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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第1章 帰国子女とスノーホワイト
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第14話 少女の織りなす言葉は(3)


「……あ、そうだ。今すぐくるみさんに返せるお礼があるんだ」


「お礼? どうして?」


「今日のお弁当のお礼。さすがにただで貰うってわけにもいかないし」


「私がしたくてしていることだから別にいいのに。それに写真だって見せてもらったし」


「じゃあ今から渡すのも僕があげたくてあげるものだから、受け取るのが華だと思っておいてくださいよ」


 手を出して、と碧がいうと、くるみは不思議そうにしながらも言われたとおりにする。


 碧は財布からとあるものを取り出し、くるみの手にぽんと置く。

 それは、掌にちょこんと乗る大きさの白い巾着だった。


「これなに……?」


「開けてごらん」


 くるみが巾着を逆さまにすると、小さなそれからころんと転がり出たのは、一枚の硬貨。しかし、デザインは日本のものじゃない。洒落た英字と共に、ハートと王冠の紋章が刻まれている。


「外国の……コイン?」


「クローネ硬貨っていうお金です」


 くるみはぱちりと目を瞬かせながら、手の中のそれを透明感のあるヘーゼルの瞳に映して、じいっと眺めた。その表情からは驚きは読み取れつつも、喜びは垣間見えない。


「欧州だと誕生年と同じコインをお守りにすると幸運が訪れるって風習があるから、それはくるみさんにあげます」


 ドイツに住んでいた頃、夏休みに隣国であるデンマークに旅行に行った時に手に入れたものである。早生まれでない限り、くるみは碧と誕生年が同じはずだ。


 しかし、くるみは喜ぶでも嬉しがるでもなく、ただ手の中のコインを見つめ続けるだけ。もしかしたらあんまり嬉しくなかったかな、なんて思っていると、くるみが唐突に、ふ、と涼やかな声を零す。


「……可愛い」


 それから見る見るうちに。それはもう可愛らしい小さな白百合が咲き誇るように、ふわりと清純で柔らかな笑みを綻ばせた。


「まるで、おもちゃ……ううん、童話に出てくる不思議の国のお金みたい」


 零れたのは、花の蜜のように涼やかながら甘い声。ぱっちりとした二重の大きな瞳をふにゃと愛おしげに細め、手の中のそれを見つめる。


「っ——」


 目が離せなかった。


 普段の凛とした空気とかけ離れたその様相に脈がどきりと思い切り跳ね、心がぎゅうっと掴まれたような気さえした。頬すら、いつもより熱を孕んでいる気がする。


 自分が照れているのと気づいたのは、思わず彼女に伸ばしかけたゆびさきまでもが、手の甲越しに見る彼女の真っ白な頬と比べて明らかに朱を帯びていたのを見たからだ。


 くるみはそんな碧に気づいた様子もなく、そっと言葉を奏でる。


「幸せが舞い込むのは、いろんな人の手を渡って自由に旅してきたからなのかもしれないわね。このコインは私と同い年だけれど、私よりもずっといろんなことを知っている。……私も、このコインにあやかれたらいいのにね」


 今自分はくるみに手を伸ばして何をしようとしたのか、とかどうして照れてしまっているのか、なんて些細なことがどうでもよくなるくらいに。目の前の少女が丁寧に織りなす言葉は、考え方は、眼差しは……ただひたすらに綺麗だった。


 そこで唐突に気づく。今の碧はもうコインを見てもただのお金にしか見えないし、鯛焼きもただのおやつとしか思えないが、彼女はそうじゃないのだ。


 碧が特筆すべきこともない日常と思い込んでいるものさえ、くるみからしたらまっさらで真新しくて……彼女史上初の記念すべきものかも知れないのだ。


 透き通ったヘーゼルの瞳を見て、思う。



 ——くるみの瞳には、この世界がどれほど綺麗に映っているのだろうか。



 ずっと見ていたいと思ってしまった。


 新しい世界をどんどん知っていく瞳の色を。彼女の選ぶ、丁寧で繊細な言葉を。


 どこまでも真っ白で透明なくるみの一挙手一投足を。

 


 碧がこの気持ちをどうしていいか迷って持て余していると、くるみがようやくこちらを見た。


「こんな大切そうなもの、ほんとうに私が持っててもいいの?」


「別にそんな貴重なものでもないし……好きにしてください」


 上目遣いで尋ねる彼女に動揺しながらも碧が頷くと、くるみはきらきらのビー玉を眺める子供のようなあどけない面持ちでコインを眺めてから、雪の結晶がとけるようにふわっと微笑んだ。


 ——信じ難いが、どうやら僕は彼女の“はじめて”の表情を見るのが、好きらしい。


 妙な可愛らしさに目を奪われつつも、碧はごほんと咳払いをして平静を努める。


「き……気に入ってもらえてよかった。日本円だと四十円くらいの価値しかないけど。もしいらなかったら換金でもして」


「そんなことしないっ! ……ちゃんと大切にするもの」


 むっと眉を寄せながらそう言い返すや否や、再び手の中のコインを愛おしげに見つめ、ぽわぽわと幻視の花を飛ばすくるみ。その様相がまた可愛らしく、碧は息が苦しくなる。


「どうしたの?」


「……なんでもないです」


 ぼーっと見つめていると、その視線に気づいたらしいくるみが不思議そうにこてんと首をかしげる。そのちょっとした仕草ですらあまりに可愛すぎて、碧はどうにも堪えきれずに視線を背けた。


「……よくはしゃぎますね、今日のくるみさんは」


 なんとか絞り出された一言に、くるみは碧の言葉を理解する様を体現するように、ゆっくりゆっくりと頬を紅潮させていく。それから碧の視線から逃れるように、気まずそうにぷいと明後日の方を向いた。どうやら無自覚だったらしい。


 淡く輝く髪から覗く耳までもがほのかに色づいているあたり、彼女の恥じらい具合はなかなかのものだったようだ。


 とはいえ、それで彼女をからかおうなんて気は一切起きなかった。


 ついこの間、歩道橋の上で空虚な表情だけを浮かべていたくるみが、今は純真無垢な笑みを湛えているのは、まぎれもなくいいことなのだから。


「……見なかったことにして」


 なんてくるみが言うので、ちょっとだけ苦笑するに留めておいた。


「それは無茶というか……いいんじゃないですか別に、たまに童心に返るくらい。くるみさん、ほんとうに高校生なのかってくらいいつも大人びていているから。前に言ったとおり、今のくるみさんの方が可愛げがあると思いますから」


「いつもは可愛げがない、と?」


「人前にいる時のくるみさんは、あるいは」


 くるみはまだ照れの足跡が残る頬を引き締め、わざとらしく不機嫌そうに榛色の瞳を眇める。


「別に可愛げなんかなくてもいい。あなたは私の隙のある一面を見かけたとたん、鬼の首取ったかのように学校中に広めようとする悪い子じゃないみたいだし」


「それって僕の前だと隙を見せてもいいということ、と捉えてもよろしいので?」


「本当、希望的観測が得意なのね、あなた。解釈はお好きなように」


 何がおかしいのか、くるみは呆れたようにしつつもささやかに笑った。それから自らの照れの残滓をなんとか(なだ)めすかしたらしく、巾着に大切そうにコインをしまい、おずおずと碧に声をかけた。


「あの……碧くん」


 碧が彼女の瞳を見ると、そこに灯る光にはただの好奇心だけでなく、どこか差し迫ったような温度が見えた。その理由を探る間もなく、そのまま澄み渡った純真な瞳をこちらに向ける。


「訊いてもいい?」


「僕が答えられることであれば」


 一瞬瞑目するそぶりを見せてから、くるみはまっすぐに問いかけてきた。


「あなたからみた世界って、どれくらい広いの?」


 突拍子のない質問だったが、その意図を訊き返すのも野暮だと思い、今までの人生で見てきた光景を思い浮かべながらそのまま答えた。


「広いですよ。言葉じゃ言い表せれないくらい、たとえようもないくらい、すごく」


 飛行機に乗ってさくっと国境をこえただけでも、時計は異なる時を刻み、月には違う模様を見出す。


 たった九年ほど外国で暮らしたくらいで偉そうにと思われそうだし、そんなんで世界を知った気になっているのかと笑う人がいるかもしれない。が、今の言葉は掛け値なしに、碧の思っていることそのものだった。


 くるみは碧の拙い答えで満足したのか、羨むような眼差しをこちらに向ける。


 それから、ほんの少しだけ切羽詰まった響きで、縋るように碧に語りかけた。



「——もし。もし私が、外の世界を……」



 しかし、言葉は途切れる。

 何かが、くるみに言葉を紡ぐのをためらわせている。


 それから数秒の瞑目の後に、彼女は短くかぶりを振った。


「ううん、なんでもない。私もお昼食べなきゃだし、そろそろ戻るわね」


「わかった。じゃあまた」


「……うん。またね」


 長い亜麻色の絹糸をふあっとなびかせて美術室を去っていくくるみ。


 さっきまで雪降る夜のように温かな時と静けさに包まれていた美術室は、いつの間にかよくある昼休みの、ただのありふれた空き教室になっていた。


 遠くから押し寄せるいつもどおりに正しい喧騒を聞いていると、まるでたった今までの十分間はここから切り離された別世界にいて、魔法が解けて現実に呼び戻されたような心地さえする。時計の針の進みさえも遅くなる不思議な時間。


 ただ、さっきまでの時間が幻なんかじゃないことは、手の中の差し入れだけが証明してくれていた。


「外の世界はどれほど広い、か」



 ——それからくるみは、毎日のように弁当を届けに来るようになった。


 校舎の外れにある美術室で自分は差し入れを受け取り、外国でのエピソードとかを雑談して、くるみは関心ありげに耳を傾け、昼休みが終わる。


 いわゆる秘密の関係というやつだが、それ以上でも以下にもならないのは碧にためらいがあったからだ。


 ——もうちょっとだけ、時間がほしい。


 真っ白で純真で透明なくるみと向き合うための、覚悟を決める時間を。


 人に何かを教えてやれるほど、まだ自分は偉くも賢くもない。志だって道半ばだ。未熟さは自分が一番よく知っている。


 だから彼女の言わんとしていたことに、たとえ自分との誓いに従わずにいても……今だけは気づかないふりをしていたかった。


前話が長かったので区切りました。

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