第163話 とある昔々のお話(1)
——後悔なんか、するわけないのに。
湊斗はそんなことを思いながら、転がっていったバスケットボールを追いかけた先で、ひとり静かに佇む少女を発見した。
とくに語るまでもなく、自分は町内を探せば同じ境遇の子が五万と……はおおげさだが、つまり沢山いるほどのただの平凡な人間だ。
誕生日に買ってもらったゲームが止められなくて、一日一時間なんて言われてるのを破ってこっそりクローゼットに隠れて遊んだり。おつかいのお釣りでお菓子を買っていいなんて言われたら、目的のものを探すより真っ先に駄菓子のコーナーに走って吟味したり。そんなよくある家庭の、よくいる小学生。
けれど子供の狭い世界じゃ、バスケをさせれば湊斗の右に出るものはいなかった。
父親に頼んでやらせて小学二年生から地域のチームに参加させてもらったおかげか、はたまた遺伝か、たった数年で背丈がどんどん伸びていった。
エースと呼ばれることに、感慨などなかった。
だって足の長さのおかげか、走れば誰もついてこれない。持ち上げたボールには、誰も手が届かない。一人だけが目立ち、一人だけにボールが回される。
けれど……そのせいで今、湊斗は独りになっていた。
皆が練習をしているコートには行かずに、近所の公園のすみっこにランドセルをおいて、古ぼけたゴールにむけて球を放る。
『俺らを駒にしてひとりだけで勝とうとするなよ』——そう言ってきたチームメイトとは、あの後なんだか会話がぎこちなくって、だから試合の時にだけ体育館に行く。
別にそれで構わなかった。
湊斗がどんな気分でいようが、構わず明日はやってくる。なら気にしないのが一番だ。
なんて思った、その折りだった——つばめと出会ったのは。
手許が狂い、ボールが明後日の方へ転がる。
夜六時を告げる町内放送が響き、ふと一陣の風が吹いた後、ボールを追いかけた湊斗の目線はなりゆきのまま、いつのまにか視界にいた少女に寄せられた。
「……あいつって確か」
少女は公園のすべり台の天辺に腰掛けて、暗い中で本を読んでいた。
別に外で読書は、何らおかしなことではない——今が夜が間近に迫った夕暮れ時じゃなければ、だが。
「なあ。こないだ転校してきたやつだろ。何してんだ」
気づけば声をかけていた。
やけに高い山のようにそびえて見える階段の上から、少女がこっちを見た。
確か名前はつばめ、だったか。
「お前いつもひとりでいるよな。友達は? 帰んないと先生に明日怒られるぞ」
「……そっちも一人だし」
へんな子。
これがつばめへの第一印象。
清々しいほどに短い問答の末、言い返そうとすると、つばめは迷うような素振りを見せたあと、言った。
「お母に心配かけとうなかと。毎日早う帰ったら、遊ぶ友達がまだ出来とらんのやろうかって思われてしまうやろ」
「……え? 何? ごめんなんて言った?」
本気で聞き取れなかった湊斗が咄嗟に聞き返すと、つばめはまるで淡い期待を捨てるように大きなため息を吐き、それからうつむいた。
「ほら見れ。あんただってうちん言葉聞き取れんっちゃ」
「それ方言? どっから来たんだ?」
「……福岡」
「ふうん」
なんか去年授業でやった都道府県のパズルで見たことがあった気がしたけど、どの地方にあったか思い出せなかった。
「友達いないのってそれのせい? じゃあ標準語話せばよくね?」
「それが出来たら苦労はせん」
「ふーん。そう」
最後のはふつうに伝わったけどな、と思いながら、湊斗はかたくなにそこから動こうとしない彼女をおいて帰路に着いた。
……そうして、母にそれを言い渡されたのは二日後の朝だった。
「一緒に登下校? 何で俺が?」
机を拳で叩けば、冷めかけたトーストが皿の上で跳ねた。
母は忙しそうに家族の朝ごはんを運びながら、こっちは見ずに言う。
「うちと家近いんだから、あんたがいろいろ面倒みてやりなさいよ。ご近所の助け合いってやつは大事なんだからね。それにあんた、最近バスケ行ってなくてひまなんでしょ?」
事もあろうに母から、つばめと一緒に登下校してあげてと言われたのだ。
多分つばめが親にでも、湊斗と会ったことを報告したのだろう。それで井戸端会議かなんかで話が湊斗の母に伝わって、こうして面倒を言い渡されているんだ。そうに違いない!
「でもあいつ……」
「あんたね、お兄ちゃんも受験で忙しいんだから、でもでも言って余計な手間かけさせないの。ちゃんと返事はしなさい」
「……はいはい」
「はいは一回!」
四年生にもなって女子と二人きりで登校なんて、ぜったいに恥ずかしい。
ただ、頼んで始めさせてもらったバスケに行っていないのがばれてたことはちょっとばつが悪かったので、嫌だなんて言うに言えなかった。
それから、湊斗とつばめは少しずつ喋るようになった。
朝は途中まで一緒に学校に行って、帰りはたまに公園で話す。別に進んで構いにいった訳じゃない。ただ晩ごはんの時の母からの小言がふえるのが嫌だから、仕方なくだ。
けれどそんな思いとは裏腹に、湊斗はつばめのことを少しずつ知っていった。
長崎に住んでいるおばあちゃん大好きっ子で、昔編んでもらったセーターを着られなくなったいまも大切にしているということ。
小二から書道を習っていて、見かけによらず達筆なこと。
将来の夢は、一生はまれる夢を探すことだということ。
それから、笑うとすごく可愛いとこ。
つばめは標準語を順調にマスターしていった。博多弁を喋るつばめは嫌いじゃなかったから、少しずつ多数決の半数を占める方へと矯正されていくのはなんかちょっと惜しいな、という気持ちだったけれど、彼女はもともと明るくいい子で、瞬く間に友達が出来ていった。
だからそれでいいと思ってた。
そのうち、湊斗はバスケには戻らないまま、中学に進学した。
*
「見てセーラー服! 可愛いでしょ!」
真っ白い朝陽の下で、主人にまだ馴染まずにちょっとぶかぶかな制服のスカートをくるりと回して、つばめが笑う。
「俺はブレザー派だけど」
「湊斗の好みは聞いてないし! まあ湊斗の学ランも悪くないけどね」
「そりゃどうも。……で、待ち合わせってことはまさか、俺ら中学になっても一緒に登校すんの?」
「えー? 嫌?」
「……別に嫌ではないけど」
中学の入学式当日から早速、一緒に学校に行く羽目になった。
服と鞄と行き先がかわっただけで、あとは自転車通学が解禁されたから、その先に校舎の待つ坂道で、ぴかぴかのマウンテンバイクを並んで押して。いつもと同じ歩調とかわらぬ口調で、ころころとお喋りをする隣のつばめを眺めながら。本音を言うと嬉しかった。
「湊斗は部活どうすんの?」
「えー……俺はいいかなぁ」
「バスケはもうやらないの? 三年生抜けてから人数少なくて困ってるって聞いたよ。私転校してきてすぐの頃に一回だけ試合見たことあったけど、湊斗上手かったんでしょ?」
「見てたのか……でも面倒なんだよな、そういうのはもう」
肩にかかるショートカットをふありと揺らして、つばめがとんでもないことを言った。
「そっか。私はバスケ部にはいるけど」
「ふーん……ってええ!? そんなちびなのに嘘だろ!?」
「なにそれ酷か!! 背の高さは関係ないじゃん!」
ぷんすこ怒るつばめだが、すでに湊斗とは歳の離れた兄と妹くらいの差がある。
「あるわぼけ! 悪いことは言わないからやめとけよ。多分初日の仮入部で挫折するぞ」
「しないもん。今に見てろすごい選手になってやるから! それより湊斗もバスケやろうよー。やめちゃうの勿体ないよ」
「まあ……考えておくよ」
だが結局、正しいのはつばめで、間違っていたのは湊斗のほうだった。
彼女は不利な足りない十センチをむりやり埋めるように、誰よりも早く朝練へ行って、誰よりも遅く体育館に残った。体格の代わりに技術を研ぎ澄ませた。
そして、湊斗の心配——あるいはこうあってほしかったという願望とは逆に、つばめはどんどん期待の選手として、一線で活躍していった。
*
「みーなと! 一緒に帰ろ」
中学二年に進級したある夏の午後、学校の駐輪場でつばめが待ち伏せしていた。
「あれ、お前部活は?」
「今日は家の事情で休ませてもらったんだ。……ね、私の自転車ブレーキの調子悪くてさ、湊斗の荷台に乗せてよ」
「交番の前とおったら怒られるぞ」
「迂回すればいいんだよ」
「この不良娘め」
とか返しつつ、スカートのつばめはちゃっかり横坐りで腰掛けているので、湊斗は一年乗ってそこそこ年季のはいった愛車のペダルを二人乗りでこぎ始めた。いつもより体重が掛かったおかげで、ゆっくりと。
肩にしがみついたつばめの手が、やけに熱かった。
その熱を覚ますように吹く、ぱたぱたとシャツをはためかせる七月の風が、気持ちいい。
何となく、真っ当な青春ってこういうことかもな、と思った。相手が嫌になるほどに見慣れた幼なじみなのは……まあおいとくとして。
「で、家の事情って何なんだ? お前の母さん風邪で寝込んだとか?」
「んーん。実は私、モデルに応募したらうかっちゃって。お母さんと契約書渡しに行くの」
「は?」
驚いたはずみで横転しなかったのは幸いだろう。
身近にいるモデルって言ったら、美容師の練習台になって髪を切らせるやつかと思ったが、契約書と言ってるから多分本物のほうだ。
にしても、にわかには信じられない。
「ジュライフールじゃないよな?」
「嘘なんか言わないよー」
「それ、いろんな服きて写真とか撮るってこと? で、映画とかテレビにも出るの?」
「よく分かんないけど、雑誌には載るんじゃないかな」
「ふうん。まぁ……そうだよな」
素直に祝福してやればいいものを、飛び出た相槌が妙にそっけないことに、自分で冷静に気づく。
——あ、俺いま寂しいんだ。
小学生の頃はあんなに近かった幼なじみが、どんどん遠くに行ってしまう気がする。
自転車でどれだけ進んでも一センチも動かないあの入道雲みたいに、いつまでも足踏みして幼いまま停滞しているのは、自分ばかりだ。その間に彼女はその名のとおり、空を翔るつばめのように遠くへ行ってしまう。
「何かすごすぎてよく分からないけど……何でつばめっていつも自分の不利なフィールドで戦う訳?」
「それ私が不細工ってこと!? 湊斗まさか喧嘩売ってる?」
「ちげえよ! ちびなのにって意味だよ。お前可愛いだろ鏡見ろ」
「へー? 湊斗はそーゆー風に思ってくれてるんだ?」
風の間隙を縫って、後ろからうふふっと嬉しそうな笑い声が聞こえる。
「……あのさ。すげえ失礼で意地悪いことかもしれないけど、俺分かんないんだよ。つばめのそれ。俺は自分が一番に輝ける分野でしか戦ったことがないし、やろうとも思わないから。まさかそれ、たとえば負けた時に言い訳できるように、とかじゃないよな?」
湊斗がもし不得意な分野で戦うことを選ぶなら、理由はそれくらいしか思いつかない。
その輝ける分野すら、自分は早々に手放してしまったわけだけど。
後ろからどつかれる覚悟での質問だが、つばめは真面目に応えてくれた。
「うーん……どうなんだろ。けど逆に考えてみれば、そこで成功できれば何だって出来るってことでしょ? つまり私は自分を信じたくて、そのための自信がほしかったんじゃないかな?」
言葉以上に何か深い考えがあるような気がしたのもあるが——誇れるものがない今の自分に突き刺さったような気がした。
「……じゃあ俺はつばめの一番のファンになってやるよ」
「ほんと!?」
がたんと、肩とハブステップに体重をかける気配が伝わり、慌てて押し宥める。
「危ないから座れって。俺はそういうふうにはがんばれないから、つばめが何かをがんばるのを見守るのがちょっと嬉しいだけだよ」
「えー。湊斗っていつもはやる気ないけど、やればできるんだからね? だって港からは世界中に船が出てるでしょ? 自由の象徴だよ」
「……何で励まされてんだ俺」
心を読んだような幼なじみに、そうぶっきらぼうに返しながら。
けれど湊斗はどうしようもなく、嬉しかった。他でもない彼女が、いつだって一歩先で眩く在り続けたつばめが……そう言ってくれたことが。
下り坂に差し掛かる。じわじわ自転車が加速し、風が耳の横で唸りをあげる。
それでも湊斗はペダルをぐっと踏みこんだ。
まるでどこまでも空高く、遠くへと飛ぼうとしているみたいに。
「なぁつばめ」
「うん?」
「俺も……今からでも遅くないかな」
「ぜんぜん! 遅くなんか! ないよー!」
つばめのはしゃいだ叫びが夏空に木霊した。
——次の日、湊斗はバスケの入部届を提出した。
本編は、メインキャラふたりの高校生らしからぬ恋愛を描写したいがためにありふれた青春成分とかはなるべく抑えて仕上げているので、つばめと湊斗の中学生らしい青春模様や幼さゆえのあれこれを書くのはすごく楽しかったです。
湊斗の回想は次回まで続きます。読んでくれると嬉しいです!




