第170話 It begins again and ends again(1)
それはまるで、誰かが時計の針に魔法をかけたような時間。
パレードは街の日常をすっかり塗り替えるように、にぎやかに進んでいった。
自分たちのクラスの衣装はもちろん事前に見ていたので、今さら真っ新な驚きはないのだが、こうして二年生の代表者が一堂に会するとさすがに華やかだ。
歩道には、なんだなんだと立ち止まってちらほらとこちらを見守る人。
あるいはこの伝統行事を知っている人は、もうそんな時期かとしみじみする。
誰かの家族もいるのだろう。なかには手を振ったり、カメラを掲げている人もいた。
もちろん碧の家族は来られないのだが、高校生にもなって……という誰かの気恥ずかしさが伝染したように気が引き締まり、同時に何だかちょっと気分が高揚している自分もいて。
夕陽を浴びてきらきら輝く金管楽器の群れと、空にさらさら響く吹奏楽曲と共に、おとぎ話の行進は街を折り返し、学校への道を引き返しつつあった。
ここまでは順調だ。なんの問題もない。
「なんか足しんどくなってきたぁ。慣れないヒールで靴ずれかな?」
——と、凪咲の言う些細なことは除いて。
そんな彼女は、ハートの女王の格好だ。
「サイズあわなかったんですか?」
「うーん。ちゃんと測ってぴったりだったんだけどなぁ。ていうかそういう秋矢くんこそ疲れてないの? 案外体力あるんだね」
「健康な毎日を送らせてくれるひとがいるので」
「え? ……あーそゆこと! いいないいなー」
思いのほか距離があって毎年ばてる生徒がいることは事前に知らされてはいたが、さすがに靴との具合は当日歩いてみないと分からない。これはもうしょうがないことだ。
長靴をはいた猫になった夏貴が、横からぶっきらぼうにちゃちゃをいれる。
「しんどかったら言えば肩貸してくれるってさ。こいつが」
くいっと親指が示す先にいるのは自分だ。
碧が何かを言おうとすると、
「いやいやいや。彼女持ちにむちゃぶりしないでよ洒落にならないよ。いいよわたしは最後まで歩くから」
と、和を乱したくないのか、冗談への返しとしては些か必死さの見えるトーンでお断りしてきた。
「くるみは平気?」
碧はすぐ隣の少女を気遣う。
——白雪姫。
やはり鏡が断言した〈この世で一番美しい王女様〉という物語の根っこに、くるみが違うことはなかった。
白い花を散りばめた二本の三つ編みを揺らし、気品と清らかさをその佇まいで体現しながら、真っ赤なりんごのように彩られた小さな靴の一歩一歩を凛とした足取りで進んでいる。
彼女のまわりだと空気さえ清浄で光り輝いているように見えるのは、目の錯覚か。
「ありがとう。わたしは平気」
くるみは優雅に手を口許に持ってくると、楚々としたほほ笑みを浮かべそう言った。
たとえば今から彼女が小鳥やリスと密やかに会話し始めても、ああそういうものなんだな、と難なく納得できてしまいそうな程の空気と説得力は、その美しさと立ち居振る舞いにのみに許されていると思える。
この行進を終えたら彼女は童話の住人として、おとぎの世界へ帰ってしまうのではないか。そんな訳はないのに、なんとなくそう思えてしまった。
きっと頼んでもいないのに神様に贈られた、やきもちなんて感情のせいだ。
「ちゃんと辛くなる前に言ってね。……颯太もね」
一歩後ろでずっと黙りこんでいた彼にも声を掛ける。
うん、と気のない返事だけあったので、緊張しているところ悪かったなと申し訳なく思いながら再び前を見て——ふと、曲がり角でこちらを見守る人々のなか、ひとりの若い男に目が止まった。
夕風になびくほどの長めの前髪。
体はかなりの細身で、身長は碧よりやや低いくらいか。
サングラスで目許は見えないが、鼻や頬の描く削いだようにきれいなラインは隠しきれていない。
「……あのひと」
表情はうかがえないがただ佇まいだけで、その人物はどこか見覚えがある気がした。
誰だろう?
それは分からない。
が、その姿は見ているだけであてどなく懐かしくなるような、それでいて哀しいような、切ないような、そんな気がして——
「あのさ。碧っち」
思考が答えを弾き出す前に、横槍がはいった。
「待たせてごめん」
はっとして現実に引き戻される。
「今、二人で話していいかな?」
横からささやいてきたのは颯太だった。どうやらもう約束の時間になったらしい。
再び曲がり角を見ればもうさっきの男は見失っていたので、しかたなくそちらへの関心は捨てることに。
二人で、というのが目の前の彼と碧を指しているのではなく、くるみのことを指していることは分かっていた。
だから碧は少しばかり身構えるために、長い長い息を吐いた。
それから前にも言ったとおり、こう返事をした。
「……くるみさんがいいなら、いいよ」
*
碧はすでに、会話が聞こえない何歩か後ろを歩いている。
そのことを確認してから颯太はすーっと深呼吸し、補充した勇気が逃げないうちに……
「楪さん」
「え? はい」
と白雪姫に近寄ってから、なんの策も講じていなかったことに王子様は気づいた。
「あ。え……えっと、髪の毛切った?」
「? 先週カットとトリートメントに行きましたけど……」
空白を埋めるためのがむしゃらな当てずっぽうではなく、本当に髪が僅かに短くなった気がしたから咄嗟に言ったのだが、彼氏以外の男にそれを言われてもただただ不気味なだけだと気づく。
その証拠にくるみも瞳にやや困惑を滲ませていた。
きっと後ろから見守る誰かさんは「お前から話しかけておいて何日和ってんだよ」と思念を飛ばしていそうだが、二人きりになることなどないに等しかったので、どうも気まずい。
——姉貴が三人もいて女心を掴んでいる俺はどこに行ったんだよ。しっかりしろ!
「ごめんね。あいつと歩いているところおじゃまして」
「いえ。それは構いません。ただその碧くんが後ろのほうに行っちゃったみたいで……」
歩みは止められないので思い切り振り返ることは出来ないが、気にしているようで後ろをちらちらと確認しようとしている。
「ああ。それは俺に気を遣ってるみたいで——」
「気を遣う? 何かあったのでしょうか?」
「えっと。なにかあったと言えばあったかな。なんて言えばいいんだろ……碧っちに髪をわしゃわしゃ撫でられて子供扱いされたみたいな?」
「なっなでなで? そうでしたか……すみません」
申し訳なさそうに言うくるみはまるで旦那の不始末を謝る妻のようで、ふたりの関係が如何ほどかを再認識してしまい、思わず苦笑する。本人はそういうつもりもなく口を衝いて出た発言だろうが。
「いやいや。別に嫌とかじゃないからいいんだよ」
「そ、そうなのですか?」
「うん。というかむしろ俺が情けないとこ見せたせいっていうか。……うん」
「よく分からないですけど、喧嘩してないならよかったです」
「そうだね。……」
「はい。……」
とにかく、しっかりできなかった結果がこれだった。
身内で鍛えられた話術など、本物の感情の前ではなんの役にも立たないことを自分はここで始めて知る。まるで話が続かない、というより次の言葉が出てこない。
当たり前だった。颯太はくるみとほとんど会話した事がなく、碧をかすがいに同じ空間に居合わせる程度。要するに友達の友達で、互いの認識はせいぜい〈友人の彼女〉と〈彼氏の友人〉でしかないのだから。
前者には〈片想いの〉という報われない称号がつくことはさておき。
後者の碧だったらきっと、こんな困った表情はさせないんだろう。
分かりきった話だ。
だから自分の番は早く終わらせることにした。
「楪さんに話しかけたのはさ。俺からひとつ……お礼が言いたかったんだ」
「お礼?」
「そう。楪さんと碧っちが彼氏彼女の関係になったことについてのお礼」
「? どうしてそんなこと……」
言われる筋あいはないはずなのに、とどこか怪訝な瞳が語っているので、順に説明することにした。
「覚えてる? 楪さんの通ってた白陵院の中等で、ふたつ上の学年にミアって名前のやつがいたと思うんだけど」
唐突に話が切り替わったことに、あるいは出身校を知っていることに対し、くるみが不可解と若干の警戒を見せる。
「ほら。高身長でウルフカットでさ。女子校の王子様っぽいやつ」
「……逆に聞きますが、なぜ木次さんがそのことをご存知なのです?」
「あいつ、俺の姉なんだ」
「ミアさんが……え?」
ここいらじゃ珍しい苗字が一致していることにも気づいたのだろう。
「お姉様なのですか?」
「そう。姉貴様」
ただでさえ大きな瞳をより見開くくるみに、そりゃ驚くよなと苦笑した。
その王子様の弟が、こんな格好をさせられているのだから余計に笑える話だ。いったいどんな因果か、巡りあわせか。
「昔、ミアから散々聞かされてたんだよ。うちの中学に『すごくいい子がいるんだ』って。つまり楪さんの存在は一方通行に知ってはいたんだ。だから高校で、奇遇だけど姉貴の言ってるひとだって知って、なるほどなってなったよ。話しかける勇気はなかったけどね」
取っ掛かりはまずそこだ。
我が家は庶民だし、姉は陸上競技ができるおかげで一芸入試したただの特待生。いっぽうくるみはたぶん本物の上流階級の人間で、だからこんなところで出逢うはずないと思っていたけど。
そして隣のクラスにいたくるみはミアからの事前情報のとおり、いい子だった。
見ていて、どこか狭苦しさを覚えるまでに————
少しだけ間をおいてから颯太は尋ねた。
「楪さんって、よく愛想笑いしてたよね?」
それを聞いたくるみの繊細な面差しが一瞬だけ、揺れた。
悪いことをしてしまった子供のような曖昧な笑みが浮かぶ。
「……そういうの、しちゃ駄目ですか?」
「あぁごめんね。別に責めてる訳じゃなくて。そこもミアの言う『いい子』なんだと思うし。ただ、そういうところが俺の姉貴に少しだけ似てるなって思ってさ」
波風立てずに穏便に。
妖精姫の儚げな笑みが実のところはただの世渡りのためのほほ笑み外交だなんて、他に気づいている人は多くはないだろうが、颯太は姉を見ていたから、早々に察しがついていた。
「多分ミアが楪さんを可愛がっていたのも、そういうところへの共感があるのかもなって思ったんだよな。あいつ女子に人気で熱烈なアプローチされてたっぽくて、バレンタインなんか毎年すごい量のチョコ貰って帰ってきてたし」
その話にはくるみも覚えがあるようだ。
「確かに毎年、頂き物は一週間くらいかけてなんとかしてたようですね。甘いものはあまりお好きじゃないみたいで」
「そうそう。くれた子たちには言えないけど俺も家で片づけ手伝わされてたよ。そんなかんじでさ、女子校の王子様って聞こえはよくても実のところ、勝手な憧れの押しつけみたいなものじゃん」
「……そうですね。ミアさん、ご自分で中高時代の黒歴史だって仰ってましたもの」
「卒業してからはすっかりただの女子大生になったけどね」
かたや誰もが理想とするようなお姫様。かたや女子の心を惑わせる王子様。
きっとふたりは似た者同士だった。
けれどくるみには、姉とはひとつ違ったところがある。
「……ミアはさ、ただそういう振る舞いをただ求められてたからやって、それが板についただけだけど、楪さんはきっと違うよね」
「違う……?」
「見ていてなんとなく、誰かに対する優しさに信念があるかんじがしたから」
他人から一線を引きつつも、くるみは心根が甘かったんだと思う。別にそのふたつは矛盾することでもない。
たとえば誰に頼まれるでもなく、授業中に隣の席の女の子が当てられて困っていればこっそり答えを伝えたり、図書館でレポートに困っている人がいれば参考になる本をそっと差し出したり。
誰も見ていなくても、その人に気づかれなくても。
なんというか彼女の優しさは、優等生としての自律や己を守るための手段とかではなく、息づいた本物のような気がしたのだ。
だが彼女は、そこだけはきっちり首を振る。
「そんなことはないです。ミアさんと違うことなんか何ひとつないです。確かに私は人に優しくしようというのを心掛けていますが、それは私の勝手な、こうありたいという子供時代からの祈りを叶えるための行動で、博愛主義でもなんでもないんです。……ぜんぜん、優しくなんかありません」
「見てるとそうは思えないけど」
「本当に優しい人は自分を優しい人だって自覚してませんよ。たとえば、そう。碧くんがそうです。あのひとは人助けしても、ぜんぜん見返りを求めてこなくて——だから私、お礼をするのに苦労したんですから」
「でも優しくないひとは、そんなこと言わないんじゃないかな」
「……そう言われては堂々巡りになってしまいますっ」
くるみが咎めるように目を眇めるが、颯太は揺らがず答えた。
「いいんだよそれでも。だって結果が全てじゃん。俺が碧っちと仲よくなれたのは、楪さんのそういうところを見て引きずられたから……なんだからさ」
優等生というラベルに包まれていない、滲み出た生き様が。
関心を寄せて眺めているうちに。
人の気持ちをさして考えず、くっついて別れての浅い恋愛ばっかりだった自分に、ほんの僅かだけれど、響いた。
真似ることで、彼女の行動原理をもっと知りたかったゆえなのかもしれない。でも結果——お節介なのを承知で、クラスであまり目立たずとも浮いた存在だった碧へと話しかけた。
『秋矢って、あんまり他の人と喋らんよね。人見知りなん?』
『え。そういう訳じゃないですけど……。けどそっか。僕はそういう風に見えてるのか』
『どっちかというと友達いなくても平気な人に見えるね。ていうかなんで敬語? ふつーに同級生なんだからいいよ敬わなくて』
『……分かった。それにしたって平気って訳でもないよ。もし湊斗がいなかったらさすがにもうちょっと思うところはあるんじゃないかな、僕でも』
『なるほど。じゃあ友達は募集してると。迷惑じゃないなら今後も話しかけていい?』
『いいけど……苗字で呼ばれるの慣れないからそわそわするかも。下の名前で呼んでくれると助かる』
『じゃあ碧っちで!』
少しずつ会話するようになっていったのが、一年生の前期の話。
ふたりの関係を知り、本気で惚れたと同時に失恋し、その焦れったくも可愛らしい恋路を見守っていこうと決めたのが、二年生の前期の話。
一昔前の自分ならここに至ることはなかった。
きっと碧と友達になることも、本気の恋を知ることもなかった。
これは人の、優しさの連鎖がつないだものだ。
「話を一番初めに戻すけどさ、なんで君たちふたりがつき合ったことにお礼を言うのかっていうと、嬉しかったからなんだよ。俺が碧っちによく話しかけるようになったのは楪さんからの影響で、そんなふたりがどういうきっかけかは知らないけれど巡り巡って関係を持って、仲よくなっていったのを知ってさ。……ああ、俺のしたことはちゃんと間違ってなかったんだって」
だから、と続ける。
「ふたりにはこのまま幸せになってほしいんだ。楪さんなんか、碧っちと一緒にいるようになってから見るからに、好きで好きでたまらないって乙女の表情してるし」
「そっ! そんなこと言われても。……おつき合いする前なら照れていたと思いますが、今さら言われてもちょっとしか動じないんですからね?」
なんてこちらを睨みつつ、恥じらいがほんのりと頬を赤りんごのように染めている。
「……でもよかったです。碧くんは、嫌われるようなひとなんかじゃない。誰かの為を思って行動できる、すごく勇敢で優しい人ですから。碧くんが日本に来て、あなたのような人に出逢えたことが私は喜ばしいです」
照れを引っこめたくるみは、怜悧な瞳でこちらを見据えていた。
凪いで凛として、研ぎ澄まされた、静かなほほ笑み。
誰に対しても本気になれなかった颯太の恋情を呆気なく奪った女の子は、碧といるときに初めて姿を現す。自分の前には、舞い降りない。
そう、それでよかった。
「ほらやっぱり、好きで好きでたまらないんだね」
「大事なひとですもの。碧くんは私にとって……なにより世界で一番、大事なひと」
とたん、柔らかな慈愛にあふれ始めた瞳をそっと伏せ、組みあわせた両手を、くるみは口許の前へ持ってくる。
まるでその大事なひとにだけ、ささやきを届けるように。
仮初めの王子がくるみと会話できる時間はもうすぐ終わりを迎える。
だからそうなるまえに——
「……あのさ。ちゃんと碧っちに了承は取ってるんだけど、その話を踏まえたうえでひとつ伝えさせて」
大粒の瞳をまっすぐ見据えて、せいいっぱい笑って言った。
「俺、楪さんが好きだったんだ」




