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第175話 僕の世界(1)



 琥珀と少し話したその後はとくだん語るべきこともないまま、再び出し物でお客さんを相手にして、終了のアナウンスを聞いてからは片づけをし、執り行われた表彰式ではなんだかんだと優秀賞を貰い、思い返せば長いようであっという間だった学祭も終わりを迎える。


 そして今は制服に戻って、いつもより遅い時間のいつもどおりの帰り道を、ふたりで並んで歩いていた。


 会話はなく静かだった。それでも、くるみが隣にいてくれるだけで頼もしかった。


 十一月ともなれば日が暮れるのも早い。夜の始まりはすぐそこにある。


 ふと天を仰げば、空には澄ました三日月。


 あの日と同じ空————




 いつもの明かりが灯った、マンションのエントランスに着く。


 そのまま一階で待ち詫びていたエレベーターに乗りこみ、七階で降りてからは、くるみの手を掴み、早足で自分の家の玄関へ。


 焦りが碧の足を加速させる。まるで溺れた人が息継ぎをしたがるように。


「えっあ……碧くん?」


 くるみが戸惑うのも構わずに、手を引き鍵を開け、扉から家へと体をすべりこませ、後からついてきたくるみの後ろで扉がぱたむと空気を押して閉まったとたん。


「どうし————っ」


 何かを言いかけたくるみの体を玄関の扉に押しつけながら、息が詰まるほど思い切りきつく抱きすくめた。


 くるみは抱きしめられたまま碧の影からひっそりとこちらの様子をうかがい、ビー玉のように澄んだ瞳をふるふると揺らしている。十センチの距離で一秒間だけ見つめあい、そのまま糸に引かれたように唇を塞いだ。



 ——二回目のキスは、縋るようにほろ苦く、灼けるように熱いものだった。



 意表を突かれたヘーゼルはぱちりと見開かれ、困惑を映し出している。


 ん、と小さく喉が鳴ったのが、すぐそばで聞こえた。


 今日学校でずっとこうしたかったのが、堤防を決壊させたように押し寄せて。


 何かを訴えるように両手が、ぽふぽふと肩を離すように押してきて、それでも止めずにいれば、ややあって小さな抵抗は失われた。やがて息が苦しくなり、(ほと)びた視線を絡みあわせたままそっと離れると、止まっていた時が再開するように吐息が洩れる。


 許可なくキスしたのは、初めて。


 てっきりくるみにはひどく怒られるかと思ったのに、彼女は何も言わないまま——おずおずと両手を碧の背中に回しては、優しく包むように抱きかかえてきた。


 そのくるみらしさに、不覚にもじんときてしまった。


 言葉はなくとも、その手に「大丈夫」って、宥められているのが伝わったから。


 やっぱりこの子はどこまでも鋭い。


 不安を塗り替えて上書くために、彼女をひたすら求めた結果のキスだということも、きっと彼女は察しているんだ。


 キッチンでお湯を沸かし、温かいほうじ茶を淹れた。


 寒い夜だからだけじゃなく長い話になりそうだったから、ダブルウォールグラスで。


 カーペットにクッションを敷いてそこに座る。


 碧はくるみとリビングで、ただ静かに互いを見つめあっていた。


 公正で怜悧な瞳には、曇った自分の表情が映っている。


「……私ね、碧くんのこともっともっと知りたい」


 静寂を破ったのは、くるみからだった。


「あなたがどんなふうな道を辿って、生きて、何を尊び何を重んじて、今のあなたになったのか。そんな話が、きっと今この夜に必要なんだとおもう」


 大丈夫、とくるみは微笑んで言った。


「碧くんが泣きたくなったら私が代わりに泣く。だから、きっと」


 小さくて温かい手が、碧の拳を包む。


 ああ、それなら本当に大丈夫そうだな、と碧は思う。


「……ありがとう」


 ここから先は父親以外、誰にもしたことがない話だ。


 母も千萩もルカも湊斗も、もちろんつばめも颯太も夏貴も学校の奴らにだって。


 ほかに知っているのは碧自身と、当事者である琥珀だけ。


 人生に賭けたすべて——話そうと思えばいつでもそう出来たのに、そうしなかったのは、碧という人間の〈底〉が知られてしまうことに怖れがあったからなどではない。


 問われた真価が深かろうが浅かろうが、くるみはきっと好いて、これからも手を握り続けてくれるって信じている。



 ……ただ、くるみの世界を狭めてしまうのが嫌だった。



 愛する彼女が。折角甘えて頼ってくれるようになった彼女が。


 これを聞かせることで碧に気を遣って、あるいは碧の夢のために折角手の届いた自由を手放して。また前のように逆戻りしてしまうことを、恐れていたのだ。


 才気あふれる彼女なら、望めば何にだってなれる。広い世界に羽ばたくべき人間だ——決して僕のために、足踏みしたりしたいことを遠慮していい人間じゃない。


 碧の過去を話すことが、自由に甘えて好きなことを好きなように出来るようになった彼女をまた、硝子の檻に戻すきっかけになってしまうと考えたら……怖くて、言葉が喉につかえてしまう。


 でもあの桜が舞う歩道橋で、彼女は自分に気持ちのぜんぶを話してくれたから。


 雪が降るオーストラリアにだって追いかけてまで伝えてくれたから。


 なら、碧も同じく話す義務がある。


「…………」


 堅く閉ざしていた掌を、そっと解いて開いてみる。


 子供の頃から、何年も何年も……何年も握りしめ続けて。もうぐしゃぐしゃになって、初めはどんなかたちをしていたかも分からないくらいになったけれど、ずっとずっと人生の羅針盤(コンパス)にし続けた、大事なもの。


 ずっと色褪せない、決して忘れられない、今の自分を後押しする記憶。



 ——そうして僕は、僕の世界の物語の、ぜんぶを語り始めた。


                *


「僕は昔から、誰よりも好奇心旺盛な子供だった。飛行機を見ればパイロットになりたがったし、ニュースを見れば警察官になりたがった。サッカーでもキャッチボールでもピアノでもやりたいことを親はなんでもやらせてくれた」


「うん」


「父さんは昔から……それこそ大学生の時から海外を飛び回っていて、いろんな国のお土産をよく買ってきてくれたんだ。インドネシアのお面。ペルーのアルパカの毛で織られたスカーフ。オーストラリアの先住民が描いた絵画……」


「うん」


「旅先で見た話もたくさんしてくれた。アルプス山脈の麓で斜めに広がるぶどう畑がすごい眺めだってこととか、ミャンマーの湖の上で暮らす民族の話とか、モロッコの絵の具をこぼしたみたいに真っ青な街とか。だから僕も、大人になったらいろんな国に行くんだろうなって、子供の頃から思ってた。……その予想より早く、親の仕事の都合で海外に移住することになったのは、六歳のときだった」


「うん」


 時折くるみは相槌を打ってくれて、それだけで安心して話せる。


「引っ越した先の学校で、ルカと出会った。そのとき僕はドイツ語がまだぜんぜん話せなかったから、スケッチブックに話したいことの絵を描いて、それでなんとか意思疎通していたんだ。だから今でもわりと絵を描くのは好きだったりする。昔の名残で」


 たとえば——いつかの絵しりとりのように。

 さながら——美術室での秘密の交友の始まりが、一枚の水彩画だったように。


 子供ながらに考えた慎ましい努力が、けれど今の自分とそれを取り巻く関係にもつながっているのだ。


「ルカに教えてもらって自分でも猛勉強して、読み書きだけじゃなくて、少しずつ〈会話〉ができるようになっていった。あれは嬉しかったな」


「うん」


「一年後の夏には、もうすっかり話せるようになっていた。世界が広がっていく気がして、今の僕にならなんでもできるんじゃないかと思った。その時、父さんの仕事が軌道に乗ってきて、旅行に連れていってくれることになったんだ」


 今でも覚えてる。


 行き先は隣国のポーランドで、目的は世界遺産を見に行くことだった。


 碧がまだきちんと読めない旅行雑誌を指さして、そこに行ってみたいと言った時。父が妙に渋い表情をしていたこともはっきり記憶に残っている。


 原因はすぐ分かることになるのだけれど。


「旅の日、列車の中で同い年の日本人……琥珀に出会ったんだ」


 スマホを開き、フォルダから一枚の写真を表示させる。


 そのとき列車のシートで幼き頃の自分と琥珀が、おやつのチョコを片手にピースをしていた。撮影したのは親だろう。


「……かわいい」


 くるみは頬を綻ばせた。


「似た境遇がそうさせたのかもしれないけれど、打ち解けてさ、すぐに仲良くなった。話してるうちにそいつがピアノが得意だってことを知った。ドイツに来たのは親の仕事の都合だったけど、もしずっと日本にいたとしてもいつかは音楽留学とかでどの道この国に来る運命になってたかも。……そんくらい上手いやつだった」


 誰がどう見たって分かる天才の輝きが、彼にはあった。


「偶然ってのは面白いものでさ、琥珀も同じ世界遺産を見に同じ列車に乗ってたんだ。辿りついた先で僕たちが見たのは…………いわゆる負の遺産ってやつだった」


 優しい表現で言ってしまえば、戦争の跡地。


 けれどその時の思いは筆舌するに言葉が足りない。


 一緒に来ていた琥珀は、古びた、枝分かれした線路のうえに立ち、ぼんやり遠くを見つめていた。


 その姿が今も、ひどく印象に残っている。


 関係ない大昔の話のように思えて、けれど今も犠牲になった人の遺族はいて、同じことが未来永劫おこらない保証なんかどこにもなくて——子供だから全てを理解することは難しかったけれど、その小さな身に世界の残酷さを刻み込むには十分だった。


「その日の夜は、眠れなかった」


「……うん」


「琥珀とはそのあともよく会って遊んでたりしたけれど、その日見たもののことはどちらからともなく、話すことはなかった。なんとなく、記憶に鍵をかけていたように思う」


 封が解かれたのは、それから数ヶ月——ふたりでベルリンの壁の跡地をぶらついていた時のことだった。


                *


 移住してすぐの頃、初めて見た時は賑やかで楽しい何かだと思ってたけれど、実は戦争の名残だと父親が教えてくれた、その壁。


 らくがきのようなアートのような絵がずっと続くそれをみて、ふと問いかけたのだ。


「なあ琥珀。あの時見たもの、まだ覚えてる?」


 曖昧な指示語だけでも、琥珀は迷うことなく汲み取ってくれた。


「忘れるわけないだろ」


 近くに落ちていた細い桜の木の枝を拾い上げ、構えながら彼は言う。


「僕がその時いれば悪いやつはやっつけてやったのに。このつばめ返しで、ねっ!」


 あほな仕草はスルーし、碧は小さくぼやいた。


「あのさ。僕たちに出来ることってないのかな」


「出来ること? 僕のちょー格好いい秘技・つばめ返しじゃなくて?」


「違う、あほ。だってあんなのを見て、なんか……何もせずにいるのが申し訳ないって思えてこない? 僕たちって危険がないところで守られてるんだなって、初めて知ったし。今まで見てきた世界がどれほど狭いのかも」


「分からなくもないけど、俺は音楽が好きだしな……あ」


 何かを思い立ったらしい琥珀が、枝先をびしっとこちらに向けた。


「なら、僕はありふれたピアニスト目指すのやめて、平和芸術家を目指す」


「平和芸術家? なんだそれ」


 覚えたての言葉を見せびらかすように仰け反った琥珀に訊ねると、彼はそれで気をよくしたのか、ますます笑みを深くした。


「知らないのかよ。絵とか音楽で世界を平和に導くすっげーかっこいい仕事らしいぜ。テレビが言ってたんだ! どう考えても僕にぴったりじゃん」


「それどうやってなんの?」


「え? えーっと……」


「詳しく知らないのに将来の夢にするの?」


「うるさいなー。僕に言うからには碧も何か目指すんだろ」


「じゃあ僕は正義の味方がいい」


「あはははっ。なんだそれ子供かよ」


「笑うな。子供だよ」


 むっとしつつ、太陽をせおってきらきら後光が差して見える琥珀が、妙に眩しくて目を細めてしまう。


 ただ木の枝が、勇者の剣に見えた気さえした。


「……僕も、琥珀と一緒がいいな」


「じゃあ今度ピアノ教えてやるよ。けど真似っ子はすんなよ。お前はお前でやりたいこととかできることを探せよな」


「うん!」


「へへっ……まあがんばろーぜ」


 琥珀がぱっと掌を突き出してきて、碧もそれにぱちんとハイタッチする。


 けど、その時は正直、ぴんときていなかった。


 自分ががんばれば誰かの役に立てるという大義よりも、ただ琥珀の隣にいたくて、その眩しい後ろ姿を追いかけたくて。


 そんな幼い理由で、碧はなんとなしに語学の勉強を始めた。


 いろいろ調べるにつれ、琥珀の言った平和芸術家なるものがどれほど世界で希少な存在かも知った。どうやら指で数えられるほどしかいないらしく、しかもそれになるのに必要な資格とか試験とか、そういうものもないらしい。


 大統領になりたいだとか宇宙飛行士になるだとか、感覚としてはきっとそういうものに近いのだろう。今になって振り返ると、何も知らない子供の戯言(たわごと)だ。


 けれど、言葉なんか在らずとも感動を与える音楽で、演奏をとおした講演で、世界中のひとの心に平和を訴えかける——想像すると、めちゃくちゃ格好いいと思った。


 そして、琥珀は本気だった。


 毎日ピアノの練習をして、大人でも弾けないような難しい曲もどんどん演奏できるようになっていった。彼の演奏には人の心を動かす力があった。


 すごいなと思った。眩しかった。心底憧れた。


 だから碧もどんどん先を走っていく琥珀を追うように、外国語の勉強を同じくらい本気でがんばり始めた。この先覚えた語学力がいつか、誰かと誰かの谷を埋める架け橋になると、そう信じていたから。


 たとえば毎日、英英辞書を読んだ。

 たとえば外国人クラスのひとに勇気を出して話しかけにいって、友達になった。

 たとえば初め空っぽだった本棚は、使い切った外国語学習のノートや読み切った洋書で少しずつ埋まっていった。


 自分のしたいことは、どうやったら叶えられるのだろう……そう思って親のパソコンで調べて見つかったのは〈国連職員〉という仕事。


 世界を飛び回り、戦争の終結や社会問題の解決など、平和と秩序のためのあらゆることをする。誰かを助けて幸せにする。


 それこそまるで勇者——本物の正義の味方だと思った。


「僕も……なりたい。琥珀みたいに」


 やがて、乗り越えるべき壁が果てしなく高い難関の志は、それを抱えるふたりを似たもの同士として、絆を深めていく。


 ルカが学校で毎日会って毎日遊ぶ友達だとしたら、琥珀は誰かに内緒にしてつるむような、そんな友人。ルカは知ってたから秘密ではなかったけれど。


 日々は穏やかに、それでいてあざやかに過ぎていった。


「あー違う違う。そこは〈|AllegroConBrio《速くいきいきと》〉ってあるだろ。碧はゆっくりすぎるんだって」


「練習につきあわされてるだけの素人なんだから無理に決まってるって。ショパンもラヴェルも僕には難しすぎるの」


「そーかあ?」


 碧はよく彼の家でピアノの練習につき合った。


 もちろん本物の才を持って、ピアニストとその先の名誉と栄光を本気で目指すやつと、ちょっと先生に習っただけのやつの腕の違いなんて、比べるまでもなく雲泥の差だ。何なら下手な演奏を聞かせて耳の調子を悪くさせてしまうまである。


 なのに何だかんだピアノを続けていたのは、琥珀が少しだけ羨ましかったからだと思う。


 音楽はそれひとつで、世界中どこへ行っても通じるから。


 言葉の壁が、ないのだ。言いかえれば楽譜こそが、唯一の世界共通言語。言語という規格がばらばらのものを交わすことなく、手から耳へ直に感動を届けられる。共有できる。


 自分にはそれがないから、なるべく多くの人と意志を伝え合うためには、何ヶ国語も勉強しなきゃいけない。


「連弾の相手なら別に探せばいいじゃん。上手いやついくらでもいるでしょ」


「一緒にするの碧だからいいんだろ。僕たち同盟だし。出来ないなら教えてやるからさ」


「……そう」


「なんだよー照れてんの?」


「べつに照れてない!! 逆に琥珀はよくそんなすらすら弾けるよな。こうして見てると、どんな難しいことでもきっと、お前ならできる……って思う。だからたまに僕も、琥珀みたくなれたらって思う時あるよ」


 照れ隠しついでに本音が口を衝いて出れば、黙って聞いていた琥珀は碧に代わって椅子に座り、一番のお気にいりの曲を奏で始める。


 ラヴェル作曲の組曲『クープランの墓』——プレリュード。僅か十歳で、この難曲をこれほどの完成度で弾きこなす人を、碧は彼以外に見たことがない。


「これの作曲者知ってるか? 自分の書いた曲を忘れて亡くなったんだって。こんなきれいな曲なのにさ」


「詳しいんだね」


「生み出した人間がどんな人生を歩んだか知らずに弾いても、曲のよさは引き出せないから。僕にできるのはそういうのに想いを馳せながら弾くことだけ。生み出した人間との対話だけ。……だからお前が羨ましいよ。今はスペイン語の勉強してるんだっけ? 僕は正義の味方ですって訳すとなんて言うのとか分かる?」


「Estoy del lado de la justicia」


「ほらすごいじゃん。なんて言ってるか分かんない。僕はそんな勉強できないからぜってーできないだろうし。練習もつきあってくれて助かってるよ」


「……ほんと?」


「はは。本当だよ」


 琥珀はそう言って笑う。


 でも本当のところ、彼の上達の役に立ったかは分からない。


 今はもう二度と分からない。


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