第171話 It begins again and ends again(2)
少しばかり時はさかのぼり——
午前中、碧たちが喫茶でてんてこ舞いになっている間、湊斗とつばめは自身が演者として参加した映画のエンドロールにそなえて、光の届かない体育館のキャットウォークから見守っていた。
ストーリーはバンドを始めたいひとりの女子高生が順に仲間を集めながら文化祭での演奏を目指す——というわりと王道なもの。
一緒に映画に出ないか、と誘ってきたのは一年生の時つばめとよく話していた女子で、その子は歌に自信があるのでボーカルをする主人公。つばめは劇中でもその子の友達でギター。おまけで声を掛けられた湊斗はベースを担当だ。
湊斗は明かりのないなかで目をこらしながら隣のつばめをちらっと盗み見て、思わず笑いそうになった。
がちがちの岩がいたからだ。
「……なんでそんなに緊張してんだ? 仕事で慣れてんじゃないの?」
つばめは裏返りそうな声で、鑑賞を妨げない最小ボリュームで叫ぶ。
「だ、だだだだってあんないっぱいの人前に出るんだよ? 撮影はもっと少人数でリラックスした空気のなかでするんだもん! それにメイクばっちりだし!」
「気持ちは分かるけどな。もう誰かに代わってもらうとかできない段階だぞ」
「ちょっと待って今思い出した! 『人』を三回書いてのみこむといいんだっけ」
「なんだそれ懐かしいな。子供騙しでもやってみれば?」
そう、実はただ上映するだけでなく、この後に見せ場がある。
つばめの友人曰く、初めはただバンドをするだけのつもりだったのだが、どうせなら練習して上達する過程も撮影して見てもらおうということで、後づけでシナリオを書き下ろし、映画にしたのだ。
もちろんそれだけじゃあ本末転倒なので、エンドロールで皆で生演奏をすることになっているという訳だ。
「どうだ? 三回できたか?」
「出来たけどさっぱり効果ないよ! 不当表示だよこれ。考えたひと法律違反で刑事罰だと思うんだけどどこに通報したらいひゃっ!?」
語尾がコミカルなかんじに跳ねたのは、どうやら手にしてたマナーモードのスマホが震えたからのようだ。
つばめは着信画面を見て——それから見るからに嫌そうな目をした。
そこには『杉浜さん』と表示されている。
会ったことがないだけで、湊斗も彼を名前だけは知っていた。連続で断られているにも関わらずつばめによく二人きりのお誘いをし、路線も同じで数駅隣だということもあり、湊斗がつばめの送り迎えをするようになった原因たる人物だ。
嫌がられているにも関わらずなおも連絡を寄こすあたり、いくらモデル事務所にいて見てくれはよくても他は駄目なんじゃないか、と辛辣な事をぽろっと言ってしまいそうになるのを、既のところで堪える。
「なんでこんな時に……でも仕事の話かもしれないしちょっと出てくるね」
辟易気味にそう言ってそそくさとキャットウォークを小走りして去っていくつばめ。
「エンドロールにはいるのは十一時半。あんま時間ないから急げよ」
「わかってるって!」
何だか落ち着かずに腕時計を確認すると、長針は二の数字に重なっている。
心配なのもあり、後を追おうとしたところで——
「あっ。ねえ。湊斗くん」
つばめと同時にとんとんと床を叩く足音が響き、どこか切羽詰まった様子で、誰かに二の腕をぽんと叩かれる。
ばっと振り返るとそれはボーカルの子だった。
「つばめちゃんは? さっきまで一緒にいたよね?」
「あいつならちょっと今電話があって席外してるけど。何かあった?」
「……実はね、これ見て。文化祭の告知を打つためのアカウントなんだけど、気になるコメントがついてて」
言われるがまま、差し出されたスマホを見る。
インスタグラムのポストにはバンドの練習中のつばめの、ギターを抱えた後ろ姿が載せられていた。もちろん彼女だけでなく他の写真もそうで、各生徒の特定がなされないように工夫した結果だ。
だが残されたコメントには……
〈このひと見たことある。モデルしてなかったっけ?〉
〈tsubameに似てない?〉
にゃーん! と宇宙猫が鳴いた。
あるいは思考が停止した。
「いやいやいや……」
でも確かにそうだ。最近つばめは仕事が軌道に乗ってきていて、後ろ姿だけで分かるファンもいるかもしれないのに、その辺の注意をしていなかった。
モデルであることは内緒なのに、これじゃ少し調べれば足がつく。
そしてこのコメントは多分、学校の生徒であれば誰でも確認できる。
——あれ? もしかしてこれわりと危ない状況なのでは?
「このひとたちの言うことは本当なの? それともいたずらかな。湊斗くんは分かる?」
「……ちょっとつばめ呼んできます」
所詮はファンでしかない自分は、回答はおろかどうすべきかの判断も出来ない。だからそれしか言えずに、ちびっ子の去っていったほうを追跡する。
キャットウォークのはしっこの扉から二階の倉庫へ。
去年の劇で使われたらしい船の大道具や、古びた小道具のかごが積み重なった横を足音を殺してすりぬけ、狭い木のかね折れ階段を軋ませないように静かに降りる。
そして舞台の横にある控えの空間に降りようとしたところで、この七年間で一度も聞いたことのないようなつばめの切羽詰まった声が耳に届き、ぴたりと足が動かなくなった。
「あっの! 前からお断りしてたとおりですが、私にはそういう気はないので……」
つばめはおろおろと立ち往生して、スマホを耳に当てていた。
気づけば湊斗は犯人を追う探偵のように息を潜め、段差の上から彼女を盗み見る。
杉浜とかいう男が何を言っているかは分からないが、つばめの返答でおおよその会話は分かってしまう。
今さらかもしれないがそれはずるい気がして、一歩だけ後退るのだが、それでもつばめの会話は止まらない。止まってくれない。
「え。私の好きな人ですか!? それ今関係ありますか?」
それは奇しくも、禍々しいほどに空が青かったあの日と同じ。
今でも鮮明に思い出せる。
違うのはポジションが逆転していることくらいだ。
自分たちはいつも、互いが巻きこまれる恋の戦争を、蚊帳の外で見守ることしかできなくて。幼なじみという関係は、皆が羨む堅固なものに思えて、実のところは相手に近づく誰かを蹴り倒す権利のひとつも持ちあわせていないのに。
——どうして自分たちは何度も、相手の一番かつ唯一の存在であることを信じながら、そうでないことを知って傷ついてしまうのだろう?
あの時のつばめの悔しさやかなしみが、今になって注ぎこまれた気がして、握った拳に爪がくいこむ。
「そっそうなんです! ……私好きな人いるので二人きりは駄目です!!」
ふぅと湊斗のため息が洩れる。
「それと今学校の文化祭があって。もうほんと忙しいんで切りますね?」
もう終わりそうなかんじだが、これ以上盗み聞きというのもよくない。会話が届かないところまで一旦戻るか、と踵を返したところで——
「だから! 同じ学校の人にいるひとが好きなんです!」
時が止まった。
「その人は私の博多弁も笑わないでくれてっ。私に自分を信じる原動力をくれてっ。……私が高望みした学校に来たのも、ぜんぶその人と幼なじみでい続けたいからなんです! だからごめんなさいっ!」
引いた血の気が戻るようにさぁっと耳に音が帰還し、ちくたくと壁の時計が十一時十五分を指す。
聞いた。聞いてしまった。
本当はずっと分かっていたのに、今まで自分の傷つけた言葉に責任を取るために、ずっと自分のなかでうやむやにしてごまかし続けたつばめからの好意を。
本人の言葉で、はっきりと。
その事実がじわじわ後から拡散し、めくるめくほどに徐々に鼓動が早まっていく。
今の発言で通話を終わらせたのだろう。つばめが嘆息と共にこちらを見て——それからぎょっと目を剥いた。
「ふぇっ? みっみみみみ湊斗?」
「ごめん。通話聞こえてた」
驚いて猫みたく逆立てた毛を寝かせてから、小さくて長いため息をつき「別にいいんだよ」とつばめはかぶりを振る。
「だって二度目だよね。私の気持ちを……湊斗が知るの」
やっぱり覚えてるんだな、と湊斗はうつむいた。
あの日は何もなかったものとして一切この話にふれてこなかったつばめが、どこにも仕舞われないまま埃の積もったこの話を口に出すのは、初めてのことだった。
「けどあれは後輩からの伝聞だ。つばめから聞くのは一度目だよ」
「そっか。じゃあやっぱり信じてなかったんだ?」
「……信じたら、俺のそのあとの最悪な発言がもっと最悪になるだろ」
つばめは泣き出しそうな声を洩らす。
「その発言だって私は、私を庇うための建前なんだろうなって思ってた。そう思いたくて、でも本心を聞いてもし違ったら……きっと湊斗の隣にいれる権利がなくなっちゃうから知らないふりしてたの」
つばめは、自嘲するように床に視線を落とす。
湊斗はそれを、どうしようもない気持ちで見詰めていた。
あの時は幼いせいで過ちを踏んだと思っていた。なのにこういう状況になって何を言えばいいか、高校二年になった今もなお正解が分からない。
謝るべきなのか、つばめの気持ちを聞くに徹するべきなのか。
はたまた、本当の気持ちを伝えるべきなのか。
でも今さらそれをするのもまた、ずるい気がして。
「電話のやつ。大丈夫だったか?」
咳払いをしてから尋ねる。
「う、ん……しつこかったけど何とか」
「そっか。俺がああいう時……相手に聞こえるように、その、建前でも彼氏だとか、気の利いたこと言えたらよかったんだけどな。けど大事になっちゃうか」
「——みっ! 湊斗になら言われて大事になっても嫌じゃないっ。……」
はっきり宣言したあと、僅かに息を震わせたのは、ためらいがあったからだろう。
つばめはごまかすように建前の笑みを浮かべる。
「なんて、そういうふうに言われるのはやっぱり迷惑かな?」
「迷惑じゃない!! 俺は……その」
臆病風が言い淀ませて、その隙につばめは淋しそうに首を振る。
「いいよ、湊斗」
何を断っているのか、湊斗には分からない。
「私のこと好きな訳ないって言ってたでしょ?」
こんなにしょぼくれたつばめを見るのは、博多弁をからかわれて落ちこんでいたあの時以来だ。
けど彼女の言い分は違う。間違ってはないが真実でもない。本当はあの時つばめを庇おうとして——そんな汚い言い訳を放とうとして、喉でかろうじて押し留める。
確かに自分は、ここで掛けるべき言葉の正解を探り当てられていない。
もうずっとこのままだと思ってた。
けど、それは湊斗の勝手な決めつけと思いこみゆえの逃亡で。
だから自分にこう問いかける。
——もしも、ここの答え次第でまたいちから始めることができるとしたら?
言ってしまった後悔が、やってしまった虚しさがすべてなんかじゃなく、何度でもやり直すことを許される、優しい世界なのだとしたら。
なんて美しい理想を思い描いて……いや違うなと否定する。
やり直せるなんて、それこそ傷つけた側の人間の都合のいい想像だ。
でもだからって、ここで黙ったままでいればますます後悔する未来しか待っていない。
人間である以上、もしかしたら今後も間違えることはあるのかもしれない。
けれど、不正解を知りながらそのままにするのは、もうこれっきりにしたい。
——どんなに後悔したって苦味を味わったって、それは大事な、俺の初恋だから。
傷つけた事実はもうくつがえせない。けれど、これから先のことはきっと……。
その結論に辿りついた次の瞬間、言葉は口を衝いて出ていた。
「ばれたら仕事に迷惑かかるだろ」
「え?」
ちくたくと、壁の時計が十一時二十分を指す。
「ファンの俺が、モデルのつばめを好きだってこと」
恥ずかしくて目なんか合わせられたもんじゃないが、火照りを自覚しつつもちらりとつばめを盗み見ると、彼女は鳩が豆鉄砲をくったようにまん丸く瞳を揺らしていた。
「え。え? えええええええ!?」
客席まで届きそうな絶叫が、スクリーンの裏っかわで体育館を僅かばかり揺らした。
始まる話と終わる話でした。
次回からはメインふたりの話に戻ります。




