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第161話 白雪姫は眠らない(2)



「いよいよ学祭ってかんじの空気になってきたね」


「だなー」


 あれから日々は進み、文化祭が近づくにつれ、学校はすっかりいつもと違う様相を呈していた。


 キャンパスのあちこちに散らかる看板やペンキ。設営しかけのステージ。


 なのに空だけは限りなくいつもどおりで、どこからか金木犀の香りを風が運んでくるなかで、それを吸い取ったように青く染まった雲は甘く柔らかく、校舎の角やすっかり染まったキャンパスの銀杏(いちょう)の木を、降り注ぐ陽光がハレーションみたいに黄金に輝かせている。


 現実の(しがらみ)さえなければ、このままごろんと芝生に寝転がって昼寝をしたいくらい、何一つ足りないもののない完璧な午後だった。


 そんな折、つばめと湊斗の撮影とバンドの練習がひと段落したと聞き、くるみを連れて差しいれを持って会いに行っていた。


 湊斗もつばめも、もともと高校生ながら立派な仕事を持っているのもあり、最近は学校の授業以外でなかなか会えなかったので、こうしてゆったり話すのも久々だ。


「くるみんたちは、ふたり一緒に学祭まわるんだよね?」


 つばめが校舎外にある噴水の縁に腰かけながら、ぱたぱたと足を動かす。


 手に持っているのは差しいれ——くるみが前の晩に家のオーブンで焼いてきたフィナンシェだ。


 家主としてその場に居あわせた碧は先がけて味見でひとつ貰ったのだが、しっとりしつつ甘さが控えめでアーモンドの香ばしさがたまらず、思わず二つ目に手が伸びたのをこっそり許してもらったのを思い出す。


 さすがに三つ目は駄目って叱られたけど。


 くるみがゆったりと、後ろの噴水みたく透けそうな淡い眼差しでほほえみ返した。


「うん。クラスの子が気を遣って同じシフトにしてくれたから、午後の空き時間は一緒にまわるって約束してるの」


「えー! じゃあデートかぁ」


「僕たちがつき合ってからだと初めてだね」


「ふふ……お家に遊びにいったりはしょっちゅうしているけれどね」


「そうなんだ! 初めてのデートって記念になるだろうし、それが学校ってなんかいいよね。高校生ならではってかんじで思い出に残りそう」


 くるみが放課後に晩ごはんをつくりに来たり一緒に買い出しをしたりはしょっちゅうなので、そういうのを『デート』と世間では呼ぶのかもしれないが、二人にとってはあまりに日常の光景すぎるので、除外するとなるとそれが初めてだ。


 ふとくるみのほうを見るとぱっちり目があい、嬉しそうな、けれどどこか精彩に欠いたはにかみをひっそりと投げかけられる。


 言葉の代わりに目で笑い返すと、黙々とフィナンシェをかじっていた湊斗が言う。


「おふたりはシフト午前なんだっけ? 俺らの映画の公開もお昼の前だから、もしかしたらかぶっちゃうかもなぁ。本当はクラスの方にもお客さんとして行きたかったんだけど」


「あ……そうなんですか? 私も見に行きたかったんですけれど……残念」


 しょんぼりするくるみにつばめが居ても立っても居られず、がばっと抱きついてすりすりと頬擦りをする。


「ごめーんくるみーん! でも午後は空けてるしパレードはもちばっちり見に行くから大丈夫!! それに撮った映画は後からスマホに送れるし! だから碧もくるみんがエプロン着てがんばってる姿を送ってね!」


「えー」


「嫌そうにしないで!?」


「写真は撮ったとしても誰にも渡さないで独り占めするつもりだったから」


「え。えええ?」


「そ……そういうのは嬉しいけど人前で言わないのっ。ばか」


 真っ赤になったつばめの横から、羞恥で頬を染めたくるみに小さく叱られ、二人の死角でこっそりと猫パンチよろしくぽこぽことゆるく叩かれる。


 別に二人の前で隠す事ないのにと思いつつ、密やかな仕返しがすこぶる可愛らしい。ごめんねの意をこめて優しく優しくあやすように掌を指先でくすぐっていると、くるみこそばゆそうに頬を弛める。


 だが、その動きはいつもより鈍い。思い返せば今日、授業中は珍しくぼんやりしているようだったし、会話も言葉数も少なかった。


 きっとふたりには聞かれたくないだろうな、と予想して低くささやきかける。


「今日は早く寝なよ」


「えっ。あ……うん?」


 よく分からないまま咄嗟に頷いたらしいくるみがハテナを浮かべ、ささやき返す。


「どうして分かったの?」


「いつも目を奪われてるんだからしかたない」


 普段より白い頬がまた、かぁっと赤くなった。


 照れたのか、もしくは不調を見抜かれてたのを恥じたのか。きっと両方だ。


「……実はちょっと最近、夜ふかしすることが多くて」


「やっぱそうだよね。疲れてそうだなって思ったから」


「う……心配かけたならごめんなさい」


 悪戯が見つかった子供のように、ばつが悪そうに萎れるくるみ。その様子からしてきっと零時そこらじゃなく夜明け近くまで起きていたようだ。


 彼女ほど自分を律する人間は、見たことがない。克己心はおろか、美の追求や勉強もとい自分の理想に近づくためなら一切の努力をいとわない、と断言できるほどに自己管理が完璧なくるみが事もあろうに寝不足だなんて、明日は雪が降るんじゃないかと思う。


 文化祭だって本当はくるみが碧の服の針仕事を引き受けたかったみたいだが、忙しいことを理由に断念し、他の女子に採寸メモと共にその仕事を譲っていたのを知っている。きっとその夜ふかししてまで進めたい何かのためなのだろうが、肝心のそれの正体が依然知れないのだ。


 それほどまでに優先したいことって一体なんだろう?


 なんて、そんな心配が筒抜けになってしまったのか。くるみは逆にこっちを安堵させるように、柔らかく目を細めた。


「けれどもうすぐゴールだからだいじょうぶ」


「そっか。僕にもなにか出来ることある?」


「学祭の終わりまでには。それにこれは私のお仕事だから、碧くんに頼っちゃいけないの」


 ということは、後十日もすれば解放されるはず。


 あいかわらず慎ましいというか、何でも自分で解決しようとするというか。あるいは本人がハイスペックゆえに大概のことは自分でこなせるせいでもあるだろう。


 本来の甘えんぼを解放して素直に可愛がられにくることはようやく覚えても、こういうところの分別はきちんとしてるんだよなと苦笑する。そして外野が手出しをしすぎることは却って本人への信頼がないように映ってしまう。


 だから母のアドバイスのとおり、碧はせめて本当に困った時に真っ先に頼りやすい自分であれるようにと笑って彼女の掌をにぎにぎ握ると、むこうからもくすぐったさを訴えるようにむにむにと優しく握り返された。


 そんな秘密の睦言めいたやり取りの間に、話が進行していたらしい。


「碧は誰か友達呼んだりするの?」


「え、僕?」


 穏やかな風が、霧のように細かな噴水の雫をこちらにひんやりと届けてくる。


「ほら学祭に」


 つばめに問われ、話に追いついた碧は、ふと馴染みの友人と交わした約束を思い出す。


「ああ。ルカが東京に来るのがちょうど学祭のある土日だから、多分呼ぶかも」


「それって前に言ってた海外の友達だよな? どんなひと?」


「一言でいうととんでもなく格好いいから覚悟したほういい」


「えっ嘘! 写真見たい! ——……えっやば本当に格好いいじゃん!」


 スマホを手渡すと、つばめはおそらくただの好奇心だろうが大いに盛り上がり、後ろではその様子が実に気にいらなそうな湊斗がいるという愉快な図が出来上がった。


 そんな目するくらいならさっさと告白してしまえ、というのは自分が言えた義理ではないから黙ってるしかないが。


 それに……湊斗の気持ちもきっと百分の一だって、分かってしまうのだ。


 〈まだ今じゃなくてもいい〉


 そんな、何の解決にもならない先延ばしに足を掴まれ溺れてしまう気持ちを。


 くるみと想いを伝えあって、通じあって、キスをして。


 順風満帆に恋人として歩み寄れている幸せを、晩春の白木蓮の花のようにたやすく散らしてしまいたくはなくて、だから今だけは忘れていたかったのだと思う。


 大事な話をすることも——もう一人の友人、琥珀から送られてきた手紙の言う、会いたいという時が近づいてくることも。


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