第169話 はじまる学祭(3)
「ふんふふーん♪ ふんふーん♪」
お昼を終えて文化祭巡りを再開し始めたふたり。こっちを照れさせたのがそんなに嬉しかったのか、くるみはご機嫌だった。
へんな鼻歌を唄うくらいには。
「ずいぶんとお気に召したようで。くるみ様」
「だってサンタさんみたいな碧くんの写真が撮れたんだもん。すごく貴重よ?……うん、この写真は一生大事にしなきゃ。アルバムにもちゃんと挟んで……」
「よし。今すぐスマホをこちらに寄こすんだ」
「ふふっ。だーめ」
残念。スマホを仕舞われてしまった。
こういうあどけないところは彼氏としても眼福だし有難いのだが、どうやらここが学校だと言うことを忘れているようだ。あれがあの妖精姫なのか、と普段の楚々としたお嬢さんな彼女を知る生徒たちは、皆一様に目を丸くしている。
これは連休明け、日常が再開したときが怖いな……と慄きつつも、これが本当のくるみの可愛いところなんだと見せつけたい気持ちもあって、人間心理とは難しいなと苦笑した。
そんなこんなで、ふたりが次にやってきたのは、三年のクラスがミュージカルを演じる記念講堂。
というのも、美少女の宿命と言うべきか。破壊力のある鼻歌による魅了をなしにしても、外を歩くだけでくるみが目立ってしょうがなかったからだ。
せめて碧が隣を並んで歩くことで、声をかける隙を見計らっていたやつを追い払えればいいのだが、やはり人目を気にしながら遊ぶのにも限度がある。そしてもう少し待てば人も捌ける。なので普段よりしっかりめに手をつなぎつつここまで辿り着き、校内を見て回るのはいったん後回しにしたという訳だ。
ここなら照明が落とされているしマナーとして静かな鑑賞が求められているから、騒ぎになることはまずないだろう。さながら有名人のお忍び旅行みたいで、こういう時に可愛い子は苦労するなと思う。
碧はプログラムを見て言った。
「四十五分間だって。これくらいなら終わった後もまだちょっと回る余裕あるね」
「うん。なんだかミュージカルって大人のデートみたいで、ちょっぴり背伸びしてる気分」
学祭の出し物だけどね、と言うと怒られちゃいそうだったから、そうだねと同意。
開演までまだ少し余裕があるようで、あらすじの書かれたリーフレットを二冊貰ってから後ろの方の空いている席に並んで座るとようやく人心地ついた。
隣を見ると、くるみはまだまだ甘い笑みをほわんほわんと浮かべている。
どうやらこの様子だと写真が貰えたのが嬉しいだけじゃなく、おつき合いしてからの初めての外でのデートを素直に喜んでいるようだ。
「ね。碧くんの写真……待ち受けにしてもいい?」
「えー? それはさすがの僕も恥ずかしいよ」
「さっきのじゃなくて、ちゃんとしたのでも……駄目?」
うっすらとした灯りの下でも、その乞うような潤んだヘーゼルは眩く、くらっときた。
——こういうところに僕はいつも、ドキドキさせられっぱなしだ。
「くるみって本当に甘え上手になってきたよね……。しょうがないな。僕とのツーショットならいいよ。けど代わりに僕も、くるみとの写真をホームに設定したいけどいい?」
「本当? それくらいならおやすいごようです」
ぱぁっと舞い上がったくるみは慣れた手つきでパスワードを打ち、自分のスマホのロックを解除する。
こちらの目の前でも危うげなく堂々と四桁の数字をなぞるものだから、ついうっかり目を逸らしそびれたのだが、その動きが碧の誕生日を示していることに気づき、何ともいえないくすぐったい気持ちでいっぱいになった。
何かを忘れているような気がしつつ、自分のロックナンバーもこっそりくるみのお誕生日にしていたことを打ち明けたほうがいいのか——と逡巡していたところで隣から「あっ」と小さい嘆きが。
「どうしたの?」
「明後日の晩ごはん、まだメニュー決められてないんだった。どうしよう」
やけに深刻そうに言うので、思わず噴き出した。
そこまで世話を焼かれなくても、自分でごはんを調達するくらいはできるんだけど。
「学祭の後はゆっくり休みたいだろうし、大丈夫だよ。おにぎりにしとく」
「んーん。それじゃ駄目なの。うぅ……学祭が終わったらあなたの好きなものをたくさんつくってあげようって、まずは何がいいか聞こうと思ってたのに。ちょっと他のことで忙しくてつい」
「え……いいの? けど何で急に?」
何気ない聞き返しのつもりだったが、くるみは一瞬たじろいだ。
「なんで——? って言われるとその……迷うけれど……。あ、そしたら私からのごほうびってことにしようと思うの。どう?」
「ごほーび」
「そう。今日はお客様のためにお料理していたし、碧くんにはやきもきさせちゃってるでしょうから、学祭が終わったら独り占め。何がいい?」
やきもきがばれていたのは恥ずかしいが、何より魅惑の提案にこくりと喉が鳴った。
正直くるみの出してくれるものは全て美味しいので、あとは好みの問題になる。
「なににしよう。慎重に決めたいな……」
「碧くんが望むならどんなごちそうだって何でもござれ、です」
僕なんかのためにおおげさだなとか、その古くさい口調が妙に可愛らしいなとか思いつつ、ぱっと思い浮かんだひとつの希望をくるみに伝える。
「……じゃあ、かにクリームコロッケとハンバーグと海老ピラフがいいな。できる?」
「ふふ、はぁい。もちろん」
立派な高校生としての体裁は度外視で好きなものだけを詰めこんだ、まるでお子様ランチのようなメニュー。
てっきりもっとお野菜を、なんてお小言を言われるんじゃないかと身構えたが、くるみは何の事なしに頷いてスマホのメモに箇条書きを打っていく。
「そしたらデザートは何がいい?」
「え。デザートまでくれるの?」
「だって、大事な日に甘いものはなくてはならないでしょう?」
どういうつもりで言っているのかは分からないが、おそらく碧が妬いているのを察して、とびきり甘やかそうとしてくれているのだろう。それなら回答はこうだ。
「……ならパフェがいいな。うちの出し物で出してるのよりも愛情こめたやつ」
手間がかかるうえに隠しきれてないやきもちたっぷりのリクエストに引かれたりやしないかと戦々恐々したが、くるみは目を丸くした後「任されました」とこっくり頷いた。
くるみがどこまでも心優しいのは周知の事実だが、家事手伝い妖精を通りこして、これじゃさながら女神様だ。
——この子、まさか僕がどんなわがままを言っても叶えてくれるつもりじゃないか?
「気を遣ってくれてるんだよな」
「? どうかしたの?」
「んーん。その日はお腹空かせとかなきゃなって」
「じゃあ量もいっぱいつくらないとね。お買い物にもいくから、荷物持ちはおねがいしてもいい?」
「もちろん。僕のためと言わずとも、お望みとあれば何でもしますよ」
ぼかしたにも関わらず、くるみはぜんぶを分かってるかのように慈しみ深い瞳でこちらをひとなでするので、碧はたまらなくなり、家の外なのもお構いなしで細い腕を引き、掌を鏡あわせのようにおもむろに重ねた。
「今なら誰も見てないね」
「うん」
「僕がここでキスしたらどうする?」
「えっ。きす。……他でもない碧くんなら、甘んじて謹んで」
「ずいぶんな余裕見せてるところ申し訳ないけど、ぜったいくるみは照れると思う。だってまだ慣れてないでしょ?」
「ふふ。ばれちゃった。……そうね。こんなとこでするのは恥ずかしいかも」
頬をうっすら赤らめたくるみは、茶目っ気を乗せて言った。
前にしたときは初めてなのもあり恥じらいだけで失神しそうなくらいだったし、二回目もおそらく、本人も自覚しているとおりだろう。
だから自分は冗談半分を現実にはせず、代わりに肩を寄せることで手打ちとする。
「今日の碧くんはずいぶんと甘えんぼさんみたい」
「……たまにはそういう日もあるってば」
「毎日でもいいのよ?」
「こら。あんまりそういうこと言われると僕が駄目になるからやめときなさい」
際限のない甘やかしの予兆に照れで口許が波打ってしまうものの、体はどうにも抗えない。まるでそれを知っているかのように、くるみはこちらの嗜めるような忠告に応じることなく、伸ばした手で髪を梳ってきた。
「そうならないように、困った時は私には何でも話していいんだからね?」
くるみの優しいメゾ・ソプラノを聞くと、心がぽかぽかして。
どこか年上のお姉さんめいた眼差しを愛でつつ注いでくる彼女に何か言うこともできず、遠くに行かないでと引き止めるように、そして甘えるように肩にもたれた。
くるみもまた何も言わず、緞帳が上がるまでそのままの格好でいてくれた。
*
その後も、ふたりは学祭をゆったりと、それでいて目一杯たのしんだ。
クラブ棟の茶道教室では、くるみがそれ系統の習い事を昔していたらしいのを発揮し、見事においしい抹茶を点ててみせた。今度は自分もいいところを見せたくて、はりきって足を踏み入れた隣——つまり華道教室では、世にも不気味なフラワーアレンジメントをつくってしまい、笑われた。
丁度これから進もうとしていた先に『世界一怖いホーンテッドハウス』の看板があったときにはくるみをすっかり怯えさせてしまい、慌てて弁解する羽目になったけれど、ちゃんと説明して分かってもらえたからきっと、近い将来には笑い話になるだろう。
ふたりきりのデートは、幸せであれば幸せであるほどに、あっというまに過ぎていって。
やがて訪れた夕刻。風は少しひややか。
天気予報どおり、予定調和みたいに晴れ渡った空は、柔らかな白藍だ。
どこまでも遠く伸びた飛行機雲を跨ぐように、渡り鳥が羽ばたいていく。
少年は焦がれるようにその時を待ち。少女はひとりを思いながらドレスアップし。
そして、パレードが始まった。




