を見た少女のように、物珍しそうに目を丸くした。


「今の、なんて言ったの?」


 どうやら聞かれていたらしい。


「今日は楽しかったなーって」


「あなたからそんな言葉が出てくるなんて意外。てっきり勉強嫌いかと思ってた」


 多分教えてくれたのが君だからだ、なんて思ったのだが、言葉にすれば口説いているようにしか聞こえないのでそこは言わないでおく。


「わりと好きですよ、勉強。まあ座学よりは自分の足と目で見に行く方が好きだけど」


「色んな国に行ったって言ってたけど、それも勉強のためなの?」


「うーん……勉強っていうか」


 碧はシャーペンを指で回しながら続ける。


「自分のするべきことを明確にするため、って方が近いかもしれない。何も知らないよりも、見聞を広めた方がこれからの人生で後悔のない選択ができそうな気がするから」


「あなたの行く先には、ただ本を読むだけじゃ得られない何かがあるってこと?」


「ですよ。だってそこに住む人と楽しく喋るのなんて、現地行かなきゃ無理じゃないですか。本は喋り相手にはなってくれませんから」


 当たり前のことを言ったつもりだったが、くるみは神妙な面持ちでしばらく瞑目し、窓の外の梢を見上げた。それから碧が先ほど出した言葉をぎこちなくなぞる。


「い……っひ、はっと、しゅぱっす……」


「ドイツ語に興味あるの?」


「私も喋らない本よりも喋る人たちとお話してみたいなって、ちょっと思っただけなの」


 笑みは見せず真剣そのものの目つきだが、僅かにはにかむように瞳を揺らがせているので、碧もからかったりはせず持っていたシャーペンを掲げた。


「シャーペンは Druckbleistift」


 それから続けて、ノートやスマホのドイツ語を紹介していく。


「くるみさんの自己紹介は Ich heiße Kurumi……女の子がよく使う言葉だと、可愛いは lieblich で、好きが lieb」


「えっと、lieblich(りーぷりひ)……」


「発音上手ですね、さすが覚えが早い。ちょっと手貸して」


 横から近づき、ペンを握るくるみの手を包むようにじぶんの掌を重ね、導くようにドイツ式アルファベットを書き並べる。


「文字に書くとこう」


 くるみは返事をせず、ほのかに瞳を揺らしている。その頬が赤いことに気づき——何か言う前に、彼女の方からごまかすように訊いてきた。


「えと、じゃあこれは?」


「辞書は Wörterbuch」


 くるみは身の回りのものを指差して、それを碧がどんどんドイツ語で答えていく。


 気づけば先生と生徒の立場が逆転した予定外のドイツ語勉強会が始まっていたわけだが、難しい勉強の息抜きにしてはちょうどよかった。


 そもそも日本では、碧が帰国子女だってことを知っているのは学校の教師や親戚以外だと湊斗と目の前の少女だけだ。色々事情を鑑みた結果、学校では(おおやけ)にしないことに決めたのだ。


 だからこうやって自分の秘密にしていたところを気兼ねなく曝け出せるのは、肩の荷が降りたような気がした。


 くるみは碧の真似をして、まだちょっとぎこちない声でドイツ語を唱える。


 それがなんだか、生まれたてのひな鳥が飛び方の練習をしているのを見守っているみたいで、ちょっとだけ楽しかった。



                *


 碧たちは勉強道具をまとめて、席を立っていた。


 ドイツ語講座をしているうちに気づけば時計の短針は午後の二時を指していた。お昼も取らずにこの時間なのだから、くるみもさぞお腹が空いているころだろう。自分のために時間を費やさせたのだから、何かお礼もしなければなるまい。


 そんな思いもあって、図書館の出口に歩いていくすがら、碧はくるみを引き止めるように声かけた。


「くるみさん」


「どうしたの?」


「もしよければなんですけどお礼にごはん奢らせてください。さすがにこのまま勉強教えてもらいっぱなしだと悪いし……」


 彼女は歩みを止めて、訝しげな視線を向けてくる。


「ごはんって、今からどこかに行くの?」


「確かにもう昼の二時過ぎだけど……夜ごはんに響いちゃいそうかな」


 しかしくるみの返答は思いもよらないものだった。


「気持ちはありがたいけれど、今日は大丈夫。私お弁当持ってきてたから」


「え、お弁当?」


「教えるのにどれくらいかかるか分からなかったし、二階の休憩室なら解放されているみたいだから。……私だけじゃ悪いと思って一応二つ支度してきたんだけど、いる?」


 くるみのお弁当、というワードに碧は色めきたった。


「逆にいいの? 貰っちゃっても。お腹空いてたからすごく嬉しいんですけど」


「その気がないなら最初から提案なんかしません」


 つーんとそっぽを向きながら、しかししっかりお弁当の包みを渡してくるのでこっそり笑うと、くるみはじと目を向けてきて——それから「仕方ない人ね」と言いたげに呆れたように口許をたわませた。


 階段を上ると、図書館の二階の休憩スペースは小綺麗で広々していた。


 並んだテーブルからてきとうな席を確保し、渡された弁当の包みを広げる。


 今日は洋風だった。海老とアボカドのペンネサラダに冬野菜のピクルス、ほうれん草をたっぷり焼き込んだキッシュ。


「すごい美味しそう。これはくるみさんが?」


「うん。お手伝いさんが用意するのは学校の、私のぶんだけ」


 やっぱり、碧のぶんはくるみが手ずから準備していたということか。


 申し訳ないなと思っていると、くるみが碧の心を汲んだように口を挟んだ。


「私は誰かのために料理をつくるのは嫌じゃないし、好きでやっていることだから。気にしないでいいわ。ほら、メインはローストビーフのサンドイッチだから、包み紙のままどうぞ」


 そう言って、半分ほどクッキングペーパーを剥がしたパンを向けてくる。勉強を教えてもらった上にお昼まで恵んでくるなんて、どうお礼を言えばいいんだろうと思いつつ、まずは目の前のご馳走にかぶりついた。


「今日のもすげえ美味しい」


「ふふ……だって、ホースラディッシュの特製ソースも私が一から調合……して……」


 ちょっぴり誇らしげに紡がれる声が、尻すぼみにとけた。


 時間が止まった様子の彼女を見て「……あ」と、碧は過ちに気づく。


 身長差があるゆえ、差し出されたサンドイッチが口許に運ばれているものと思い、彼女が手に持ったまま考えなしにぱくっといってしまったのだ。


「ごめん、つい」


「う……ううん、平気。別に大丈夫だいじょうぶ。これくらい平気だから。……碧くんいつも距離近いからそっちの方が、その……」


「それも直すように善処します」


 くるみは恥じらいを隠すように睫毛を伏せる。


 気を遣わせないためだろうが、取ってつけたような二回の〈平気〉と〈大丈夫〉が、却って彼女の心の動揺を表しているようだった。


「う、うん。……びっくりした」


 最後のは独り言のつもりだろうが、ぼそっとした呟きが碧に届いた。彼女の耳はうっすら紅潮してさえいる。二人して居た堪れない空気のまま、いただきますをした。


 三手で箸を取るくるみは、まだおろおろと動揺が残っているとはいえ、やはりお嬢様らしくしっかりと日頃の教育が行き届いていた。箸の扱い方といい、ゆっくりと上品にサラダを口に運ぶ様子といい、そのまま皆の手本にできそうな姿にはさすがと言いたくなる。


 さっきの空気を吹き飛ばす意味合いも兼ねて、バゲットにかぶりつきながら、碧は気になっていたことを問いかける。


 前は彼女の身の上を聞き出すのをためらってしまったが——今なら、少しくらいなら答えてくれそうな気がしたから。


「朝晩の家族のごはんも、いつも家政婦さんが?」


 彼女はこくりと頷く。


「くるみさんは家族に振る舞ってあげてないの?」


「……私が家族に料理をつくって、喜ばれるとも思わないし」


 寂寥を滲ませてうつむくくるみに、しかし碧はためらわずに言う。


「全くそんなことないと思いますけど。そういうお手伝いさんが用意するような高級なもの味わったことはありませんが、僕にとってはくるみさんの料理が世界一美味しいし」


「……!」


 くるみが息を呑むのも知らず、碧はキッシュの最後のかけらを一口放り込んだ。


 刻んだドライトマトも入っているようで、濃厚なたまごとクリームの優しい風味の間に現れる甘酸っぱさが絶妙に爽やかでやみつきになりそうだ。その幸せな味を十分に味わってから言葉を続ける。


「なんというか、豪華なのもたまにはいいけど、毎日食べるならくるみさんのお弁当一択ですよね。だってこんなに美味しいじゃないですか。僕幸せ者すぎるでしょ」


 唖然としていた彼女のミルク色の頬は、それを聞いて熟れた林檎(りんご)のように真っ赤に染まっていった。


「それ……どういう意味で言ってるの」


 あわあわと、限界まで真っ赤になるくるみを目の前にして、碧も自らの発言を振り返り、その新妻にかける夫のもののような——あるいは最愛の恋人に捧ぐプロポーズのような台詞を自覚し、かあっと熱を持った。


 だが、嘘は言っていない。伝えたほうがいいことはまっすぐ伝えるべきだ。頬の赤みは気取られたくはないが、碧は照れを何とか乗り越え、本音を続ける。


「けど本当のことですよ。たとえくるみさんにお弁当交換してって言われたって、あげたくないのが本音ですもん。これは僕がもらったんだから僕のです」


 あまりに幼稚な発言だが、くるみは頬に差した淡い朱を耳まで広げ、恥じらうようにそっぽを向いた。


 ここ最近になって確信したことだが、彼女は人前で見せない一面を数多く持っている。棘のある態度もそうだし、やたらと世話焼きのところもそうだ。そして普段は大人びているくせに、不意を突かれると今のように年相応に狼狽えるところも、喜ぶとあどけなく純真無垢な笑みを見せるところも。


 こっちの方が人間らしさがあり、可愛らしい、と思う。


 もちろん、言葉にはしないけど。


「…………もう、食いしん坊なんだから」


 くるみは頬に朱を残したまま、発言には気をつけろと言わんばかりに、じと目で刺してくる。別に怒ることじゃないだろうにと呑気に構えながら、手掴みでキッシュを一切れ持ち上げる。真昼の春空の下に広がる菜の花畑のようなパステルイエローの、あの思い出深いはじめての卵焼きを思い出しながらかじった。


 相変わらず()()()()()()()()()な料理だな、なんて舌鼓を打ち——


「……あ」


 その時、雷が落ちたように、唐突に気付いた。


 というよりは全てがつながり、憶測が確信へと姿をかえた。


 碧に弁当を差し入れてくる本当の理由を。


 碧の見立てが正しければ、彼女の言った「自分のため」——というのはあながち間違いではない。嘘でも方便でもなく、本当に彼女自身がそう望むからしている。


 だが、それには難解でひとすじなわではいかない事情がある。


 三十秒ほど考え込んでから、一度箸を置き、ためらいがちに口を開いた。


「……あの、くるみさん。もし違ったり、嫌なことだったなら聞き流してくれればいいんですけど」


「どうしたの?」


 正直、迷った。これを言うことが、いいことなのかどうか。


 少し前にも、余計なことを言ってしまった。あの時のことはなんだかんだでお咎めなしになったものの、今はこうして堂々と知り合いと呼べるほどの関係——誰かに言うかどうかは別として——には多分なったんだし、下手なことはあまり言いたくない。


 けれど、後々に腹の探り合いをするくらいなら今話したほうがいい、と思う。


 それに彼女の透明なヘーゼルの瞳を見ていると、やはり放っておくことはできそうになかった。柄じゃないのに、どうも大きなお世話をしてしまいたくなる。


 だから腹を括って、ゆっくりとこう告げた。


「くるみさんは何かと僕に気を遣っているみたいですけれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そういうのに応える生き方が、僕が僕たる所以だから」


 ゆっくりと確かめるように視線を向けてみると、くるみは瞬きをゆっくりと一回してから、黙って碧の言葉の続きを待った。先ほどと変わらない面持ち。


 ただほんの少し、彼女のまとう空気が揺らいだ——あるいは彼女を囲う見えない硝子にほんの僅かに、ぴしりとひびが走った音がしたような気がした。


追記:会話の一部ミス修正しました

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