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第177話 ぬくもりの答え(1)


「……これが僕の話。父親以外に話したことがない、僕の世界の全て」


 独白は途絶えた。


 外からは、遠くを走る電車の音が、別世界みたいに聞こえてくる。


 わざわざ文化祭までやってきた琥珀とはあの後、こんな会話をした。




『送った楽譜、見ただろ』


『うん』


『あれは俺より、碧が持っていたほうがいいと思って。もう弾けないし、俺が持ってても仕方がないものだからさ。あ、もちろん都合よく押しつけるつもりじゃ決してないことだけは知ってほしいんだけど』


 きっとずっと気にしてたんだろう。愁いを帯びた瞳を翳らせながら。


『今こうしているだけで、お前が傷ついてることはわかってる。けど後悔してたんだ。あの時の何も分からない俺のなんでもない発言が、もしかしたら碧の人生を縛ってしまってるんじゃないかって。俺はただもう一度、お前と友達になりたいだけだったのに』


 碧自身のわがままで、何年も会わないようにしていたしわ寄せ。


 それが琥珀を長い間後悔させ、辛い思いをさせていた。


『ただ、昔の俺ならなんて言ってたかは想像するしかないけど……正直に言うとさ、今の俺は世界よりも身近なひとなんだ。俺は、自分の大事な人が平和に生きてくれればそれでいい。それが一番。なのに、碧の貴重な時間を何年も何年も、何年も奪ってしまったとしたら、俺は……』


 答えは決まっていた。


 ゆるく首を振って、こう返していた。


『誰にも否定はできないよ。肯定もできない。できるのは僕だけだから』


 それは、その場凌ぎのなぐさめなんかじゃなく、心からの本心だった。


『だから誰のためでもないよ。僕はただ自分がそうしたくて、誰かが何かに怯えなくていい暮らしの助けになれればいいって、そう思ってるだけだから』


 琥珀はそっかと小さく笑った。


 だから今なら、素直に話せる気がした。


『ずっと連絡してなくてごめん』


『いいんだよ』


『勝手に居なくなったのも、ごめん』


『いいんだって』


『それと僕は琥珀と、友達のつもりだから』


 彼は少しばかり目を丸くして、あの時みたいに手を寄せてきた。


『俺さ、またお前と友達になれてよかったよ』


 ——ああ、よかった。


 そう思いながら掌を返す。


 だってそれは、自分も同じく思っていた事だから。




 ばちん、とハイタッチでバトンが渡される音で回想を打ち切り、いま目の前にいる少女を見る。


 箱庭に守られ、浮世離れした人生を送り、穢れなきなまま高校生となったくるみの瞳には、美しいものや綺麗なものがたくさん映っている。だが、本当は世の中には敢えて知らなくていいことなんておびただしいほど存在する。


 残酷な話、厳しい問題、不都合な真実、知れば傷つくもの。


 その証拠にくるみは黙ったままで、表情は見えない。


 震える彼女の細い肩を見て、碧は少しだけ——後悔する。


「……こんな話、ほんとうは留めておくべきだったんだとおもう」


 颯太とか、夏貴とか、湊斗とかルカとか、そして琥珀も。みんな少なからず、碧という人間に大きな幻想を抱いている。


 人より多く物事を知っているだの、広い視野を持ってるだの、けれど全て驕りだ。


 本物はただがむしゃらに何かを成し遂げようと考えて考えて歩いているだけの、力のないただの高校生にすぎないというのに。


 自分の生き方に後悔は、ない。


 何が正しいとか誰が間違っているとかそういう次元の話じゃなくて、もっと根っこのあたりで、自分はこの清い生き様を確信し、肯定し、最後まで全うするつもりで生きている。


 暴力だって戦争だって混乱だって。この世から不幸がなくなればいいなんて篤志だって本物だ。そんな気持ちは、なにひとつ偽りじゃない。


 けど、時々道半ばで立ち止まって、思うときがある。


 今のやり方で本当に間違っていないのだろうか。彼の意志を継いで、いろんなものを犠牲にするかもしれないのに、なにひとつ顧みずにこれからも突き進んでいけるのだろうか。


 ——その結果、くるみを遠くおきざりにすることになって、果たして僕は平気でいられるのだろうか。


 でもこれが、自分の選んだ道だから。


『本当に平気なの?』


 ふと、幼い姿をした自分が。


 傷ついた子供時代の碧が、自分自身に問いかけてくる。


『大事なひとが選んだ道の先に、そんな僕がいてもいいの?』


 ゆるりと首を振る。


 その答えを今の自分は持っていない。だから話はここまでだ。


 栞を挟むように、碧は話を終えた。


「……これが僕が目指すものと、その理由だよ」


                *


 閉め忘れたカーテンの外、高い空を夜間飛行する銀翼と、泣き疲れて閉じた瞳のような三日月のうしろに、深い深い夜の気配がすぐそこまで押し寄せている。


 その巨大な(かくご)を背負って立つ碧は、やはり泣いてはいなかった。


「…………」


 喉が震えている。


 言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉は何も出てきてくれない。


 旅客機が僅かな静寂を呼び、その隙間で洟がすすられ、抑えられた嗚咽がとめどなく洩れる。


 視界は透明ななにかでおおわれて、今一番見ていたいはずのひとの姿は曇って、ぼやけて、滲んで、今にも見えなくなってしまいそうで。


 この話をして、自分の昔をぜんぶ白日のもとに示して、一番辛いはずの目の前の彼は。


 いつか彼が教えてくれたように、やっぱり涙の一粒も零すことはなく、くるみの涙に気づいたのか、ただ悲しく傷ましい瞳でこちらを見ていた。


 本当に心から。自分の事ではなく、自分の話でくるみが泣いたことを悔いるように。


 そんなどこまでも他人本位な優しさにまた心が締めつけられて、くるみは欷泣(ききゅう)を押し殺して泣きじゃくってしまう。


「ごめん」


 掠れた謝罪が、二度聞こえた。


「……ごめん」


 それから涙を拭おうと、タオルケットを持った大きな手と震える指がなぐさめるように近づいてくるが、気づいたらくるみはそれを差して——碧を全力で抱き締めていた。


 感情のままに、想いのままに。


 タオルケットがはらりと宙を舞い、ひゅっと、虚を衝かれた彼から驚きの息が押し出され、それでも腕を弛めることはなく。その存在が今確かにここに在ることを刻むように、あるいは彼の今までの生き方を労って肯定するように、孤独(ひとり)じゃないことを伝えるように懐抱(かいほう)する。


 はさり、とタオルが碧の面持ちをおおい隠す。


 波のように押し寄せた感情がひるがえって、ぐちゃぐちゃになって、そのありったけを束ねるように腕に力をこめた。


「違うっ。違うの!」


 考えてから喋るなんて当たり前のようにしていることが、今だけはできない。


 紡がれたまま、織られたまま、くるみは感情を昂らせることしかできない。


「私はただ哀しい話に泣いてるんじゃないっ! ずっとそれを知らずにいた自分に、後悔してる。怒ってる! 大事な過去を手渡してくれたあなたにあげられる言葉がないことに怒っているの。分かんない……どう言い表せばいいか、分からないだけなの」


「……くるみ」


 碧は驚いた目でこちらを捉えている。


 ——そうだよね。一緒に悲しんで泣いてあげるなんて偉そうなことを言ったのに、怒ったりなんかしちゃってごめんね。


 ——思い返せば、碧くんは出会った時から……。


 不思議なひとだった。高校生らしからぬ古風な空気、ときに遠くを見つめるような瞳。どうして彼がそうも落ちついているのか……この夜、彼を彼たらしめる在り様の片鱗どころかすべてを理解してしまう。紡がれた物語に答えはすでにあった。



〈——きっとあなたは、大人で在らざるを得なかったんだ〉



 どんな気持ちで、今日までを生きてきたんだろう。


 考えがあんまり読めない人だと思っていた。けれどそれは違う。感情を抑えて表に出そうとしていなかったのだ。


 さながら博愛主義で誰も見捨てられないお人好しだと思っていた。それも……少しだけ違う。優しさの裏には、自分のだけじゃない主義と信念に基づいた確かな重みがあった。


 碧とその親友の、絆と生きた道の刻まれた、大切な夢をきっと……守るために。


 そうは言っても彼にだって、友人の記憶が戻らないことへのやるせなさが、二人で追いかけた道を今度は一人で追わなければいけない心許なさが、この話を誰にもせずにひとり秘めて握り続けた孤独が、きっとあったはずで。


 そんな辞書で引いたような感情をただ想像で並べたところで、言葉以上に彼の思いのぜんぶは推し量り切れないのに。


「こういうときは『がんばった』よ。……『ごめん』なんかじゃない」


 話して疲れ果ててしまったのか。抱き締められた碧はそっくりそのまま返すように、くるみの言葉をなぞる。


「僕は……がんばった。のかな」


「うん」


「今はまだそう思えなくても、そういう風に言っていいのかな」


「うん……」


 また視界がぼやけていく。堰き止められない涙の理由なんか、もう分かりっこない。


 けどひとつだけ、知ってしまったことがある。


「わたしね、根拠もなく、あなたとは隣あってると思ってた。けどわたしたち……すごく遠いんだ。霞んで見えないくらい」


 ——そんなことは一番初めに出会った時から知っていたはずなのに、どうして忘れていたんだろう?


 琥珀がどうあっても、琥珀であるように。


 碧は、碧で。


 くるみはくるみで。


 どんなに親しくなっても、長い人生を共に歩むことは出来ても。


 そのひとの世界はそのひとの領分であり、踏み込むことは出来ても、互いを完璧に理解するのが出来ないのはひっくり返しようのない事実なのだ。


「だからかな……今は何を言っても、きちんと届く言葉にならない気がする。こんな時にこそ、必要なものなのに。けれど今何を言っても上辺だけの言葉になっちゃいそうだし……そんな分かったようなこと、私言えない」


 考えるまでもなく、二人のために自分に真に出来ることはないのだと思う。


 時々外国まで会いにいくとか、日本にいる間は支えるとか、そういう次元の話じゃない。


 何年も親友のために遠い道のりを歩き続けた碧。それを信じて託した琥珀。


 碧が憧れた、琥珀。その眩しい姿を追いかけるように努力して——それがいつしか逆転して、目指していたはずの琥珀に尊敬するようになって。それを碧は丸ごと抱えて。


 ふたりだけで紡がれてきた物語に自分がいまさら手を挟むことなど出来ようはずもない。どれだけ助けたくても、そうは出来ない。関われないのだ。


 その真実がやるせなくて、自分に何も出来ないことがは痒くて、この人の存在が遥か遠く思えて。



 ——けど。

 ——だけど!



 それでも私は、あなたが好きになってくれたくるみだから。



「碧くん」


 これだけは言えることを、確かにと。


「覚えてる? 九月六日のこと。私がどんな気持ちでオーストラリアに行ったのか、あなたなら分かるでしょう?」


 腕のなかの碧の体が僅かに震える。


「……駄目だよ。分かる。けれどくるみが今から言うことに賛成はできない」


「どうして?」


「くるみは天使でも女神でもましてや妖精でもなくて、ふつうの女の子だろ。だから僕は君には自由になってほしい。狭めたくない、縛りたくない。……押しつけたくないんだ。これは僕の選んだことであって君の選んだことじゃない。僕はくるみの自由を守りたい」


 それを聞いてまた、やるせなくなる。


 どうしてこんなに優しい人が、傷つかなければならない世の中なんだろう。


 そしてきっとこうまで他人を思い遣れるからこそ、琥珀とは数年すれ違い続けた。


「……うん。そうよね。知ってる、あなたがそういう優しい人だってことくらい。そして私がふつうの女の子だっていうことも自分が一番解ってる」


 でも、とくるみは言葉を継ぐ。


「遠い世界のひとだったら、私があなたを支えちゃいけない? ただの女の子が自分のしたいことを見つけてそれを目指そうとするのは、そんなに不思議なこと?」


「でもそれは、くるみが僕と出会ってしまったせいで——」


「それ以上は言わせないわ、碧くん」


 大事な人に、してはいけない失言をさせてしまうまえに、くるみは彼の頬に両手をそっと沿わせ、諭すように包みこむ。


 失意に伏せられていた碧の瞳が、ゆっくりと開かれた。


「私、あなたと出会えたことを何ひとつ後悔なんかしてないのに。勝手に人の気持ちを代弁しようとしないで。ばか」


 罵倒をそなえた言葉とは裏腹に、眠った赤子を揺するように穏やかな語調で言う。


 黒曜石の瞳は、くるみを映しながらも小刻みに震えている。


「たとえ碧くんが世界の反対にまで行っちゃっても、私はあなたと出逢えてよかったってずっと、思ってる。本当よ? ……だって私ね、碧くん。もしあなたと出逢えていななければきっと今でも、世界がこんなに広いんだって知らずに生きていたもの」


 存在すらずっと知らずにいたこの恋情を、それに近しい感情たちの名前すら。


 それからそっと睫毛を伏せる。


「碧くんは私が、碧くんのために時間を失うことが嫌なのよね。……でも知ってる? 私があなたのために何かをしようとすることと、私が自分の為に生きようとすることが決して矛盾する訳じゃないってこと」


 くるみは言葉を紡ぎ続ける。


 重ねるごとにうすっぺらくなってしまおうとも、今のこれが純真な自分の心だから、きっとひとひらだけでも届くと信じて。


 歩道橋で本当のくるみを見つけてくれた時の碧が、幼い頃の自分にも届く言葉をくれたのと同じように。


 かつて傷ついた子供時代の幼い彼を、抱きしめるように。


「私には確かに直接あなたのために出来ることは何ひとつないかもしれない。それでも、何かひとつでも出来ることがあるとしたら、それは——」


 泣き笑いみたいにくるみは言った。


「私自身が、自分のしたい生き様を(まっと)うして、幸せになること」


「——っ」


「恥ずかしいけれど、もう言っちゃうね。私のしたい生きかた……それは、自分に恥じない行動をとって、自分や家族に誇れる立派な大人になって、今日しか生きられない今日を、前だけ見て生きて。それでいつかは碧くんと本当の家族になること」


 くるみは合鍵を預かっていて、週に何度かは家にごはんをつくりに行って。


 きっと世の同年代の恋人たちよりは少しだけ、家族に近い関係かもしれない。


 だからってこんなことを言うのはすごく照れくさいけれど。


 一番伝えたかった〈次の言葉〉を手渡すにあたっては、前もって伝えておかなければいけなかったから。


「碧くん。あなたの選んだ生き方は確かに、他の誰も歩いたことのない道かもしれない。でも自分の決めた道を進むことはこんなにも尊いんだって、美しいんだって……大丈夫だっていうことを。私が自分のしたいことを貫くことで証明してみせる」


「————」


「だから迷ったり辛くなった時は隣を見て。そうしたらいつでもそばで私が……」


 言葉は途切れる。


 ぽたりと、スカートを叩くかすかな水音が、耳に届いたからだ。


 はっとしたのも束の間。続いて聞こえたのは、およそ慟哭と呼べるものだろう。


 その時くるみが自分の目で捉えたものを信じられなかったのも、無理ないかもしれない。


 だって、だって——


 ()()()()()()()


「————……っ……」


 間近できらきらと落下するそれを見て、くるみは烈しい花嵐に吹かれた思いで口を結ぶ。


 自らの心のうちに湧き上がったその情動が、果たしてどんな名前を持つのか、くるみには分からなかった。


 けれど同じく……いや。くるみ以上に言葉にならないいろんな感情が渦巻いたはずの目の前の涙は尊く温かく、途方もなく美しいと思えた。


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