第155話 彼氏の特権(2)
寝る前の身支度を済ませて、くるみを寝室に連れて行く。
合鍵を渡してはいるが、こういうとこの線引きがきっちりしている彼女はプライベートな空間に踏みいる気はなかったようで、見慣れなさそうにそわそわ見渡していた。
そうなるとくるみがここにくるのは今日で三度目だ。
リモコンで天井の灯りを落として、代わりにサイドランプを灯す。
就寝中は真っ暗にする派だけど、寝る前のしばらくの時間はこうして柔らかい光の横で本を読むのが好きだった。
そして、さっきの延長線上でそういう甘い空気——が本当はどういうものか知識のない僕は知らないけれど——にならないように、必死に思考を回転させて笑いかける。
「今日はぬいぐるみ持ってこないの?」
「え? どうして?」
「マールのことだっこして寝てるんでしょ? なんならあのハスキーもいるけど」
「そうだけど! 子供扱いしないの」
ぷくーっと頬がおもちの如くふくらんで、今度は本心で思わず噴き出した。
あの何の気なしにあげた兎をくるみが抱いてる姿はすごく可愛いと思うんだけど、本人は言及されることが恥ずかしいようだ。
けどリビングにあるハスキーのぬいぐるみやクッションも、うちに居る時は大抵ひざに乗せて抱えられている。連れてこなかったのには理由があるかもしれない、と思っていると、彼女が頬を一斤染にして視線を泳がせた。
何かを言いたげにもぞもぞしているので静かに耳を傾けると、目を逸らしたまま言う。
「ハスキーは……碧くんに似てる、から。一緒に寝るのは恥ずかしいんですもの」
「え? 僕が? あれに?」
「空港で見た時も、碧くんに似てるなあって思ってたから……目が離せなくて」
「……。そっか?」
言われてるこちらも猛烈に気恥ずかしくなって、それしか言えなかった。
というかそれ、相当前の話だと思うけどまさか——いや考えるのはやめておこう。
照れさせてきた主犯人も、口を真一文字に結んで目をかっ開きすっかり黙りこくるというガチの照れ方をしているので、余計なことは言わずで正解だったのかもしれない。
「じゃあ……くるみはベッドで寝て。僕はソファで寝るから」
「え、私がソファに——」
「いいよいいよ。僕どこでも寝られるし」
クローゼットから出していた毛布をばさっと掛けて、自分はすぐそばの小さなローソファにごろんと寝転がった。ちょっと狭いが、足を折れば余裕で快眠できそうだ。
彼女もおずおずとそれに倣い、借りてきた猫のように慎重に碧のベッドに横たわる。
碧がくるみの寝た後のベッドや残り香に思うことがあったように、どうやらむこうも同じ心境のようで、そんな些細なことが妙に嬉しくて。
気恥ずかしくなるから、お互いに何となく目をあわさないようにして、けれどすごく穏やかという不思議な沈黙がゆるりと広がる。
まだ姿の見えない眠気が訪れるのを待っていると、スマホが震えた。
見ると、目の前の少女からのへんてこなかたつむりのスタンプを受信したらしい。
視界のピントを向こうに合わせると、くるみは散る前の桜のように儚げに、恥ずかしげに笑っていた。
「なんかちょっと信じられない、ね。こうして一緒に夜を過ごす日がくるなんて」
「寝落ちとキャンプも含めたら三回目だけどね」
「そういうのは数えなくていいのっ」
ぴしゃりと叱ってから、くるみが窓のほうにころんと寝返る。
ランプに照らされて今だけは深い黄金に見える髪が、後引くようにシーツをすべり、隙間から覗く耳がほんのり赤く染まって見えた。
「えっと、マール……」
「え?」
「うさぎさんのぬいぐるみ、連れてこなかったのは、理由があるというか」
「理由?」
くるみは何かを恥じらいながらも、辿々しく、健気に伝えようとしてくれる。
「私が、言いたいのは……もしかしたら彼氏彼女さんって、お泊まり、したとき……一緒に眠る、ものなんじゃないかなって、思って……だから、その」
——僕は、こみあげてくる名前のわからない感情をこらえるのにせいいっぱいだった。
「今日は練習なんでしょ?」
「た、確かにそう言ったけど」
もぞり、とブランケットが丸いみのむしになる。
「好きにしていいのが、彼氏さんの権利でしょう?」
それに、と小さな言葉が続く。
「進学は日本でするって言ってくれたけど、それでも大学卒業したら離れ離れになっちゃうし、どの大学にするかによってはそれすらも危ういことは、知ってるから。だから今のうちに……こういう時間も大事にしたいなって。……思って」
それを聞いて碧は、今日のくるみがいつも以上にがんばりやさんだった理由を、ようやく悟る。
つばめに恋愛指南をして貰って〈ぎゅーの日〉なんていう日を制定したのも、まだ慣れないのに奮闘してくれたのも、それはきっと、碧が世界のどこか遠くへ行く選択を止めなかったからで——
「少しでも長く。一番近くに。一緒にいたいから、私は……」
ぎこちない呟きを、最後まで聞いちゃいけない気がした。
言わせてしまった気がしたからだ。
後ろ姿はやはり緊張からか、細かに震えている。きっと勇気を出して紡いだであろうそれを途中まで聞いて、碧はむくりとソファから起きた。毛布の衣擦れを気にしたように、くるみもはたと話を中断してこちらに直ってから、上体を腕で支えてこちらを見る。
「ありがとう。そう想ってくれて」
それから続ける。
「……けど、焦らなくてもいいんじゃないかな。だって、残ってる時間はまだまだたくさんあるんだからさ」
たとえばそこに砂時計があったとしたら、ひと粒ひと粒が落ちるかすかな音さえ聞こえそうな夜の静寂が、彼らの間にはある。
——だってこのままで居られる貴重な残り時間をどうしたって、ふたりは意識せざるを得ないのだから。
けれどもこの静けさは不思議と、冬の朝のブランケットのような安堵した気持ちにさせてくれる優しい沈黙で。今までもふたりはこうして、駆け引きも裏の読みあいも、淀みさえもない空気のなかで、ただ真っ直ぐに互いの心をふれあわせてきた。
だからきっと今言ったことの意味も、くるみは正しく汲み取ってくれているはずだ。
「確かに一緒に高校に行けるのもあと一年だし、くるみもくるみの人生があるから卒業後にどうなるかもまだ分からない。でも…………」
たとえば。
自分の父と母が尚も別れる事なく続いているのは、夫婦のどちらかだけ移住した人のなかできっとすごく珍しく稀有なことで、もしかしたらそれは信頼の他にいろんな諦めもあったからじゃないか、と思う。
子供の気持ちを一番に優先してくれた結果ではないかと。
それは自分の親たちが見つけた一つの答えであり結末でもあり、かと言って碧が同じ道を辿る理由にはならない。
——僕の考えは、こうだ。
「だからさっき言いかけた事の続きは、また今度改めて聞かせてくれると嬉しい。急がせて言わせるのはまるで言わせたみたいで僕が嫌だし、僕はこの先ずっとくるみを手放すつもりはないから」
互いにまだ完璧には慣れきっていない今の様子じゃ、同じベッドで一緒に眠れるのはまだ先だろう。
けどそれでよかった。
そういう日がいつか来ることを、待ち遠しく思えるのだから。
「これだけは約束しておくよ。……世界中どんなに遠くへ行っても、僕は必ずくるみのところに帰ってくる。くるみのことが大切だから」
ずっと黙って話を聞いていた彼女は、榛の瞳をゆらゆら揺らすと、享受した言葉の核心を刻むようにぎゅっと目を瞑り——最後に花束みたいに目尻を下げた。
「言わせたんじゃなくて、私に言わせてくれたの」
「……震えてたのに」
「揺さぶってくれたから」
「誰かに響くようなことは何もしてないよ」
「たとえば太陽は、自分の光が眩しいことに気づかないと思わない?」
「僕はどっちかというと月じゃないかな。そんなに綺麗なもんでもないけどさ」
「ううん。あなたに憧れて焦がれてここまで来た人が、少なくともここにひとりいるもの」
それから静かにうつむき、まるで宝物にふれるようにそっと碧の手を取る。
重力に従って垂れた前髪で、表情は見えない。見えるのは、赤く染まった耳だけ。
それから彼女は細く嫋やかな指で、掌をなぞり始めた。
一体なんだと困惑していると、伝わってきたのはひらがな一文字。
『ど』——?
いつだったか湊斗のカフェバーでも同じような秘密のやり取りをしたのを思い出す。
言わなくていいと言うなら書く、という理屈だろうか。きっと、さっきさえぎってしまった話の続きに違いない。そして次の文字は『て』? いや違う……『こ』だ。
見当がつかず何か言おうと思ったが、指が止まる気配はないので、手に与えられた感覚に集中するために、ただくすぐったい文字を追う。
そして、得られた答えに、今度はこっちの視界が揺れた。
——『ど』『こ』『ま』『で』『も』
たった五文字。
けれど、それが教えてくれた。
気遣いの果ての嘘偽りでもなく……ただ彼女の意志で、心からそう思ってくれてたことを。残された時間を惜しんだ故でなく、碧のことが好きだから、ただそれだけで。
「碧くん」
先刻とは打ってかわって、いたずらっ子のような印象で嫣然と笑ってこっちを見るくるみは、今の信頼といつかの期待でなみなみ満ちた目をしていた。
「一番聞きたかった言葉が今日貰えたのは、ねがってもないことだわ。でも、そこにはきっと時間も距離も……本当は関わってこなくて。私はね、ただあなたが碧くんだからこそ、一緒にいることを望んでいるのよ」
くすぐったそうに目を細めて、掌を両手で優しく包み込んでくる。
ああそうか、と思った。
——くるみは僕のことが本当に、大好きなんだ。僕の想像以上に、ずっと。
こんなにも自分のことを想ってくれていて、だからきっと今日、お泊まりを承諾してくれたんだ。たとえ〈練習〉でもそうじゃなくても、関係なく。
最小限の日進月歩でも、最大限の愛情で。
「……くるみ」
身を寄せて、白いシーツに腕を乗せる。ぎし、とベッドの軋んだそばから言った。
「本物のお泊まりはまた今度だけどさ。代わりに手をつないで眠ってもいい?」
「え? 手を?」
「ソファの角度こうすれば、練習でも一緒に寝てるみたいになるかなって」
くるみは虚を衝かれたように目をぱちくりさせてから、今日一番うれしそうにくすりと笑った。
「……碧くんて、そういうとこあるよね」
「抱き枕のほうがよかった?」
「ふふっ。できるならぜひどうぞ?」
結局あっちが一枚上手で終わったな、と苦笑しながらソファを動かし、寝転ぶ。
並べたベッドとの隙間には、絡んだ指の結び目。小さな手はもう、震えてはいなかった。
「……ここ、碧くんの好きなものがいっぱいで宝箱みたい」
つられて首を横にすると、ほのかな月明かりが差すところに、白いピアノに机、旅先で買った海外のお土産が並んでいるのが浮かび上がる。
「ここにいるとなんだか、碧くんがどんなふうに生きて今のあなたになったのか、一ミリだけ知れた気がする」
「一ミリだけ?」
「ふふっ。今日のところはね。とりあえず今は……それでいい。でしょう?」
「仰せのとおりで」
その後ふたりはいろんな話をした。
子供時代の思い出話。好きな授業の話。昔好きだった遊び。
碧に妹ができて、どきどきしながら初めて抱っこしたときの話。
くるみが初めて上枝さんにお料理を教わったときのこと。
まるで今の宝物みたいな時間が、夢と一緒にきえてほしくないみたいに。
明かりを落として目を瞑って、ころころと音楽のように調子の上がり下がりする話を聞きながら。自分のことを楽しそうにお喋りするくるみの姿を想い描くだけで、頬が弛む。
この夜が終わるのが、よほど名残惜しかったのだろう。そろそろ寝ようかと碧が尋ねる度に、くるみはお喋りの延長をおねだりした。
あと五分、あと五分だけ——。
何度目かで、やがて話が途切れて、穏やかな寝息がこぼれる。
それを聴きながら僕は……これからどれだけ歳を重ねても、この日の夜のことは決して忘れたくないなって、そう思った。
忙しかったのと、投稿しようとした直前に気に入らない部分が目について、そこを直すのに難儀したので更新遅れてしまいました;
次話はもう出来ているのであまりお待たせせずに載せられるかと思います!
次回『一歩ずつ』。
久々のくるみさん視点で朝を迎えます。よろしくお願いします。




