第135話 恋人だけが知る言葉(1)
くるみと、恋人同士となった。
なんて一言で今の気持ちを言い表すことはできないくらい、いろんな感情が溢れて仕方なかった。言いかえれば、浮かれて舞い上がって、けれど羽目は外さないようにと抑えて。まるで幸せな気分の淡い上澄みを低空飛行しているような。
ここに至るまで、本当に紆余曲折あった。
けどずいぶん足踏みとか遠回りとかしているように見えて、その実今のこれがふたりの最短距離だったんじゃないかとも思う。
あっちはどうだか知らないが、碧の方は少なくとも年始の辺りから好意があることは自覚していて、それに恋と名づけたのは春休みだから、どこからカウントするかは不明瞭だけど、とにかく最低でも半年以上片想いをしていたことになる。
しかも相手は学校一人気と言っても過言ではないの高嶺の花。進路もそうだが、なかなか告白に踏み切れなかったのは、それが理由だったところもあった。
もちろん妖精姫と呼ばれる姿もひっくるめてくるみの全てを好きになったのでこれはもしもの話だが、くるみが美しい花じゃなくて蝶々とかてんとう虫だったら、きっともっと早く結ばれていたと思う。
それでも現実、くるみは完璧で万能な女子高生、碧は唯の浮いた男子高生な訳で。それを踏まえて、もしくるみが雪の日にお見合いから逃げず、東京に戻って来なかったなら、もしくるみが先にアプローチしてくれなかったなら、もし碧がくるみをほしいと思う気持ちが人生設計を上回らなかったら。
なにかを違えて、ここまで積み上がってきたピース——そのどれかひとつでも欠けていたら、今年の九月六日に結ばれることもなかったかもしれない。今までの二人の関わりは全て必要なもので、やっぱりそう考えると、これが最短距離を駆け進んできた結果なのだろう。
なんにせよ、正直叶うと思っていなかったそれが晴れて成就したのだから、喜びもひとしおというものだ。
〈僕も帰国しました〉〈今から少しだけ会える?〉
夏休みの最終日——そう送ったメッセージには、すぐに返信があった。
碧はTシャツにチノパンのラフな格好で、財布とスマホだけ持って、昨日の深夜に帰ってきたばかりのマンションを、ゆっくりと靴紐を結び直してから出た。
この間のキャンベラの雪と寒さが嘘だったかのように、さんさんと夏の陽光が降り注ぐ九月の歩道をマイペースに、それでも羽が生えたような足取りで歩く。
オーストラリアの大地で出逢ったのは、告白をした九月六日のあの夜だけ。
くるみを彼女の宿泊するホテルのエントランスに送って以降は会うことはなく、それぞれ別の日程で、こうして日本に帰国してきた。
だからこれが、関係に確固たる名前が与えられてから初めての逢瀬だ。
帰国早々、会いたい気持ちのままに連絡をしてしまったが、どう接すればいいかはよく分かっていない。今までどおりでいいのか、あるいは……
——僕のほうから恋人らしく、リードしなきゃならないとか。
なんて、結論が出るよりも先に。
川沿いにまだ紅葉する前の銀杏の木が立ち並ぶ、小さな橋の袂に差し掛かった辺りで。
まるでここからが秋の始まりだと告げるみたいに、視界にふわりと栗毛がなびいた。
飛行機雲がまっすぐ引かれた青空とのコントラストが美しい風のむこうに、碧は最愛の少女を見出す。
ゆっくり歩み寄った橋の真ん中で、ふたりは再会した。
「……おかえりなさい」
澄んだ銀鈴を転がしたような、玲々たるも甘くクリアな声。
先に、嬉しそうに、しかしどこか辿々しく挨拶をしてくれたのは、くるみだった。
「ただいま」
碧もそれに短く返す。
いつもどおりのトーンを努めたおかげか、くるみも僅かに表情が和らいだ。
「えっと碧くん、どこかに行く?」
「お昼だし、折角だしどこか行こうか。何たべたい?」
「じゃあ……冷やし中華がいい」
互いに何となく、ぎこちない。交際がスタートするまえはもっと距離が近かったはずなのに、なぜそれを実現できていたかが思い出せないのだ。
——そうだ。すっかり忘れていたけど、僕たちは互いにわりとシャイだよな。それがどうしてあんなに友達の距離を通り越せていたんだろう……?
と、今になって初めて自分たちがすでに恋人らしいことをしていたということに、意識がいったのだった。
くるみは女子校育ちで、恋愛は疎かそもそも男慣れしておらず、碧も碧で女子に関心を示さずに夢を追うことに全力を注いできた。友達としてなら男女問わず仲よくなれても、誰かを恋愛対象として見ることにはからっきしで。
そう考えると、おくてな二人が揃ってこうして想いを重ねたのが不思議なくらいだが、お互い初めてなことだらけなら、かえって足並みを揃えて進みやすいのかもしれない。
「……手」
ほら、たとえばこういうのだって。
「つないでもいい?」
「……はい。喜んで」
はにかみ気味な許可を貰えば、碧は隣の少女の掌に早速ふれ、するりと指を絡ませる。
今まではエスコートのためだったから、つなぐというよりは手を引く——あるいは掴むというかんじだった。こうやって互いの指を一本ずつ絡ませる、いわゆる恋人つなぎをするのは初めてだ。
慣れないふれ方をしたせいか、自分よりふたまわりほど小さい彼女の手が一瞬だけびくっと強ばるも、すぐに碧を受けいれるように柔らかさを取り戻し、きゅっとくるみからも確かに握り返される。
それがまたしおらしくて可愛くて。
しばらく包み込んだ手の細さや柔らかさを味わっていると、くるみが肩の力が抜けたような、ふやけたトーンで言った。
「……本物の碧くんだ。ほんとうに、本物のあおくん」
「なに、偽物だと思ってたの?」
「だってつきあえるって思ってなかったから。嬉しくて幸せで……本当かなって信じられなくて」
「なら信じられるまで何回でも言おうか? あの日の告白。愛してるって」
「——っ!!」
突然立ち止まった彼女につないだ手をぐいっと引かれて、碧は前につんのめった。
怪訝に振り返れば、真っ赤な頬と淡い色彩の髪のコントラストがはっきりしたくるみが、視界で慌てたように叫く。
「すっ、すぐまた外国暮らし発揮する。ばかっ」
「要らなかった?」
「そうじゃなくて何回も言われたらその、私がしんじゃうから!」
「おおげさだなぁ」
「……やっぱりそういうの、海外の挨拶みたいなものなの?」
何やら勘違いしているらしい。
「まさか! 僕日本人だし。誰にでも言ったりする訳ないって」
「そ、そうよね。訳ないもんね、うん」
いまだ動揺しているくるみを見て、碧は笑って問う。
「今って僕らつきあい始めた訳だけどさ、くるみってこれから先に心配なことはない?」
「心配なこと?」
「こうやって恋人らしいことしていくうえでの話」
「……こいびと」
「そう恋人」
密着しあった掌が温かくて、こそばゆい。
ようやく落ちついたくるみは少しばかり首を傾げて思案したのち、再び頬をほんのり上気させる。
「あの……ね。私はこうしていつだって碧くんのそばにいられたら、その。……心配なことなんて、なにひとつない、と……思います」
「……そっか」
発言の可愛らしさといじらしさのあまり、碧は思わず洩れ出る呻きを押し殺した。
おまけにここ数ヶ月で開いた身長差のせいで、くるみの意図しない上目遣いが突き刺さり、ぬいぐるみのように可愛がり倒したいを自制するのに必死になるが、求めている回答はそういうことじゃないのだ。
だって恋人になるということは、抱き締めたりとかキスとか——自分も些か知識には欠けているけど、世間一般に照らしあわせるとこの先どんどん深い関係になるということで。
もちろんそういう深いとこに今すぐに到達したいなんて有り得ないし、彼女の気持ちにそぐわないならするつもりはない。碧としてもくるみには出来うる限り優しくしたいし、彼女が望みは叶えてやりたい。
ふたりの道程を大切に少しずつ積み重ねていきたい所存なので、今すぐ焦る話ではないのだが、自分ひとりの問題じゃないからこそ、事前にもうひとりの当事者たる彼女の考えを聞いておきたいと思ったのだ。
碧ばかりが勝手に進んだり己の気持ちを優先させて、くるみを傷つけたくはないから。
もっとも彼女は、まださっぱり想像がついていないみたいだけど。
「キス」
なので最も分かりやすい二文字で表現してみると、やはりというか。
くるみはきょとんとした数秒後、みるまに頬を牡丹に染め上げて、碧は苦笑した。
「ほら赤くなる。僕がしてたのはまずはそれを慣れていこうねって話です」
「だ、だってまだっ! 私はき……————すは、まだ……したことが」
言えてない。
「……純情だなあ」
「それをいうなら碧くんだって他人のこといえないでしょう!」
「僕のほうがまだ余裕があるよ」
「じ、じゃあ! 私がいまからその、ぎゅーしたいって言ったら……碧くんはできる? できないでしょう?」
くるみは大真面目に諭しているつもりらしいが、馬鹿を言っちゃいけない。くるみが考える初心と、それなりに興味のある男子高校生を同列に語れはしないのだ。
なんなら勇気づけるためとはいえくるみを抱き締めたことは一度あるんだし、それくらいはまだポーカーフェイスで楽勝である。むしろ、それ以上のことをしてしまわないかの方が心配だ。
「できるよ。今からする?」
むしろ棚からぼたもちの提案だと言わんばかりに即答すると、それが予想外だったのか、くるみは只でさえ真っ赤だった頬にさらに血を集めてから口をわなわなさせた。
もとが色白な肌だから、照れた時は余計に分かりやすい。
「あっ碧くんに甘えたりくっつくのは好きだけど、その、改まると恥ずかしいというか」
「やめとく?」
碧は気遣ったつもりだったが、負けず嫌いなくるみは羞恥と心の葛藤で、細い体をぷるぷると震わせながら、
「まだ……だめ」
と呟く。
へえとだけ返して、碧は内心ばくばくだった。
——そうですか。〈まだ〉ときましたか。
ということは、いつかそれはそのうち〈もういいよ〉にかわるということだ。
まあ大切な彼女がそう言うなら一ヶ月でも二ヶ月でも気長に待つか、なんて考えていると、彼女は落ちつかない挙動のままなぜかきょろきょろ辺りを見渡し始める。
それから自分に何かを言い聞かせるように小さく一回頷くと、碧の腕をぐいぐい乱暴に引っぱって歩道のすみっこに寄った。
なんだなんだ、と様子を見ていると、
「い、いまならだいじょうぶ。……ほら」
上擦ってか細い声でこちらを呼びつつ、大きく両腕を広げた。
緊張からか、ぎゅーっと堅く目も瞑っていて。
口もきゅいっとへの字に結ばれていて。
どうやらまだというのは、通行人が角を曲がるのを待っていたかららしい——と気づいたとたん、愛しいとか可愛いとかそういう感情で頬が火傷しそうに熱くなった。
誰だよポーカーフェイスで楽勝とか言ったの。
とりあえず、くるみが限界を突破しそうなのは明白で。こんながちがちなくるみを路上で抱き締めるわけにもいかないので、代わりに肩に垂れた横髪をそっとすくいあげて、そこにキスをしておいた。
フローラルな甘い香りが鼻を掠める。
少女は、まだ気づいてはいない。
やがていつまでたっても衝撃が訪れないことにやきもきしたらしいくるみが、恐る恐る瞳を開く。笑いながら「近づいて可愛いのが見れなくなるのも勿体ないなって」と言うと、大きく腕を広げた格好のまま、ぽふんと白い煙を出した。
がちがちに伸び切った腕を優しく掴んで、もとに戻してやりながら、言う。
「むりしないでも、ちょっとずつ僕たちなりに慣れていけばいいんじゃないかな」
「う。うん」
「大切にしたいからさ」
「……私も同じ気持ち、です」
互いにちょっとだけキャパオーバーな行動をとってしまったせいか、また少しだけぎこちなさが舞い戻りつつ、夏の暑さの残る歩道をくったりしたニューバランスと小さなリボンスニーカーが、僅かに寄りそって行進していく。
やっぱりまた、堅く手を恋人つなぎしながら。
——そう、これから時間はまだたくさん残されている。
今はただ、ようやく叶った恋人という道程を一歩ずつ、肩を並べて、踏みしめながら歩いて行こう。
連載再開しました。
恋人になったふたり編です!
関係を縮めるペースはあいかわらずスローですが、話の展開自体はつき合う前ほど焦ったくはなくさくさく進んでいく予定です。
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よろしくお願いしますー!




