第154話 彼氏の特権(1)
今回R15寄りのお話です
碧が先にシャワーを浴び、その後交代でくるみがバスルームに行ってから、その間に皿洗いを済ませて一時間足らずくらい。
水音が止んでしばらくしたとおもえば、彼女がほっこり湯気を立てながら出てきた。
ドライヤーは今からなのか、まだ髪はしっとり濡れている。
恋人になる前も、くるみには一度シャワーを貸したことがあるのだが、その時と違うのはきちんと自前の寝巻きを持参してきたことだろう。
「可愛いね、それも」
感想を言うとくるみの表情がふわっと輝き、とろけた。
本音ではあれど、これが見たいがためについ毎回ほめちゃうんだよな、と碧は唸る。
「普段あまりこういうのは着ないからちょっと落ちつかないけど……」
湯上がりで火照った姿で現れたくるみは、恥じらいながらも、むしろ褒めてもらえるのを期待していた風だ。
以前見せてくれたお嬢様なネグリジェや健全なパジャマと違い、今日は子羊のようにもこもこしたルームウェア。ふんわりヘアバンドにソックスと長袖のパーカーとボアショートパンツという実に男心をくすぐる組み合わせだ。
「シマエナガみたいでいいと思うよ?」
「も、もう。またそれ」
正直、こういう格好をする女の子は大抵あざといんじゃないかという見聞の浅さが露呈した方程式が自分のなかにあったのだが、今日をもって『僕の彼女=可愛い』という、些か賢さに欠けるものに上書きされてしまった。
「ほら、ドライヤーしてあげるからおいで、お嬢さん」
「してくれるの?」
「いつも世話焼かれてばかりだから、返せる時に返さないと」
「恋人なんだから、そんなの気にしなくていいのに」
と言ったくるみは口許を隠してはいるが、目は甘く細めて、はにかんでいるのは一目瞭然で、すっかり甘えるつもりらしくそのまま鏡の前のスツールに座る。
さっきのは建前で、本当はただ君を愛でたかっただけだ、という本音は伏せ、碧もプラグをいれてドライヤーに温風を吹かせ始めた。
昔、お兄ちゃんっ子な妹の髪もよく、不在の母親代わりのお世話としてブローしてやった。それを思い出しながら、水気を含んでいつもより重くつややかな亜麻色の絹束をすくい上げ、優しく空気を含ませていく。
それが心地いいのか、熱が丁度いいからか。鏡に映るくるみはまるで親にすっかり預け切る子供ように、金糸のような睫毛を寝かせ、うっとりと目を瞑っていた。
「……おひめさま扱い」
「そりゃ、僕だけのスノーホワイト様ですから」
「ばか」
鈴を鳴らすように甘く、おかしそうに笑みを咲かせながら返される罵りはもはや、本来の言葉の意味を為してはいない。なので碧も何か言い返すこともなく手を動かして。
枝毛という言葉すら縁がないほどの、この絹のように美しい栗毛にふれたことは何度もあれど、こうしていて改めて気づく。丹念なケアに相当な気を遣っている彼女の髪を預かるのは責任重大だな……と。
だが彼女もそこは抜かりなく、バスルームを出てすぐにヘアミルクで保護していたらしく甘い香りが立ち昇るので、とにかく絡ませないように丁重に扱うことに集中した。
やがてドライヤータイムを終えれば、お待ちかねのふれあいタイムがやってくる。
けどふれると言っても哀しき哉。どこまでしていいのか分からないという問題が。そりゃ交際期間二ヶ月にも届かないのに見当違いな真似はしないけど、かといって今までと同じじゃつき合う前からまるで進歩がないし、あっちからもおねだりしてくれたのに期待に沿えないのはあんまりだ。
なんてリビングに棒立ちして考えていると、くるみがおずおずと碧の前に立って——抱きついてきた。
「んん?」
突然のスキンシップに動揺して半歩仰け反ると、恥ずかしさでとろりと潤んだ瞳が、こちらを切なげに見上げてくる。
「ど……土曜日じゃなくても、ぎゅーしていいってあおくん言うから。……だめ?」
「い、いや。大胆だなって思って——待って待ってどこいくの」
余計な一言だった、と後悔したのは、おとがいから額まで真っ赤になっておまけにぽふんと湯気を出したくるみが、いそいそ離れようとしたからだ。
碧はそれを逃すまいと両腕で捕まえる。そのままソファに腰を下ろし、くるみを自分のひざの上に横座りさせれば、気恥ずかしそうにしながらも大人しくなった。
「ここ、指定席でしょ」
「……予約してなかったけどだいじょうぶ?」
「座れる人はひとりしか居ないから、予約は要りません」
そう返すと、くるみがくすりと照れくさそうに笑う。
細い体を支えれば、指にしっとり絡みつくのはトリートメントしたての柔らかな絹糸。
湯上がりの火照って熱くなった肌が、ルームウェア越しにいつもより数度高い体温としめやかな湿気を伝えてきて、さらに甘い空気が鼻をくすぐり、鼓動が早くなる。
普段みだりな肌見せはしないくるみの、めったに見られないきれいな鎖骨やいっそ神聖なまで美しい首筋に、こくりと喉が鳴りそうなのを必死にこらえ、代わりに視界を塞ぐように細い肩に鼻先を埋めた。
「……なんか、いい匂い」
「お風呂上がりに保湿のためにボディクリーム塗ってるからそれかも?」
「へー。女の子ってかんじ」
「碧くんって香りものは持ってないわよね。あまり好きじゃない?」
「なんかそういうの柄じゃないし、自分に振りかけるのはあんまりね。あ、けどくるみの匂いは好き」
「……そしたら、こうするのはどうでしょう」
ぎゅぎゅーっと。くるみが抱きつける腕に力をいれて、さらに駄目押しの頬擦り。
「ほら。これであなたも同じ匂い」
本当この子は、と悶えそうだった。
悪戯っぽく笑って何とも可愛らしいことを言ってみせた恋人に鼓動をばくばくと早めつつ、取り敢えず湯船でのんびりできたおかげか、さっきのぎこちなさは今は見えないので安堵のため息を吐いた。
そしてこっちも、これ以上そんなことを考える余裕はなかった。
身も心もとろけそうな糖度の高い香りに誘われるように、そのまま深く呼吸する。くるみは何もしなくても甘いミルクのような匂いがするが、今日はそこにみずみずしい白桃や茉莉花を織り交ぜたような匂い。街の雑踏のなかでも分かる、くるみだけの香り。
頬だけが熱くて、思考は真っ白で、体は別人のようだった。
「碧くんはこういう格好の私は……すき?」
くるみはそう言ってうっそりと笑う。
誉め言葉以上のものを求めねだる、上目遣い。
品よく清楚なはずなのに、まるでヴェール一枚へだてた下にとてつもないなまめかしさが眠っている気がして、またぐらりと判断が鈍る。
ずるい、と思った。
そんな表情もできるのは、ずるい。耐え忍ぶのはこっちだというのに。
——けど、ぐらついた気持ちを必死に押し隠している僕は、もっとずるいんだろうな。
「くるみならなんだっていいと思うよ」
「よかった。碧くんにはいつでも好きって思ってもらいたいから」
「そっか。その服は着心地もよさそうだね」
もしこれがルールありの勝負かなんかだったら、多分くるみは禁止カードをつかいすぎてとっくに反則負けになっていると思った。
——だから、まさか更なる追い討ちが待っているなんて想定外だったのも、仕方ないことだと僕は思うんです。
「そしたら私の事……さわってみる?」
「なっ」
爆弾発言に、絶句した。
——両想いの恋人同士が、親が不在の家に深夜ふたりきり。大人の階段を登らないほうがッ……そんな言葉がフラッシュバックする。
いくらなんでもまじまじ見るのは失礼だからあまり拝むことはなかったけど、今はくるみは碧の彼女で、碧はくるみの彼氏で、要するに誰もまだ見たことがないところに手を進ませる権利を持っているということで——。
「着心地はもちろんいいけど、さわってみても気持ちいいんだからね? ふわふわのお裾分けです。……碧くん? どうしたの?」
え? この会話のながれできょとんとしちゃう?
「何の口説き文句かと……」
「?」
自覚なしの煽りだった。
何もしない、と事前に宣言した碧の心境を分かったうえで言ってるならとんだ小悪魔だが、初心なくるみがそんな高度な計算や駆け引きが出来るはずもなく、けどそっちのが逆に恐ろしいとさえ碧は思う。天然でこんな誘惑をするなんて、かわす身になればもはや修行だ。
おかげ様で、ずいぶんおかしな表情をしてしまっていたのだろう。
やがてくるみも——自分の発言の危うさに気づいたらしく、沸騰したように一気に真っ赤になった。
「あっ! 碧くん、その……今のは」
くるみはあたふたと弁明を試みようとするも、決して『そんなつもりじゃなかった』とは言おうとしなかった。
つまり裏はなくとも、ふれてほしいという気持ちそのものは本物のはずで。
「……僕の気持ち知ってて言ってるんだよね。それ」
返ってきたのは、辿々しく震えた紡ぎ。
「じ、じぶんで言うのは恥ずかしいけど、わたし……碧くんにさわられるのは、その……好き、だから。それにあなたが私のこと大好きで、すごく大切にしてくれているのは、日頃からすごく伝わっているし。だからその……信じてる」
——僕のなかの悪魔が言う。彼氏なんだから許されるだろう、と。
——そして同時に天使も言う。彼女の信頼を裏切ることはだめだよ、と。
結論、碧がとった行動。
がんばって的外れな説得をしてくるくるみの肩に両手をおいて、そのまま二の腕から下に掌をすべらせる。つまり、苦渋の決断により選ばれたのは、くるみの誘いに従って、ほんのちょっとだけ自分の首輪を弛めることだった。
「っ……」
くるみはわりと肌の感覚が鋭敏らしい。
自分から誘ったくせして、時折びくっと体を揺らしながら、くすぐったそうに目を堅く閉じて耐えていた。その表情がなんとも色っぽくて、縁がないと思っていた嗜虐心を唆られたことに碧自身驚いてしまう。
なんとなく、くるみは碧が押し倒したところで、怖がりながらも言葉どおり承諾してくれるんだろうな、という予感はある。でもそれは彼女を大切にしたい碧が望むところではない。本当の意味で受けいれてくれるまでは、時期尚早。
けど、どうしようもない衝動はいまも鎌首をもたげていて、だから代わりにこうして浅い睦みあいを選択したのだ。
二の腕から脇腹、それから腰へ。ゆっくり、ゆっくり——こういう衝動には抗えない自分のばか正直さを引くほど恨みながら。
「ほんとだ。ふわふわ」
「っ……ふ……ふふっ。待って、碧く——」
もはやくすぐったいらしく、ひざの上で体を捩りながらも、上擦った笑いが洩れている。
本当にただ優しくさわってこれだから、ちゃかすために本気でくすぐりなんかすれば、多分当分は口利いてくれなくなるんだろうなと思う。
掌で丹念にルームウェアをなぞりながら、初めてしっかりふれる体は、本当に細い。
一緒にいる時間は半年以上、エプロンのときなんかも腰紐のせいでわりと強調されるので前々から何となく知ってはいたが——くるみの鎖骨の下から鳩尾にかけて、その果実は見事なものだ。勾配がきつい、と言い替えてもいい。
神様にひいきされて、一等美しく丹精こめて仕上げられたみたいな、言いかえれば、まさしく抜群のスタイル。いかにも少女らしい華奢な胴体にゆたかな起伏を上乗せしているので、言うなら男女の憧れをどちらも詰めこんだ理想の体格だ。
そのくせ徒に細ければいいという訳じゃなく、柔らかさを残しつつもきっちり引き締められていることを、碧は何度か抱き締めたことで知っている。もちろん、ただ生きているだけでこうはならないことも分かる。
何よりたゆまぬ努力と、それに裏打ちされた自信が醸し出す色香が、どうしようもなく心を惹き寄せてくるのだ。
ひととおり愛でた手を離すと、嫌がらず身をよじるだけに留めていたくるみが頬を上気させながら、はぅ、とつややかな吐息を落とした。
もうこれが限界だった。
「……あのさ。僕はくるみさんのこと大切にしたいんだ」
頼まれていた呼び捨てじゃなく、あえての今までどおりの呼び名で。
「だから前、くるみさんが女の子として見てほしいって言ったのと同じで、僕のことも男としてみてほしいんだよ」
多分こうして分かってもらったほうが早いだろう。
湯上がりのせいか、心做しかいつもより体温の高いくるみの手を掴んで、自分の体の真ん中から左にかけての辺りに押し当てた。
「ほら、わかるでしょ」
その手を挟んでも尚、平常時よりかなり速くて大きい拍動が、どくどくと自分の掌を打ってくる。
それでもくるみは驚いたように瞬きをするだけ。焦れったくなった碧は、ぐいっと手首を後方へと引っぱり、抱き寄せた。
もちろんくるみは腕の中に飛びこんでくるかたちに。
自分でも分かるのだから、心臓のところに耳をぴったりくっつけた彼女にははっきり伝わっているのだろう。
「……速い」
腕のなかのくるみは鼓動の速度にはじめ目を見開いていたが、やがて心音に聴きいり委ねるように、愛おしむように瞳を細めた。
このあえかな表情がまた、可愛くて琴線にふれて——
「……!」
ゆっくり彼我の距離を詰めそっと鼻先にキスをすると、とたんにくるみが身構えたように目をぎゅっと瞑った。
びくびくしているあたり、やはりまだキスには慣れていないらしい。だが何をされたか分かると委ねるように体の力を抜き、とろみを帯びて潤んだ瞳で見上げてくる。
その目が今度は甘い雫を落とさんとばかりに僅かに細まる。と思いきや、くるみはぎこちない動作で頬に近づき、ふに、と柔らかい感覚を残してすぐに離れた。
「……男の子として見てなきゃ、こういうことはしないもん」
甘えんぼな語尾も、訴えかけるようなふやけた声も、羞恥と信頼と恋情を綯い交ぜにした眼差しも。すべてが愛おしくて、碧も同じことをし返していく。
しばらく互いの頬に初々しいキスをしあうと、次第にくるみの瞳はとろけていく。
普段はこっちのリードにあっぷあっぷに溺れがちな彼女は、今も真っ赤だし逃げ出しそうにもなってもいるけど、そんな自分を必死につなぎ留めるようにまっすぐこっちを見て、たくさん愛情表現してくれている。
少しずつ恋人らしい空気には慣れてくれたのか、あるいはそれ以上に……。
心情を推し量ることができずに、碧は降参することに決めた。
「……明日も学校あるし、そろそろ寝よっか」
なんだかんだくるみもがんばりが限界だったらしく、やけに素直にこくこく頷いた。
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