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第153話 お泊まりの練習(3)

 上枝のおいしい料理をすっかり平らげて、いつものようにリビングで一緒に映画を一本観終えてから、碧は着替えを持って立ち上がった。


「じゃあ僕はさきにシャワー行ってくるよ。すぐ戻るけど、くるみはゆっくりしてて」


 ちなみに今回碧が先を名乗り出たのは、くるみの浸かった残り湯に逆上せて、同じ轍を踏まないためである。人間とは学習する生き物だ。


 が、くるみから返事はない。かといってエンドロールを見ているわけでもなく、佳麗な眉は八の字になり、またもや上の空で考え事をしているようだ。


「……どうかした?」


 覗きこむとようやく我に返り、隣にいる碧に三秒遅れでびっくりしていた。


「大丈夫?」


「あ、うん大丈夫! だって今考えてたのは来月のお——」


 それからくるみは急に、言葉をぶつ切りにして言葉をつぐんだ。


「……何でもない」


「あるよね?」


「ない!」


「あ……うん。そう?」


 何か言いかけて止めてたのは誰が見ても明白だと思うのだが、くるみは聞かせるつもりも続きを話すつもりもなさそうだったので、追求はやめて素直に頷いた。


 本当は困り事があるなら相談してほしいのだが、もしかしたら彼氏だと却って言いづらいこともあるだろうから。何でもかんでも根掘り葉掘りするのは、野暮というか、デリカシーに欠ける。


「それはそうとして、何か困ったこととかあったら言ってね。……僕も女の子がうちで寝るの、慣れてないからさ」


 それをどう捉えたのか、くるみがさっと頬を紅潮させ、そのリアクションがまたこっちを照れさせる。


 かと思いきや、か細い唸りのあとに彼女はぽつりと心情を述べた。


「き、きょうは……練習だから。本当のお泊まりじゃ、ないから。大丈夫だいじょうぶ」


 後半は自分に言い聞かせるように、辿々しくも言い切ったくるみが、あなたもそうでしょう? と同意を求めるように上目遣いで見詰めてくる。


「……」


「…………」


「………………」


 それがあんまり可愛かったからついまじまじと眺めていたのが、よくなかったらしい。


 じわじわと熱を侍らせた彼女は、やがて逃げるようにハスキーを抱き締めてソファにぼふんと撃沈した。


「なんでそんな見てくるのっ」


「嫌?」


 ばか、とくるみは小さく罵った。


「……私が碧くんに見つめられるとわーってなることとか、そんな目で言われて断れないこととか、ぜんぶぜんぶ知ってるくせに」


「うん知ってる。ただ、今日も可愛いなって思って見てた」


 そう褒めるとくるみはぴくっと髪を揺らしてから「か、かわいい」と呟いて再びハスキーで頬の赤みを隠すも、三角の耳の間から、今度は惜しそうな目でこっちを見上げた。


「……碧くんも、いつもいつも可愛いからね?」


「カワイイ? 格好いいじゃなくて?」


「そういうところが、かわいいひとなの」


「??」


 こっちが釈然としない目をしたせいだろう。


 調子を取り戻した彼女が、まるで森の妖精が唄うようにふんわり言う。


「知らないの? 女の子の言う可愛いは最上級の褒め言葉なのよ。つまり碧くんは、すごーくかっこいいってことなの」


「かわいいが格好いい……??」


 混乱していると、くるみが今度は甘くまろやかな笑みを深くする。


「うん、格好いいの。あなたは私にとって、世界一格好いいひと。とても素敵で、ほんとうに私には勿体ないくらい」


「……いや、そんな訳。くるみこそこんなに可愛くてよく言うなあ」


 本気でそう思ってることが分かる信頼百%の彼女の瞳に一瞬言葉を失ってから、照れくささで頬が熱くなる感覚を覚えながらも、なんとかそれだけを返した。


 だってそれはどう考えても、こっちの台詞だから。


 見た目にも可憐なのはもちろん言うまでもないけど、中身はそれ以上に可愛く、賢く器量よく努力家で、温厚で折り目正しくて心根が甘く優しい少女。しかも一途で、余所見せず、碧だけをずっと見てくれている大きな愛情まである。


 それが碧の世界一可愛い彼女、くるみという女の子だ。


 確かに世間知らずで甘え下手で杓子定規なところはあるけど、そこすら碧にとっては彼女の魅力ある一面でしかなく、自分が彼女とつき合えたことがとんでもない奇跡だと未だに思うくらいだし、今も正直時々夢じゃないかと思うくらいで。


 細い体を掌で押して起こしてやりつつ、うにうにと白い頬を伸ばして弄りながらおちゃらけると、熱を帯びたヘーゼルがくすぐったそうに細まった。


「碧くんってひょっとしてもしかしたら、私のこと」


 いたずらっぽく、うかがうように上目遣いが傾く。


「……大好き?」


「もしかしなくても、空から槍が降ってきても」


「ふふっ」


 自分の正直な答えと相手の喜ぶ答えが一致していることが、くるみのとろけた表情で分かって、それがまた心に幸福をもたらしてくるということが嬉しくて。


 人間が誰かを好きになることがただでさえすごい事なのに、その相手が自分を好いてくれる確率だなんて、砂漠に落とした指輪を見つけるよりも難しい事なんじゃないかって思ってしまう。でも今その天文学的な数字があるからこそ、ふたりはここにいる。


 ちゃんとここにいて——恋人としての特権を、それぞれ持っている。


「……あのさ」


「?」


 居住まいをただして名前を呼べば、少女はこてりと首を傾げて、揺れた栗毛がこっちの頬をくすぐる。


 碧は耳を火照らせて、迷いながらも、なんとか言葉を紡いだ。


「シャワーを済ませた後……くっついていい時間とか、ある? これまでの続きがしたいというか、ほんの少しだけ、くるみにさわりたい。……いい?」


 もちろんくるみの意思を一番に尊重する。


 上枝の信頼を裏切ったりも、約束を破ったりもしない。


 けれど誕生日以来、何度か彼女の頬に与えたキスのあの柔らかな感覚が忘れられなくて、それどころか時間が過ぎるごとにますます恋しくなってしまうから、今日もくるみを味わうことで気持ちを充足させたかった。


 まだ本物のキスですらまだなのだから、この間の延長線上……その一歩だけ先に値するスキンシップであれば、きっと大丈夫のうちにはいるだろう。


 すると提案されたお嬢さんのほうはというと、頬を季節外れの桜の花びらみたくさっと染めて、はにかむように瞳を伏せたのちに——こくり、と小さく頷いたのだった。


「……わ、私も。碧くんにもっと、さわってほしい……し。それに今より緊張しないように、がんばりたいもの」


 どうやら彼女も同じことを考えていたらしい。


「ともかく……待っててあげるから。碧くんはせいぜいバスルームの鏡と睨めっこでもしておいで」


「……じゃあ行ってきます」


「ちなみにお風呂の時間はどれくらい?」


「あんまり長湯はしないから三十分くらいかな」


「三十分……うん、分かった」


 何かを思案する風に頷くくるみを見て、リビングを留守にしている間にまた眠られては困るな、と思いはしたが、言葉にはしなかった。


                *


 ゔゔっとスマホが連綿と震えたのは、そのまま脱衣所に行ったタイミングだった。


 電話マークと共に画面に表示されているのは、事もあろうに母の名前。


「はい。母さん?」


『あっもしもし碧…………なんでにやにやしてんの?』


「え? してないけど?」


 この後に待ってることへの期待とさっきの褒めちぎりの残滓を、腕をつねることでキャンセルしておく。幸い母はそこを追求するつもりはないらしく『ちょっとLINE見たわよ』と本題を切り出してきた。


『海外留学やめるって……お母さんびっくりしたのよ。なにかあったの?』


「あー……そのこと。別にやめるって訳じゃないんだけどさ」


 母にはオーストラリアから戻ってしばらくして自分の決断を文字に(したた)めて送ったのだが、むこうも忙しいので連絡が今日まで押されたようだ。


 けどよりによってくるみがいる時にか、と思う。


「それ今じゃなきゃ駄目……だよね」


『大事な話でしょ? お母さんは忙しいから、次話せるのいつになるか分からないわよ?』


 確かにバックグラウンドから誰かの議論のような音を拾ってしまったので、二十二時過ぎだが、まだ会社なのだろう。


 先に親の了承をとる必要があったのと、そもそもなぜ碧が外国語を覚えようとするのかもまだ知らないはずだし、進路(このこと)はくるみにはまだ話せていない。


 大事な話になるからきちんと、時期を見て伝えたかった。


 なので会話がリビングに洩れ聞こえたりして中途半端にキャッチされても困るのだが、母は今逃してくれるつもりはなさそうだ。


 小さくため息をついて、それから真剣に答えを返した。


「日本の大学に進学したい」


 スピーカーから返ってくる沈黙が果たしていいものか悪いものか判断し兼ねながらも、碧ははっきり続きを紡ぐ。


「都内の……教院大学に行きたいと思ってる」


 それは二十三区にある、語学にも秀でた名門大学の名だった。


 自分なりにいろいろ調べて考えたのだ。今オーストラリアに行かないなら、時間にもお金にも勉強にも余裕ができる。もっと多くの外国語を学ぶのに注力するならここの国際学部が一番いい。学力をみてもこのままの成績でいればなんとか手が届くというところからも、今考えうる限りの一番いい選択だと思う。


「父さんの言うとおりだと思う。海外に行く前に、ちゃんと日本を知っておきたい。だから学費はバイトして、なんとか自分で出します。けど留学も止めない。……オーストラリアに行くのは大学卒業後からの予定だから、そのぶんも貯金します」


『あらあらまあまあ』


「……反対するなら、説得できるものいろいろ持ってきます」


『まさかー。よくやったわっていう賞賛の電話よ、これ』


「え、なんで」


 思わず拍子抜けしてしまったのだが、しかし母は気遣いでも、ましてや冗談で言ったでわけでもないらしい。


 その証左に、いつになく落ち着き払ったトーンで言った。


『人生で一本先の道しか見えてなかった碧に、いろんなルートが見えるようになったことがお母さんすごく嬉しいのよ。息子が自分で決めた事なんですもの、後悔のないように選んでくれさえすれば、私はどんなことでも応援するわ』


 返す言葉が見つからないでいると、母はにっこりと言う。


『あと、学費は私たちに出させなさい。何があってもいいように、というかこういう時のためにふたりでばっちり貯めてきてるんだから』


「それは……ありがとうございます」


 息子の選択を信じてくれる親の愛情にじんとしながら、畏まったお礼をすると、母はうふふと笑う。


『あなたは一度決めたことは必ず最後までやり遂げる男でしょ? その様子だと卒業後のことは心配ないみたいだし。何より……くるみちゃんと少しでも長く居れるようになってよかったじゃない』


「んんっ。まあ……それはおいおい?」


『あらあら。何かあったのかしら?』


 母はくるみをいたく気にいっている。自分の娘にしたいと宣うほどだ。


 その夢が現時点の判断で僅かだけど叶いましたよなんて言えば、終電のことを考えず残業放り出してここまでやってきそうなので、咳払いでごまかした。


「今度会った時に言うよ」


『その様子だといいニュースみたいね? うふふふふ、じゃあおやすみ」


「おやすみ——あ、ごめん待って! ひとつ聞いてもいい?」


 通話が切れてしまう前に、ぎりぎりすべりこみで問いかけた。


『ん? 私に答えられることならどーぞ?』


「えっと……これはたとえばの話だけど、さ」


 と、念の為保険をかけてから、くるみの妙なぎこちなさを思い出しながら言う。


「もしかしたら困ってるのかなって思える相手が、けど何も話そうとしないとして、母さんならどうする?」


 本当に困ってる訳じゃないなら、それでいい。碧としても何にでも首を突っ込んで関わりたい訳じゃない。彼女には彼女の領分がある。


 けど見守るにしても、やりかたや心構えみたいなものは踏み外したくないのだ。なにしろ、一番大事なひとが相手なのだから。


 自分の選択が正しいか、念の為にその答え合わせがしたかった。


 含みのあるのは明白な質問に、しかし母は深く事情を聞くことはなく、回答をくれる。


『うーん。そうねえ、本人の意志を蔑ろにしてまで余計なお世話しようとするなら、それはもうただの自分勝手なのはあなたも分かってるでしょうし。出来るとしたら、何かあった時に相談してもらえるように、日頃の信頼を積み重ねておく事くらいじゃない?』


「だよなぁ」


『なんだ、答えはもう出てるんじゃない』


「長幼の序で念の為、熟年者の意見を聞いただけだよ」


 ふぅん? と訝るような相槌が聞こえる。


『分かりきってることをわざわざ尋ねる……なるほど』


「何だよ」


『まあ何となく相手が誰だかは分かるけれどね? 碧もだんだん似てきたわねぇ……そういうさりげない気遣いやさんなところ、若い頃のお父さんにそっくり』


「……どうでしょうね。じゃあ今度こそおやすみ」


『はいはい。おやすみなさい』


 妙に鋭い母親に、目を坐らせながら通話を切った。


 それでも、進学については自分の意思を最大限に尊重してくれてる。そのことがなによりありがたかった。


 いい両親に恵まれてるんだよな、と家族愛にじんわり沁みつつ、Tシャツの裾に手をかければ、ふとバスケットのなかのタオルを切らしていることに気がつく。


 そうだ、コインランドリーに持って行ったバッグのなかだった。

 脱ぐ前でよかった、というかくるみじゃなく自分が先でよかった……と安堵しつつ、とりあえずリビングに取りに戻ることに。


 ——がちゃり。


「わっ!」


 扉を開くと同時に、くるみが小さく叫んだ。


 ソファに座っていた彼女が、びくっと肩を跳ねさせて、手に持っていた何かを慌ててトートのなかに突っ込んだのを、しかし碧は見逃さない。


 何だろう? と目を細めているとくるみがぎこちなく首を回す。


「え……碧くんもう上がったの? は、早いわね」


「僕はギネス記録自保持者か。タオルないから戻っただけだよ」


 ぎこちなく慌てた様子を不思議に思いながらも、くるみの横をすり抜けるついでに頭をぽんぽんとして、同時にテーブルの上に転がっていたものが、ふと目にはいった。


 おそらく仕舞いそびれたのだろう。


「これ定規? と……毛糸?」


「あっ。だめっ」


 碧が手に持ったそれをしゅばっと光速で奪いつつ、ばつが悪そうに視線を反復横跳びさせているのはやはり、碧には言いたくないことだからか。高速の身振り手振りを交えながら、ぎくしゃくとした口調で説明する。


「……こ、これはその……。ちょっとした頼まれごとというか!」


「なんでそんなに慌ててるの?」


「え? 慌ててない! うん……そう、慌ててない。落ちついてる!」


 と言いつつ、若干むきになったように可憐な面差しがぐいっと迫る。


 よく分からないがとりあえず、何とかごまかそう、という気概だけは伝わってきた。


 くるみは、内緒話や隠し事ができない人間だ。その行為自体が後ろめたいらしく、しようとしても大抵はこうやってぼろが出る。そのうえ悪事もできないので、隠すとすれば十中八九、不都合があるからとかではないはずだ。


 正直気にならないと言えば嘘になる。けど母も言ったとおり、促しても自白しないものをむりに暴こうとすのは親切ではなくただの自分勝手で。


 もし出来るとしたら、話しやすい相手であること。


 だから、今言うべきはこうだろう。


「僕も少しは手伝えることあると思うからさ、何かあったら頼ってほしい」


 伝えると、くるみは大粒の瞳をぱちくりさせてから……幸せそうにへにゃりと笑った。


「ううん。これは私がしたくてしている事だから」


「そっか」


「……ほら! 寒いんだし温かいお湯に浸かってリラックスしなきゃ。ね?」


 結局、何かをはぐらかすように背中を押して脱衣所に連行された碧は、首を傾げながら、ぱたむと閉じられた扉をしばらく見詰めていた。


ばればれです。

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