第176話 僕の世界(2)
「そんな日々がかれこれ……どれくらい続いたかな。僕も少しだけ大きくなって、少しずつ大人に近づいた。列車に乗って国境を越えていろんなものを見にいった。初めは同じヨーロッパの近くの国からだったけれど、高校生になったら、大学生になったら……海を超えて、もっといろんな国を渡り歩くことを夢見てた。一日でも早く大人になりたかった」
「うん」
「そしてある年の冬に、琥珀が外国のコンクールに出ることになった」
そういうのは大抵、音楽家と縁のある地が選ばれる。
彼が行くことになったのは東欧にある小さな国だった。
「出発の前の日にあいつは、ぜったい優勝するからって言ってた。そんで記念に、あいつの一番気にいってた楽譜をくれた。しかも琥珀の下手くそなサインいりのやつね。もう有名人気取りかって思って笑ったけどさ。……けどこいつなら本当に平和芸術家になれるんじゃないかって思えるのが、琥珀って男だったんだ」
「うん」
「結果発表がされて真っ先に電話をくれた。入賞したって聞いた時は、自分のことのようにすごく嬉しかった。毎日本当にたくさん練習していたのを、知っていたから。でも、琥珀が行った国は。前まではよかったけど、その年は情勢が悪くて……。…………」
澱みなく紡ぎ続けた話が、初めてここで途切れた。
きっとその時、碧は、このままふたりでばかみたいに遠いところまで、何処へでも走っていけると、信じていたのだと思う。
——けれど、彼の旅路の先で。
運命は流転しいともたやすく別たれる。
「帰国の予定日に、琥珀が帰ってくることはなかった」
くるみの相槌もまた、ここで初めて、止んだ。
いつもどおりに始まったのに、いつもどおりにはならなかったその朝。
切羽詰まった父に起こされベッドから起きてテレビをつければ、琥珀の今いるはずの国が放映されていて——震える手からすり抜けたスマホが、床を打った。
小さな妹が、心配するように手を握ってくるのに、いつものように可愛がる余裕はもうなかった。
言論じゃどうにもならないから力に訴える。
日本やドイツからは考えられないかもしれないけれど、世界で見ればよくある話だ。
そんな事は、あの世界遺産を見た日から知っているはずだった。
世界を知ったつもりでいて——僕らは何も知らないのだと、思い知らされた。
不幸中の幸いで琥珀は助かった。碧はその報せを聞いてほっと安堵したのだが、問題はそこではなかった。
——打ちどころが悪かった。
記憶が混濁し、すべてが果てしなく曖昧になっていたらしい。
今までの人生について、琥珀についてのいろんなことを忘れてしまい、もとの自分がどんな人間だったかさえ、解らなくなる。
いつ戻るか、そもそも戻れるかどうかすら不明瞭。
奇しくも彼の愛した作曲家ラヴェルの晩年と、似た境遇。運命とかいう意味の分からないものに、彼は遠くへ連れていかれてしまった。
事前に琥珀の親にそう聞かされて分かっていたはずなのに、彼がそうなってから初めて会いにいって、現実を突きつけられた。
「……誰?」
花を買って、フルーツを持って訪れた先で——包帯を巻いた琥珀に、何も知らない目でこう言われた時の衝撃は、二度と忘れることはないと思う。
両手は平気だった。
けど事故に遭った後の彼は、もうピアノを弾くことはなくなった。
何か思い出せるんじゃないかと鍵盤にふれたことはあれど、残念なことに、怪我の事情を抜きにしても明らかにその技術は失われていた。体は多少は覚えているようだが、それでも習いたての小学生でも演奏できるようなクラスの演目が、せいぜいいいとこだった。
平和芸術家はおろか、ピアニストへの将来まで、絶たれてしまった。
——僕があの時、あんなことを言わなければ。
あの時、平和芸術家になりたいと言った彼を止めていれば。ピアノの練習につきあわなければ。初めから、出会わなかったなら?
いや、どれも的外れだ。
——この世がもっと平和だったなら、琥珀もこうはならなかった。
だから優先すべきは、碧が今の夢を目指し続けることだ。
それでも、自分だけが何事もなく今までの二人で過ごした時間を憶えていて、平気でいることに、ひどく申し訳なさを覚えた。けれど同時に、僕だけは決して琥珀とふたりで過ごした時間を忘れちゃいけない、とも思った。
次に再会したときに共有できるように。
だから哀しんでいる時間はない、と。
けれど、その頃からだろう。
ピアノは己の力のなさの象徴となっていった。
「……その曲いいね。好きなの?」
ある日、スマホで音楽を聴いていると、琥珀は尋ねる。
友達だった、と説明したから会いに来るようになったのだ。決して今の碧が好きで会いにきているんじゃない。
「これ琥珀が弾いた曲だよ。去年」
「ふうん。ていうか君ってあだ名とかはあるの? なんて呼べばいいか分からないんだよ」
「え? ……従姉弟には、あーくんて呼ばれてるけど」
「じゃあ俺もそう呼んでいい?」
「前の琥珀は、碧って呼んでた」
「碧か。けどあーくんのがしっくりくる気がするな。何より可愛いじゃん」
彼とは以前からのような友人として、他愛もないお喋りをした。
だって何があっても、琥珀は琥珀だから。
碧との思い出を忘れてもそれは揺るがぬ事実で、碧も気にしないようにした。
そしてそれは突然、何でもないことのように、本当にかるい調子で訊かれた。
「なあ。あーくんって将来の夢とかはあるの?」
問うたそばから突如、かっと目の色をかえた碧に、琥珀は言ってはいけないことを言ったかと慌てて質問を取り下げる。
「あっ。言いたくないならごめん。……もしかして俺が昔、そのことで君に嫌なこと言っちゃってたりした?」
「……いや。ただ急にそんなこと訊くから、びっくりしただけ。琥珀は応援してくれてたよ、僕の夢のこと。だって琥珀のと同じだったから」
「じゃあなおさら知りたい」
「……僕は世界平和を目指してる。琥珀もそうだったね」
「え。すげえ。ちょう格好いいじゃん! もしかしてこの間外国語の勉強してたのもそのためだったりすんの?」
「まあ」
「へえー! 世界をまたにかけるってこと? すごい尊敬。かっこいい……」
「いや、僕がそうなれたのは琥珀ががんばっていたからだよ」
目を輝かせる琥珀に、下手くそな笑いとしか言いようのない表情を注ぐ。
その憧れの眼差しを少し前までは僕が君に抱いていたんだよ、とは言えなかった。
「……そっか。じゃあ俺も、がんばってたってことか」
三角座りに足を折りたたんで他人事のように寂しげに笑った彼は言う。
「あのさ、ひとつ頼んでいい?」
「何?」
「俺と同じ夢ならあーくんががんばってくれないか? 前の俺のぶんまで。そうしたら、こうなる前の俺はきっと報われるだろうから」
だから叶うといいな、と。
その笑みは、碧を忘れていなかった頃の琥珀に、すごくよく似ていた。
*
碧は頷き、約束をした。
そしてこれは勝手な都合だが、叶えるまで会わないようにすることも、ひとりでに誓った。だって、会ってしまえば『もしかしたら』を期待して気持ちがぶれてしまいそうだったから……。
そこからまた春が来て、夏が来て、欧州の長い冬が来る。
碧は父親の勧めで、ドイツの学校から日本の高校に通うことになった。琥珀への約束があるんだから母国に帰っている暇なんかないんだと訴えたけれど、父は自分の生まれた国を知ることも大切だと諭して、碧はそれに何も言い返せなかった。
よく世話してやってた妹は、はじめは寂しそうにしていたけれど、いってらっしゃいと送り出す言葉をくれた。
昔暮らしていた西東京のマンションは親戚に貸していたのだが、ちょうど退去になるという。一人暮らしには十分すぎるほど広いが、あまり荷物があってもしょうがないので持っていくものを厳選していた時、埃のかぶった箱が見つかった。取り出すと、収まっていたのは以前琥珀に貰った楽譜だった。
『Le Tombeau de Couperin』——クープランの墓。
もう二度と会えない友人を追想するために、生まれた曲。
タイトルの横には小さなサイン。
〈お前ならできるって言葉、ずっと忘れないよ〉
今はいない昔の琥珀が記した、存在証明。
碧への最後のメッセージ。
気づけば、生温かいものが頬を伝って、ぽたりぽたりと楽譜に染みを落としていく。インクが滲んでいく。
——その日、僕はぼろぼろと大泣きした。
根拠があった訳じゃないけれど、多分もう昔の琥珀が二度と戻ってこないことに、気づいたからだと思う。
誰が何を言おうと、琥珀は琥珀で……それは揺るがぬ事実で。だけどやっぱりお別れひとつ言えないまま会えなくなることが、まだ子供だった碧には受け止めきれないほどに残酷な真実で。
嗚咽をあげて涙でぐちゃぐちゃになり、それでも止まずに泣き続けて。
その反動だろう。一晩泣き明かして涙も涸れて——そして、立ち上がった。
琥珀の希望まで叶えられるようになりたい。
妹を、家族を、友人を。これから出会う誰かを不幸から守れるように、つよくなりたい。
そんな信念をひとつ、握りしめて。
〈人に優しくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。それでも人に優しくしなさい〉
日本に旅立つ日、空港で父は碧に、そんな言葉をくれた。
その優しさこそが、父さんの息子の一番すばらしいところだよ、と。
他人のために何かを成し遂げようとする崇高な生きかたをすれば、理解してくれないひとは必ずいる。そんな時も迷わず真っ直ぐ進めるように。
これからさき険しい荊の道を歩んだとしても、その言葉が支えになるように。
——そう。物語の始まりは、立派で勇敢な少年がひとりでに篤志に目覚めるなんてことも、調停のための重大な使命に選ばれ駆り立てられることも、ましてや神から天啓に打たれるなんてことはもちろんなくて。
自分だけは忘れない。ずっとずっと覚えていたい——そんな些細でちっぽけな理由のために、僕は立ち上がったんだ。




