第160話 白雪姫は眠らない(1)
——俺、木次颯太は失恋をした。
呆気なく、笑っちゃうほどにあっという間に訪れた、ありふれた恋の結末。
そう、特筆すべきこともない終わりだった。いや、始まってすらないのだから、終わりという表現ですら間違っているかもしれない。
だから多分、今もきっとこの世のどこかで誰かが誰かに告白して、そのうち二人に一人は振られているとして。彼らがどんなに泣いて眠れない夜をやり過ごしたとしても。
それでも……『いいな』と思ってしまう。
姉貴が三人もいるから、これでも結構女心は理解できる。
そのおかげか、女の子にはよく好意を寄せられた。
優柔不断で断れないのが自分の悪いところだ、と高校生になってようやく気づいた。だから今までも押されるがまま、何人ともつき合ってきた。告られて何となくOKして、互いに本気になれずに別れる浅い恋愛を何度もくり返して。
そんななか初めて理解できなかった、妖精姫という女の子。
見たことないタイプだった。完璧を体現した立ち居振る舞い、読めない、読ませない。親しみやすいのに遠い。遠くて手が届かない。他のどんな女の子とも違って見えた。
気があるわけじゃないが、同時に猛烈に知りたいと思う自分がいた。
自分たちとあれほど違う世界にいて、いったい何が見えているのかを。
彼女は何を考えて、どう生きているんだろう? 皆の理想の優等生でいるのはなぜ?
本当は別の表情があるんじゃないか? あるとしたらそれはどんなだろう?
——答えはシンプルだった。
とある雨の日に駅で見かけた碧。そこを傘を持って迎えにきたくるみの、熱のある甘い笑みと『大好き』と語る眼差し。ただ彼だけを余所見せず見詰めて、好きで好きでたまらないと全身で訴えかけるあの姿。
とどのつまり、くるみはただの恋する女の子だった。
瞬間、恋心と呼べるものが蕾のように突如生まれ、僅か一秒で散ったことに、颯太は驚きと同時にひどく苦いものを呑み下したのを、今も覚えている。
さすがに結末を決めつけるのは早いんじゃないかと一晩は眠れず考えたりしたが、あの誰も隙間にはいれない仲睦まじさを見た以上、その判断に間違いはないと、カラスの鳴く明け方にはすっぱり答えを出した。
鍵をかけよう。この気持ちは日の目を見させるべきじゃない。
だから初めから、友人の両片想いが成就することに殉じた——そのはずなのに。
「……颯太。まだ落ちこんでんの?」
駅のホームで、ベンチに沈みこんで帰りの急行電車を待っていると、話しかけてきたのは夏貴だった。
方角は一緒なのだが帰宅の時間が違うので、こうして一緒になるのは珍しい。
「まあ、ね。落ちこんでるっていうか、気持ちの整理中というか」
「……ならちょっと行きたいとこあるからつき合え」
祝福をした気持ちに偽りはないから、上手く笑ってたつもりだった。けど、中学からのつきあいの一番の友人は、見抜いていたらしい。
電車に揺られ、連れてこられた先はバッティングセンターだった。
来るのは初めてだった。自分の十八番はテニスなのだが、球を打つんだからどっちも同じだろうし体の感覚も似たようなもんだと暴論で返され、軍手とヘルメットを受け取りとりあえず打席に立つことに。
——ぴしゅっ。かきん。
ひとまず速度は百キロメートル。
はじめは空振っていたが、しばらくスイングしているとまともに当たるようになって、気分が高揚してくる。
「お前って運動のセンスはいいよな」
「はってなんなん夏きちー。おりゃっ」
「いやだって勉強はわりと駄目だろ」
「うるせー。てか夏きちは打たんの? 中学まで野球やってたんならお手本見せろよ」
「俺はどーせ平凡だし、辞めたんだからいいんだよ。バットはもうぽっきり折ったね。グローブは近所の子供にあげた」
「これ折るってどんな怪力なん?」
と笑って構え直したところで——
「いいのかよ。楪さんのこと諦めて」
殴るようなストレートが、燻っていた心のど真ん中に直撃する。
振れなかったバットをゆっくり下ろして後ろを見た。
「お前まだ振られてないじゃん。一回くらい告ってからでも遅くねえだろ」
何言ってんだこいつ? と思った。
「……いやいや。彼氏がいるんだから振られたようなもんだろー? てか俺、まともに話したこともないんだよ? そんなんで脈あるわけないじゃん。碧っちにも失礼だし」
「いや、それだよ。碧のことは嫌いになったりしないのかよ。いわばライバルだぞ」
「ならねーって。好きだよ? 人としてね。いい奴だしさ」
「ふたりが別れるまで待つつもりもないのか?」
「あれ見て、そんなこと期待しちゃうほどばかじゃないよ俺も。分かる、あのふたりは別れない。むりむりかたつむりってね」
「……平気な振りすんなよ。なんでここ連れてきたと思ったんだ」
ぱすんと、打たれなかった球が壁に当たって転がる。
なんで夏貴がずけずけと踏みこんでものを言ってくるのか、知っている。
颯太と碧のふたりに挟まれて、きっとどっちにも不幸になってほしくはなくて。けれどこっちとは中学からの友人だから、その数年分だけ、情をおまけしてくれているのだ。せめて引き摺らないように、と。
……けど、その優しさが今だけは辛い。
「はぁ。夏きちくんさぁ。鬼なん? 落ちこむ時間くらいくれってーの。てか打ちながら喋るとか難くね? メダル一枚むだになっちゃうって」
「俺と颯太ってわりとつき合い長いだろ。……やなんだよ、友達にそういう表情されんの」
「案外情に厚いよなぁ。夏貴は。けど碧っちだって、夏貴の友達じゃんよ。そして俺の友達でもある。花火大会は行けなかったけど、あの時なにがあったかちゃんと聞いたんだよ。本物の公開告白しちゃうやつとかさ……最高じゃん。すげーかっこよくて、嫌いになるとかできねーよ」
「その少し前だけど、俺はいちおう止めたぜ、あいつのこと。やめとけばって。……余計なお世話って言われるかもしれないけど、お前の気持ち知ってたから」
バットが急に重くなった。心が熱いような、青褪めるような。
打席にはいってて助かったな、と思う。友人にこんな表情を見せなくて済んだのだから。
「ありがとう。気遣ってくれて。けど……駄目だよもう」
——俺も、妖精姫を遠巻きに見守るだけの一人だった。
彼女の世界に踏み込もうとしなかった。もう時間を巻き戻さないと、無理なんだ。
いや、もし過去に戻れるとしても自分には何もできない。
結局自分がかわらなければ、何度やり直したって得られるのは同じ結果だけ。
くるみが好きだ。けど碧も同じくらい、友人として好きだ。
前まで悪目立ちのせいで友人が少なかったとか、最近になって認められて人気になったとか、なにも関係ない。碧は、碧だ。颯太の大事な友達で、あのひとの彼氏に最も相応しいやつなのだ。
だからきっと、この気持ちはゴミ箱に捨てるしかない。
別の何かで上書きするしかない。それでこの話はおしまい。そのはずだ。
なのに、自分は……




