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第167話 はじまる学祭(1)




 ついに訪れた、金曜日。文化祭の一日目。




 うろこ雲が波立つように浮かぶ秋の空の下。伝統を重んじた構造のおもかげを残しながら何年か前に建て替えられたばかりのきれいな校舎には、多くの市民が集まっていた。


 我が校は初日から練習もなしにいきなり、一般公開がされる。


 もちろん真の本番は世間が休みになる土曜だが、それでも校内は外からの客は少なくなく、だいぶ混雑してきていた。朽ちて舞い落ちた紅葉の数と同じくらいの人がひしめいている——というのは言いすぎだろうか。


 けれどそれが冗談にならないくらいには、このクラスの出し物たるパーラーも、あのくるみ様の手づくりスイーツが買える、しかも見れるのは彼氏限定だったはずのエプロン姿まで拝める……というふれこみのおかげもあって、売れ行きは快調。行列が行列を呼び、結構すごいことになっていた。


 くるみの弁当を中庭でうまいうまいとありがたがっていた碧のせいで筒抜けだったのだろう。スノーホワイト様は料理も完璧だ、という前評判のせいもありとにかく一帯は山、山、ひとの山だった。


「すごい。大盛況ー……」


「これ本当に売り上げ一位狙えちゃいそうじゃない?」


「狙える気しかしない」


 クラスメイトは呆気にとられ口々に呟く。


 みんなで組み立てたショップワゴンの前には、これまたみんなでイラストを描きこんだ黒板のメニューがあり、そこから伸びた長蛇の列はもう三度も折り返している。


 それでいて皆うららかな面持ちなのは、キャンパスの正門から第一校舎へと続く歩道沿いが晴天に恵まれたおかげであたたかい木洩れ日が少女の笑いのようにくすくすと気持ちよく揺れ、そこかしこからは秋そのものみたいにほくほくした甘い匂いだからだろう。


 それもそのはずで、ここら一帯は甘味系の出店が多く集まっており、今回我々がくじ引きであてがわれた区画はその一番はじっこだった。


 ここ一年シェフの腕前を近くで見続けてきたので、料理については門外漢とは言わずとも、しかしやはり心得のある女子たちに比べたらとても及ぶものじゃない碧は、調理の手伝いの役目を任されている。


 いっぽう碧の彼女様と言えばもちろん、看板娘だ。


「ね、碧くん。——碧くんってば?」


「…………わっ」


 ぼんやりして呼び声を聞き逃していたことを、こてりとあどけなく首を傾げられた拍子に掠めた栗毛に、気づかされた。


「ごめん。ぼーっとしてた。何?」


「珍しく碧くんも緊張してるの? って訊いてたの。その様子じゃ、返事は聞くまでもなさそうだけれど」


 清潔な紺のエプロンを下げ、一つ結びを揺らしてひっそりと隣から問いかけるくるみは、つぶさにてきぱきと手も動かしながらサンドイッチにバターを塗っている。


「もってことは、くるみも緊張してるってことだ」


「だって……あんな格好で街を歩くなんて、誰かに見られたらと思うと」


「あはは。見せるために歩くんだよ。ただでさえ目立つんだから自信を持って」


「……碧くんがもしかして今日ちょっと拗ねてる風なのって、そのせい?」


 なんだ、お見通しじゃないか。


 ただそれは厳密には違くて、本当のところは今の彼女には何も言えなくて。


 昨日颯太に持ちかけられた相談を思いつつどう返せばいいのやらと愛想笑いしていると、くるみは追求するような眼差しは止めて、ころりと愛おしむような表情へかわる。


「別に今日の碧くんは好きなだけ拗ねていいと思うの。そのぶん私が後からしっかり労わるから。ね?」


「出た、甘やかしやさん。……くるみって僕に甘いよね」


「その発言は『僕に』じゃなくて『僕だけに』って訂正が必要みたい」


「つばめさんにも甘いでしょ。数学の課題をてほどきしたりとか、お菓子のレシピ教えてあげたりとかさ」


「女の子のお友達は例外でしょう」


 おかしそうに肩を揺らしてから、上品な口許の笑みは残しつつ、眉を八の字にした。


「碧くんはもっと堂々としていいんだからね?」


「……うん。なるべくそうしておく」


 あまり自信がないので出来るとは断言せずにトレーにお皿を乗せると、くるみもまだ少し心配そうにしつつ苦笑し、それ以上何か言う事もなく手許に集中し始めたその時だった。


「ごめん! ちょっと今手が空いてる人いる?」


 少し息を切らしながら、凪咲が校舎のほうからどたばた走ってきた。


「サンドイッチの売れ行きが思ったよりよくて、パンがもう切れそうなんだよね。こっちも手一杯で……」


「あ、なら僕が行くよ。買ってくればいいんだよね?」


 挙手をすると、凪咲は落としたスマホが交番に届いていた人みたいに、おおげさに安堵を見せた。


「秋矢くん助かる! あっこれお財布ね。買ってほしいものメモはいってるから!」


 学祭の資金がはいった小さながまぐちを首にかけ、エプロンの紐を解く。だがここでひとつ問題がある事に気づいて、同じ考えに至ったらしい凪咲がぽんと肩を叩いてきた。


「あっ……そうだよね。彼女さんが心配だよね。けど任せて! くるみちゃんのことは君が不在の間私たちがしっかり守っておくし! 誰にも口説かせないよ」


 気づけば周りの女子も皆、一様にうんうんと頷いていた。


「……みんな」


 なんというか、すごく頼もしい。それはきっと去年の自分には気づけなかった事だ。


「ありがとう。それとごめんね、気を遣わせちゃって」


 それから、皆の優しさに思わず瞳をぱちくりさせてるくるみに言う。


「くるみも寒いでしょ。帰りに何か温かいものでも買ってくるよ」


 確か、近隣のベーカリーはスタバの横にあったはずだ。季節限定のものでもいいが、彼女のお気にいりは碧もよく知っている。


「ほうじ茶ラテのホットでいい? 他のがいいなら後でメニューの写真送るけど」


 碧の提案に、くるみが角砂糖がコーヒーにとけるようにほわりと瞳を細めるのは、単に甘いものが好きだからだけではないこともよく分かっていた。


「ううん、それがいい。私が好きなの、碧くん覚えててくれたんだ?」


「……まぁ。なんというか。印象に残ってたから」


 去年一緒にクリスマスプレゼントを買いに行った時だったか。


 こうして振り返ると、時のながれの早さに驚かされる。


「ちゃんと上着羽織っていってね。それと車には気をつけること。よろしい?」


「うん。気をつける。……くるみも気をつけてね」


 くるみの手が塞がってるので視線を絡みあわせることでばいばいをし、それだけ言い残して去ろうとすると、後ろからちくちくと何かが刺さる。


 思わず振り返れば、皆が何ともいえない表情で揃ってこちらを見ていた。


「やっぱ秋矢くんって、本当にくるみちゃんのこと大好きだよね」


「え?」


 事実とはいえ、今の短い会話でどうしてそうなったのか分からずに怪訝な目をすると、腕を組んだ凪咲がしみじみと言う。


「なんていうか表情とか空気がね、日に日にどんどん甘くなってるなぁって」


「そうなのかな。……くるみもそう思う?」


 自分ではよく分からず尋ねてみると、くるみはここでの回答が憚られるのか若干目を泳がせたが、否定はせずに曖昧に頷く。


「う……。ええと甘いというか……。たまにずるっこな時もあるんですが碧くんあんまり自覚してくれないんです」


 交際から数ヶ月、もうなんとなく言いたい事は分かる。こちらから仕掛ける不意打ちのことを言っているんだろう。碧は別にそんなつもりないのだけれど、くるみはよく驚くのだ。


 と、思ってたからこそ。


「……ぜんぶが格好よすぎて」


 という小さな小さな呟きがぼそっと続いたのは予想外だった。


 んんっ! とにやけを隠すために咄嗟に咳払いをしたが、幸い皆は気づいた様子はなく、ずるっこという言葉の意味を邪推するようににっこりと目配せしあっている。


「くるみ、そういうの人前で言われると恥ずかしいんだけど」


「恥ずかしがる碧くんも可愛いからオールオッケーです」


「そういう問題じゃないです」


 ——本当に〈ずるっこ〉なのはどっちか、教えてあげたほうがよさそうだ。


 と、反撃されないのをいいことにくるみの白いおもちみたいな頬をみょーんとこねて意趣返しとしていると、それを見た凪咲がはっと目ざとく言った。


「あっほらまさに今! 『甘い』ってそういうとこだよ! ほら自分で見てみぃ」


 突き出されたスマホのインカメには、さっきのご機嫌斜めはどこへやら。皆の評どおり、可愛い子猫を見詰めているようなやけに柔和で甘ったるい目をした自分がいた。


 とりあえず、僕は火照りを冷ますためにアイスコーヒーの氷多めだな、と思った。


                *


「……へぇ。ここがあーくんの高校か」


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