第179話 ぬくもりの答え(3)
——あ、天使がいる。
朝の気配の下で目覚めた碧は、視界に映ったそれを、寝ぼけた瞳でそう判断した。
目覚ましが鳴らずとも、体が勝手にいつもの時間に眠りから覚めた原因は目の前にある。
鳥のさえずりに包まれながらソファに並ぶように隣あわせたベッドで、くるみが眠っているのだ。
ひとり暮らしだとありえない他者の温もりは、碧のゆびさきに集中している。
ベッドとソファで寝床は違えど、寂しくないようにと昨日の夜は手をつないで寝たのだが、ふたりとも寝相が悪くないからか、それとも寝返りをうつ隙もないほどにぐっすり熟睡したからか、小指だけは生き残っていたようで、離さず絡んだままだ。
〈お泊まりの練習〉をしたときはくるみに寝顔を盗み見られたが、どうやら今日はこっちに先制を許されているらしい。
気配で起こしてしまわないように息を殺してそっとにじり寄って眺めると、なるほど確かに……くるみの気持ちがわかる気がした。
差し込む光で四角く切り取られた亜麻色の髪は、柔らかくたわみながらシーツのうえに広がっていて、そこだけが淡彩の輝きを反射する。そしてあいかわらず整いすぎるほどに美しい睫毛や頬のライン、すっきりした忘れ鼻のシルエット。普段よりあどけなく幼い印象なのに、それと両立する神聖さ。
ただ、寝ている。それだけなのにまるで、ここが天国かなんかで、さらにその真ん中が彼女なのだと錯覚してしまいそうなほどで。
口許はふにゃりと幸せそうに綻んでいる。今くるみがどんな夢を見ているのか、想像するだけで半日が終わってしまいそうだ。
「……かわい」
つい独り言ちて、つややかな絹束に指をとおす。
きっとくるみを愛したこと以上に、この世に幸せは存在しないのだろう。
霜月の肌寒い朝を大好きな人の温もりとともに、十七歳の誕生日のスタートをくるみと共に迎えられたこと、それこそが世界一の幸福に思えた。
「んぅ……」
そのとき甘く掠れて喉が鳴る。
かと思いきや、くるみは目覚めることはなく、そのまま温もりを求めるようにつないだ碧の小指を上に引き上げ、頬擦りしてから再び沈むように穏やかな寝息。
碧が数ヶ月前にくるみに送った『生まれてくれてありがとう』をお返しするために昨日は遅くまで起きてたからか。早寝早起きがこの世の真理です、が信条みたいに規則正しい生活を送るくるみも、体内時計がちょっとお留守らしい。
今日が日曜なことの他にこの幸せを崩すのが惜しいので、もう少しだけこのままでいることに決めた。
ベッドの縁から飽きもせず眺め続けて、結局、そろそろ起きないと朝ごはんの品数をひとつ少なくしなきゃな、という時間にようやく彼女は身じろぎをした。
「ん……」
家でときたまうたた寝をするので知っているが、くるみは案外、寝起きが悪い。
一度すっかり目覚めればてきぱき支度を始めるのだが、その覚醒までがなかなか曲者で、寝てるんだか起きてるんだか分からない時間が、長いと十分ほど続く。
その間、くるみはいつもの怜悧な才気や鬼のような自律心が働かなくなるみたいで、普段は抑えられている生来の甘えんぼさが遺憾なく発揮されるのだ。
ただでさえ可愛すぎるくるみがとんでもなく可愛い甘え方をしてくる。
正直下心まみれな自覚はあるが、そんな理由で碧はお寝ぼけくるみが好きだった。
「ほら。朝だよ」
目覚ましの掛け声なのに、起きないようにわざとボリュームを潜めるという矛盾を承知の上で白い頬をぷにぷにとタッチすると、まぶたが半分持ち上がった。
まだ片足を眠りの世界に突っ込んでいるような、夢見がちに潤びてとろみを帯びたヘーゼルが半月になる。ぽやーと焦点のあわないまま、その水鏡に碧を映した。
いつもよりずっと幼い印象の彼女に、優しく優しく声を掛ける。
「おきた?」
「んー……」
「寝てる?」
「んー……」
「あはは。どっちだよ」
おかしくてつい笑うと、それに釣られるようにくるみもあどけなく相好を崩し、喉を鳴らした。きっと意味を理解してるのではなく、ただ赤ちゃんが笑い返してくれる現象に近いのだと思う。
だがその真っ新で尊い光景がまた、やすやすと泣きそうな気持ちを誘発する。
なんだかじんと来て、少しだけ目許を袖で擦っていると、くるみが腕で支えながらもようやく上体を起こした。
スマホで時刻を確認。五秒ほどぼーっとした後に、観察に徹していた碧に気づく。
くるみがじわじわと時間をかけて紅潮していくのを、碧は見ていた。
「え? え……あおく……?」
「おはよう」
「……おはようございます。あの、なんでここに?」
「朝まで一緒にいるって言ったのくるみのほうじゃん」
「そ。そっか?」
まだ若干お寝ぼけが残っていたようだ。
可愛いなと思って碧が笑うと、彼女もはにかむように笑った。
「ずっと見てたの? 私の真似っこして」
「くるみが可愛いからしょうがないんです」
人々が犬や猫を見て癒されるのと同様に、碧はくるみを見てると幸せになれるのだ。
そう言うと、照れた彼女様からは「ばか」といつもの文句が返ってきた。
ネグリジェの裾が捲れてしまわないように押さえながら、くるみは女の子座りになっていた足を動かし、ベッドの縁につまさきを下ろす。碧の隣に……。
一夜を共にしたのに、こういうシチュエーションにはまだドキドキしてしまう。
「碧くんの調子はどう?」
「僕?」
「まだ疲れてる? 今も辛くはない?」
大丈夫? と尋ねないところが、くるみの優しいところだと思った。
だから碧も正直に答えることができる。
「別に今も現実に打ちのめされてるわけじゃないし、平気……って言いたいけれど、やっぱり哀しい出来事がなかったことになることはないからな」
「うん」
「多分このさき長い人生を生き続けるうちに、昨日みたいに何度だって思い出して、辛い思いをすることはあるんだと思う」
「うん。そうよね。だから……ほら」
お隣のくるみはぽんぽんと自分のひざを叩いた。
「?」
碧がたった今話したこと、そして『だから』という接続詞でくるみが自分のひざを叩くことが、因果関係としてつながらない。
不思議そうにする碧に、くるみは焦れったそうに眉を八の字にする。
「分からないなら目を閉じて」
言われたとおりまぶたを下ろすや否や————肩が押され、思わず開いた視界が逆さまにひっくり返った。
ぽふっと何かクッションのような柔らかなものに受け止められる。
虚を衝かれたまま、三秒ほどを状況把握についやすと、どうやら横になった先はくるみの太ももの上らしいことが判明し、朝っぱらから心拍数が急上昇した。
「くるみさんこれ何ですか?」
分かってる。誰がどう見てもひざ枕。碧が尋ねたのは、なぜこれをという話だ。
「一緒に寝かしつけは昨日したから、こっちもしてあげなくちゃって思って。でも……恥ずかしいから五分だけ、だからね」
その感情を読み取ろうと首をわずかに動かせば、清楚な白いネグリジェを押し上げる山と、そのおくに愛おしむような瞳が見え隠れしていて、鼓動をばくばくと高鳴らせながら慌てて目を逸らした。
スタイルが抜群と言うのも困りものだ。
それを知ってかしらずか、恥ずかしがるような指示が降ってくる。
「ほら。照れちゃうからこっち見ないの」
「う、うん……」
至れり尽くせりをされて不埒な事を考えてるとばれる訳にはいかない。それにこのまま見つめて拗ねられてはよくないので、首をもとに戻す。
「でも、その……こんな事していいの?」
「碧くんの為ならおやすいごようです」
「値段つけられないくらい高価だと思うけどな」
しかしいざこうしてみると、見るぶんには折れそうなほどに細くすらりとした脚線美なのに、案外しっかりとこちらを支えてくれるものだ。しかも指で髪を優しくかきわけてくれていて、それはまさしく至上の感覚。
上を見れば欲望が湧いてしまうが、横を見ているぶんにはすこぶる心地のいい時間。
右頬にふれるシルクのネグリジェはなめらかで、布一枚へだてて肌からじんわり伝わってくる体温が眠気を誘ってくる。爽やかな花の香りと共に、幸福を享受した。
「これ、すごく落ち着く。眠くなる……」
「お休みといえど、夜眠れなくなるから二度寝はだめだからね」
めっ、とぺちぺち優しく頬を指の腹でタッチしてくる。
釘を刺しつつも声はどこまでも優しくて、きっと碧が寝てしまったところで文句ひとつ言わずに、そのままの格好で見守ってくれるんだろうと思えた。
「……あのさ」
「?」
「僕って君に何をしてあげられるのかな」
「どうして?」
「なんか、貰ってばっかりな気がして」
「それは私の台詞。いつだって碧くんに支えられているし助けられているわ」
「……くるみがお礼する主義になった気持ち、今ならすごい分かる」
「ふふ。なら結構。また私が落ちこんだ時に励ましてくれればそれでいいんじゃない?」
「未来の僕に投げやりしちゃっていいの?」
「今の碧くんも未来の碧くんもどっちも信じてるから」
「そっか」
「うん」
「いざその時が来たら持てるぜんぶで、いつかの僕がなんとかするから任せて」
「頼りにしてる」
くるみはいつだって碧を想ってくれる。寄りそって支えてくれる。肯定してくれる。
碧はそんな彼女をますます大好きになってしまう。
愛から始まったこの関係は恋となり、今はすっかり恋愛と呼ぶべきかたちに落ち着いていた。これ以上好きになることなんかないと思っていたのに、くるみは碧を毎日メロメロにさせてくる。愛情は日に日に底知れぬほどに熱く、大きくなっていく。
だから残された時間も、大事にしたい。そう思った。
約束の五分間——ではなく、かなり甘いおまけも込みの十分間を終えた後、くるみは脱衣所の鏡のほうへぱたぱたと向かっていった。
サイドテーブルの巾着からねぐせ直しとブラシを持っていったので、碧の前ではきちんとした格好でいたいのだろう。そんないじらしい恋人が身だしなみのチェックに勤しんでいる間、碧はベッドに残ったまま、スマホの通知を確認する。
まずは、ふかふかの綿毛のような白いポメラニアンをアイコンに設定した、一日限りの王子様からの連絡。
〈碧っち昨日はごめん お人好しなところに甘えてたというか……嫌な思いさせたよな〉
〈っていうかお人好しってほめ言葉のつもりだけどあってる!?
悪い意味じゃないから! すげーいいやつって意味だから!
でもおかげで吹っ切ることができたのは本当だよ!〉
〈ほんとにありがとな〉
〈お詫びに今度めし奢らせて! 姉貴のバイトしてるとこのパスタが美味いんだよね〉
〈あっそれと! 楪さんにパレードの時に教えてもらったんだけど誕生日おめでとう!〉
今の素直な気持ちのまま、明るい返信をしたためてから、次の通知を開く。
順にルカ、湊斗、夏貴から届いたものだ。
〈Alles Gute zum Geburtstag!〉
〈誕生日おめでとう!
文化祭のあいだあんまり話せなかったけど週明けつばめとお祝いしに行くから!
予定空けとけよ〉
〈颯太から教えてもらった 今日誕生日なんだってな
俺なんかから祝われてもそんな嬉しくないだろうけど……いちおうおめでとう〉
どれも零時ぴったりに受信のタイムスタンプを刻んでいる。
その他にも、くるみと交際を始めてから会話するようになったクラスメイトたちからも、お祝いの言葉が届いていた。
「……恵まれてるよな、僕も」
なんとか返信の文を打ってみたものの、むねがいっぱいになり、送信は押せなかった。
後でしっかりと気持ちが落ち着いてからちゃんと送ろう。そう思った碧は、隠しきれぬ喜びを口角に浮かばせながら、くるみの後を追って寝室を出た。
前回のお泊まりは平日で学校があったのでばたばたしていたのだが、今日は日曜なので、朝ごはんはゆっくり頂くことが出来た。
ふちをかりかりに焼いた半熟の目玉焼きとベーコンに、こんがり焼いたトースト。肌寒いこの時間にぴったりな温かいスープに、サラダと目覚ましにコーヒーで、まるでお手本のようなブレックファーストである。
さっき脱衣所で鏡をみた時はまだほんのり目尻が赤くて、それが嬉しいような気恥ずかしいような浮いた心地のまま、碧は改めてくるみに言った。
「ありがとうね。昨日」
くるみはかじろうとしていたトーストを律儀にお皿に戻してから、口角を弛める。
「どういたしまして。けれどお礼はまだ早いと思うの。だってお誕生日はここからが本番だし、まだまだお祝いは続くんだから」
「そうなの? 昨日、というか寝る前ので終わりじゃないの?」
「だって七日が終わるまであと十二時間以上もあるのよ。夜はこの間リクエスト頂いたごちそうと、その他にも碧くんの大好物をいーっぱいつくるし」
「……もしかしてそれも、文化祭回ってた時に聞いてきてたやつ?」
「もう。気づくのが遅いんだから」
さすがにくるみも少し呆れたようだ。
自分の知らぬ間にくるみによる正々堂々とした調査が着々と進んでは終わっていたことに驚いたが、これはもう碧が鈍すぎるのが悪いのかもしれない。
「こんな見え見えの方法、さすがに来年もしたら事前に誕生日気づいちゃうから、今年しか採用できない手段だったけれどね」
「来年も祝ってくれるの?」
「だけじゃなくて、今後もずっとよ」
くるみがはにかむようにほわりと目を細め、それを見ただけで口の中に甘さが広がる。
それを中和させたくて残っていたコーヒーをがぶのみすると、くるみは碧の照れもお見通しのように笑い、マグカップにおかわりを注いできた。
どちらかと言うと紅茶派の碧だが、これからの暮らしでくるみの甘さを味わい続けるなら、本腰をいれて豆とコーヒーミルを買ったほうがいいのかもしれない。
なんてしょうもないことを考えていると、
「とにかく、今日はどんなおねがい事だって叶えてあげちゃうからね」
腰に両手を当てて、ちょっぴり誇らしげに彼女が言う。
「碧くんにとって一番幸せな一日になるようにがんばるから」
そんなくるみを見たとたん、甘さだけじゃなく、碧は強烈な渇望としか呼べない感情が生まれたのを自覚した。
「どんなおねがい事でもいいの?」
「え? うん」
「本当にどんな事でも?」
「うん。碧くんのおねがい事ならなんだって叶えてあげます」
「……そしたら提案なんですけれども」
「はい」
これから切り出すことの重大さを鑑みて、丁重に慎重に敬語で言うと、くるみもそれを察知したのか、また居住まいを正し畏まった様子で返してくる。
そんな彼女を見て、碧は長く逡巡した。
これは正直、誕生日のわがままでは片づけられない話だ。
というかこの考え自体は前々からうっすら懐抱していたことなので、今の誕生日云々は口実というか、ただのきっかけにすぎない。
でも——くるみの昨夜の言葉が嘘じゃないなら。
きっと、どんな困難だって乗り越えられる。
昨夜覚えたそんな巨大な感慨と確信を思い出しながら、碧は真剣な目で告げた。
「これは僕とくるみが……もし、同じ都内の大学に進学するならって、そういう前提の話だけどさ」
「うん」
「千萩が中学したら日本に帰国するんだって。僕と同じ高校に入学したいからって。つまりこの家は再来年の春から、妹が住むことになるんだ。母もこっちで暮らすようになるみたいで、別に僕も残ってそのまま一緒でもいいんだけど……もうひとつ考えがあって」
「え……?」
話が読めないといった風情でくるみは続きを待っている。
——だから僕は、真冬の雪空で初めて君に愛の言葉を伝えたあの日と、同じくらい真心をこめて、こう言った。
「高校卒業したら……大学に通う予定の、四年間。僕たち、ふたりで一緒に、暮らしませんか?」
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第4章はこれにて完結となります。
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