第156話 一歩ずつ
——朝、目が覚めて一番はじめに目にするのが大好きな人だという幸せ。
くるみが初めてそれを知ったのは、カーテンの隙間から見える太陽がきらきらと昇って間もないときのことだった。
「……かわいいって言ったら嫌がるかな」
こうし始めて何分がたっただろう。秋の淡い光が差しこむソファで熟睡する碧をすぐそばで眺めながら、くるみはつい緩む口も頬もそのままに、ぽつりと呟く。
以前は自分がうっかりうたた寝して碧に寝起きを観察されることが多かったから、逆の立場は珍しい。少しばかり誇らしくなりながら、いつまでもこうしてたくて、いつもはしない頬杖をしてみる。
一緒に〈お泊まりの練習〉をして、明けた一夜。
同じ空間にずっといたけれど、彼の宣言どおりに本当になにかされることはなかったし、頬にキスをしあった他には健全と言い切れる夜だった。
本当に大事にされているんだ、と分かる、そんな一日だった。
——私も貰ったもの返していけるように来月までにがんばらなきゃ。
そう決意し、改めて彼をみる。
あどけない寝顔は、いつものクール……とまでは言わなくとも、あまり感情を出さず泰然自若としたかんじとのギャップが凄まじい。
思いのほか長い睫毛や白い頬はふれがたい印象を覚えさせるのに、鼻筋のラインとか輪郭はどこかきりりと精悍で、男の子ってかんじがする。
——きれいだな。
惚れた欲目もあるかもしれないが、整った目鼻立ちは昼夜問わず気を抜くと見惚れてしまいそうになる。世紀の美青年という訳ではないにしろ、くるみにとっては世界一格好いい彼氏だった。
こうしているだけでこみ上げてくる想いに身悶えしそうになるのは、普段決して見れない姿を見ることができたから。いわば彼女の特権だ。
ボールペンの挟んである語学書も、すみっこに積まれた段ボールも、朝は毛先がくるっと癖づくんだなというのも、きっとくるみしか見ることのないもので。
一緒に晩ごはんの時間を共有する以上の深いところまで、碧の日常にいれてもらえた。それがたまらなく嬉しい。この空間にいるだけで面映くて、冬のココアみたいにまた温かい気持ちになっていく。
でも————
『代わりに手をつないで眠ってもいい?』
彼女だけが見れる特権のなかでも一番で言うとやっぱり、照れた時の表情だ。
昨日、そう言ってきたときがまさにそれ。
碧は普段どっちかというと平淡でクールな人だし、くるみを理解して手を引いてくれたり隣に居てくれたり、格好いい時は本当に頼りになるんだけど……自分が何かを言って照れた時だけ赤くなって思ってることが表情にありありと出る。本人は隠してるつもりなんだろうけど、そこに気づいてなさそうなのがまた可愛い。
そしてそれを思い出して、自分まで頬が熱くなってしまうのはさすがにまずいと思って、冷えた指先で包み込んでなんとかストップさせた。
——いつかこんな愛おしい日々が、当たり前のものとして日常になっていくのかな。
それはちょっぴり切なそうで、けどそれ以上に幸福なものに思えて。
瞳はなおもただ静かに閉じられている。
分かっていても念の為、きょろきょろと周りを確認。
今なら、誰も聞いてない。
「……碧くん。好き」
一度口を衝いて出た言葉は、止まらない。
「……すき。だいすき」
上からそっと頬を寄せて、溢れた想いをささやくと、その時まぶたが震える。
目は口ほどに物を言うと諺があるとおり、彼の生き様が現れたように澄み渡って、あるいは彼の名前そのもののように、どこか青みがかってさえ見える瞳がぼんやりと姿を見せ——
*
「やっ……」
寝起き一番に見た光景は、こちらを覗き込んでいたくるみが慌てて飛び退く姿だった。
どうやら夢でも幻でもなく現実らしい。
ベッドにぺたんと崩れた正座になったくるみと、たっぷり十秒ほど見つめあう。その間、彼女は同じくたっぷり十秒かけて赤くなった。
「えと、おはよう碧くん……」
「おあよ」
掠れた喉のまま挨拶をし返し、むくり、と腕で上体を起こしつつ、思考を整理。
昨日彼女を自分のベッドに寝かしたところまでは覚えているが、まさか見詰められながら目覚めることになるとは思わなかった。
大好きな女の子だなんて、朝一番に見る光景としてこれ以上のものはないが、少しばかり体が驚いていた。
「夢みてた。なんかね、くるみに好きって言われる夢」
「えっ」
自分に掛かっていた毛布を畳みながら何の気なしに言うと、くるみが茹だりそうなくらい真っ赤になった。別に夢なんだからそんなに照れなくていいのに、と思う。
そっちは? と目で尋ねてみる。
「……碧くんの寝てるところ、見てたの。十分くらい先に起きたから。……その、かわいいなって思って。あ、もちろんいたずらとかはしてないからね?」
大きな身振り手振りを交えて。いつもより柔らかくあどけない空気なのは、昨日のやりとりがあったゆえかもしれない。
——きれいだな。
ふと、掛け値なくそう思った。
まるで雪の日、初めてくるみと出会った時のように、今また心を奪われる。
しわが寄った真っ白なシーツも、淡く差しこむ透きとおった朝陽も、きらきらした埃も、光に包まれたくるみの宝石のように眩く貴い姿も。
この世界を神様がデザインしたのなら、きっとその神様も美しいものが好きなのだろう。
何よりこの好きという感情が、そう思わせているのだと思う。
くるみを好いてから、今まではただの三百六十五ぶんの一だった朝の一秒一秒でさえ、貴重な真珠粒のようだ。
そう想える相手に出会えたことは、きっと自分の人生でも至上の幸運で。
——このひとの前だと、大人でいようって気持ちを奮い立たせなくていいかなって、そう思えるんだ。
彼女の瞳は深くて温かくて、見透かすような鋭さがある。
けれど同時に語っている。
碧を大好きだって、目で教えてくれている。だから碧も、僕もだよと、目で伝える。それだけでぜんぶが通じあっている気さえする。
自分は、こうして誰かと同じ気持ちを共有しあう喜びを、長い間忘れていた。
碧にとって恋愛はあくまでおまけで、人生でそこまで大きな比重を占めるものではない認識で、むしろ他に優先したいことがあったから要らないとさえ言い切れた。そう、関心すらなかったのだ。彼女に恋情を奪われるまでは。
もし何年か前の、まだ子供だった頃の自分に「大切な人ができたよ」なんて伝えたとしたらどんな反応が来るだろう。嘘だぁと言われるか、冗談だと笑われるか、よかったねと言われるか。分からないけど、ひとつ確かに言えるのは、その時の自分のは想像もし得なかった未来に僕はいる、ということだ。
そう思うとむしょうに愛おしかった。
——やばいな。今、すごくふれたい。
相手を一番に大切に想って、それでもまだ足りなくて……そんなどうしようもない気持ちをひとは愛と呼ぶのだとしたら、この感情の呼び名はまだ彼女が〈くるみさん〉で自分が〈君〉だった頃に、とうに決まっている。
「……キスしていい?」
静謐な空気を壊さないように静かに問うと。
くるみははっと鋭く息を洩らして、しばらくゆらゆらと瞳を揺らしてから、こくりと頷いた。僅かに首の角度を横に傾け、こちらに真っ赤な頬を差し出して。
そのまま、ぎゅうっと瞳を瞑って衝撃を待っている。
なのでベッドに乗り上げてひざをついた碧は、あごをくっと持ち上げて、息を潜めてからそのまま差しこむように唇を塞いだ。
——初めてのキスは、相手を想う気持ちに反比例したような、淡く優しく焦れったいキスだった。
ほんの短い間に、互いの唇をほんの少し掠めあわせるだけ。
それでもこの一秒ではっきり分かる、互いの体温。香りと柔らかさ——
だが想像以上に狼狽が勝ったのか、ぱっと大粒のヘーゼルがすぐさま開かれ、ぐるぐると渦を描き出した。
離れてもなおしばらくフリーズが続いているのだが、その理由は次の発言ですぐに理解することに。
「きっきすって! ……ほっぺたに、じゃなかったの?」
「あ。やっぱり勘違いしてたんだ」
その一言で、くるみは泣く寸前みたいに瞳を潤ませる。
「き、気づいてたなら教えてくれたってよかったのに!!」
「いや……そのまましたらどうなるかなって好奇心が勝っちゃって」
正直は一生の宝、という言葉に裏切られたなと思ったのは、瞳のぐるぐるが最高潮に加速したからだ。
どうやら結果、正直者は文字どおりばかを見てしまったらしい。
「ばか!! だって覚悟も出来ないまま……!!」
羞恥を発散させるようにぽすぽす額をぶつけてくるので思わず身をかわすと、慣用句でなく本来の意味での肩透かしになってしまったようで、ひざの上にぽてんと羽のように重さのない体が倒れてくる。
ぱち、と驚いたようにヘーゼルを瞬かせるのが可愛くて思わず心から笑ってしまった碧は、ゆびさきで頬を愛でるように優しくなでた。
もたれたままのくるみはちょっぴり不服そうだが、キスの余波だったりふれられることの心地よさだったりで、反撃するつもりは一切ない様子で身を委ねている。
碧も碧でもう少しくるみの甘やかさと可愛さに耽っていたかったから、このあと学校と授業が待っていることがちょっと本気で残念だった。
「そんな心構えすることでもないだろうに。おおげさ」
背中を押して起こしてやってから笑ってそう言うと、くるみからはほんのりと責めるような眼差しが返ってきた。
「だって、そう言っていつもいつもいつも私の予想の斜め上いくんですもの。ほんとうにすごくびっくりしたんだから」
人生で初めてのキスだったのにこんな急に……という拗ねたような小さな呟きがぼそっと届き、んぐっと喉からへんな音を洩らす碧。
確かに言葉足らずだったなと反省しつつ、しかし動揺してるくるみがやっぱり可愛くてつい近寄って鑑賞すると、スマホを盾にぐいぐい遠ざけられる。
「もう。なんでそんな何事もなかった風なの」
「そう見えるなら、僕の努力の結果と思ってほしいな」
「……き、昨日はあんなに可愛かったのに。今日はすごく格好いいとか。日毎に振り幅あるとかずるよ」
「よく分かんないけど、だって彼女には格好よく思ってもらいたいものでしょ彼氏は」
彼女の前でみっともなく慌てふためきたくないという思い一点で、なんとか平静を取り繕っているにすぎない。何でもなさそうに見えてその実、緊張でばくばくだった。
幸いにも自分のことであっぷあっぷなくるみは気づいた様子はなく、頬を火照らせたまま碧のシャツを指で抓んでいじってくる。
「もしかして朝にキスするのって、外国じゃ当たり前の挨拶なの?」
「いや。ただ、くるみがきれいだなぁって思ったから。……してよかったよね?」
さらにぼふっと耳まで炙られたような紅蓮に染め上げたくるみは、必死にこくこくと首を縦に振る。そういう素直でいじらしいところは、この子のいいところのひとつだろうなと思った。
「……今のはただ、驚いただけ、だから。つまり、ただ恥ずかしかったってだけで。昨日眠る前に伝えたかった言葉とかは嘘じゃない……からね」
言葉にするまでもなく、くるみが信頼を寄せてくれていることくらい、知ってる。
ただ、きちんと想いを伝えてくれる行為そのものが、碧にもじわりと熱を滲ませるのだ。
「分かってるよ」
舞い上がる気持ちを気取られないよう小さく笑ってカーテンを開けると、鋭い光の矢がちかちかと目を刺してくる。
眩しそうに目を細めるくるみが、晴天を透かす硝子の反射で見えた。そのままがらりと窓を開けると、清らかな朝の空気といっしょに、どこからか秋の到来を告げる金木犀の香りが迷いこんでくる。
ベランダに寄り道していたすずめが大空に飛び立ち、シマトネリコの葉が朝露を落とすのを見て、ふと言った。
「……あのさ。僕が日本の大学を選んだのは決断を先延ばしにしたいからじゃないんだ」
「え?」
「くるみのことをずっとずっと大事にするつもりだから、その第一歩のため。いつか離れて待たせちゃうかもしれないから、こうやって行動で表明したかった。信じてもらえるように、信頼関係を築くために」
空に走る白い飛行機雲を目でなぞってから、隣にいてくれる少女の肩を、優しくそっと抱き寄せる。
「だからさ。時間はまだまだ残されてるんだよ。その間に、これからもっといっぱいお互いのことを知ってもっといっぱい好きになればいいんじゃないかなって、僕はそう思う」
と、隣を見て。
——その時ほど幸せそうに笑うくるみを、僕は未だ見たことがなかった。
「うん。私も碧くんのことこれからもーっと好きになるし、碧くんのことをもっとメロメロにできるようにたくさんがんばるから、余所見しないでずっと見ていてね」
くすぐったくあどけない笑みが、涼やかにかろやかに響く。
「毎日好きな気持ちがおおきくなって、ときめいて……次の日が待ち遠しいくらいに」
光の角度。風の温度。
見えるものを、聞こえるものを、温度を匂いを確かめる。
いつか遠い日に来た時に、また思い出せるように。ずっと忘れないように。
第4章の前半がここで終わりました。
次回の後半からは予告していた通り文化祭編にはいっていきます!
よろしくお願いします!




