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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第3章 シュガーリリィの恋
134/272

第134話 九月六日


 モノクロームの空から、雪が降りしきる街で。


「碧くん」


 ——遠く記憶に刻み込まれた、懐かしい声が碧を呼ぶ。


 毎日のように聞いた声。


 雪のように透明で桜のように澄み渡った、くるみの声。


 彼女に逢いたいという想いが生み出した幻覚かと思った。


 が、そうじゃないと気づいたのは、続きがはっきりと耳に届いたからだった。


「……飛行機からの景色、碧くんの言ったとおりすごく綺麗だった」


 振り返るのを、ためらった。


 だってそこに本物の彼女がいなければ、碧の白昼夢ということになる。


 そんなのはあんまりだ。


 なんて杞憂を壊すように、はにかんだような呟きが続く。


「オーストラリアの雪も日本のと同じだなんて、知らなかった」


「……」


 言葉は出てこなかった。


 代わりにそっと、振り返り、確かめるようにゆっくりと目線を持ち上げる。


 初めに小さな黒革のブーツが視界にはいった。次に真っ白なロングスカートの裾にロングコート、垂らした亜麻色の絹糸と続き、そして——


「くるみ……」


 何かの間違いで、天使が舞い降りたのかと思った。


 だってこんなにも予告なく、あまりに唐突に。


 確かな熱の乗った、淡い笑みを浮かべた少女が。


 右手で傘を持って左手を後ろに回して。ひらひらふわりと九月の雪が舞い降りるキャンベラの大地に、立っていたのだから。


 街はしんと静まり返り、人は歩いてないし、車のクラクションの音ひとつしない。


 白い結晶に鎖された世界は、どこまでもふたりきりで。


「……」


 やはり、言葉は出てこなかった。


 こちらの様子を見かねてか、くるみはほんのり眉を下げる。


「相談もなく急に会いにきたら碧くんを困らせちゃうのは、分かってた。……ごめんなさい。でも……どうしても今、事前に言わずに、会いに行かなくちゃって思ったから」


 ようやく喉のつかえが取れてきた。すると次々訊ねたいことが湧水のように現れて、またもや言葉に詰まってしまう。


 真摯な瞳でこちらを見つめるくるみがマフラーを巻いていないことにだけ、気づいた。


「あ……だめ、碧くんが寒くなっちゃう」


 一度閉じた傘をすぐそばの街路樹に立てかけ、自分のマフラーを外してくるみに巻きつけると、そう慌てて抗議されたが、いまや碧の優先度の全てはくるみが一番だった。自分は寒さには慣れてるから、今は幻のように現れた、本物のくるみが大切だった。


 碧の体温が残ったマフラーが暖かかったのか、ふかふかとほっぺたまで埋めて、幸せが滲み出たようにとろりと甘く笑う。


 ホテルのロビーから洩れた、オレンジの夜灯にきらきら照らされた少女の姿は、途方もなく美しかった。


「……どうして」


 ようやく、言葉が掠れ出る。


「どうして来てくれたの。僕がメッセージに、会いたいって残したから?」


「ううん。私が来たいから来た」


「すごい行動力」


 賛美なのか呆れなのか自分でもよく分からず、こらえきれず笑いながら言うと、くるみが叱られた子供みたいに小さくなった。


「もうすぐ帰国するんだから待てばよかったのに」


「それじゃだめなの」


「駄目って」


「だってスマホの連絡じゃだめで、待つのもだめで。……これだけはどうしても私が海を渡って会って言わなきゃ意味がないから」


 なんて申し訳なさそうに言うくらいだから、くるみなりに、この行動には深い意味があるのだろう。


 それは今に明らかになると思うので、先に気になっていた事を訊く。


「いや……僕も会えてよかったよ。けどまさか一人で来たわけじゃないよね?」


「兄に連れてきてもらったの。旅行ってことで、もちろん本当の目的は内緒で」


「とんでもない悪い子だ」


 掌でくるみの髪をぐりぐりなでると、その下でくるみは恥ずかしそうに目を細める。


「何日か前、連絡くれたでしょう? このままがいいって」


「……うん」


「私はね、今日は証明に来たの」


「証明?」


「あなたが世界中の何処に行っても大丈夫だよってことを、証明するために。だから、会いに来た」


 ふあ——と洩れたふたつの白い息が、空気に解けて天に昇った。


 くるみの伝えたいことが、尚もよく分からずにいる碧に、彼女は語りを続ける。


「私ね。高校を卒業したらきっと許可が降りるはずだから、アルバイトを見つけようと思うの。大学に通いながら働いて貯金をして、こうしてたまに碧くんのいる国に会いに行く」


「……」


「久しぶりだねって、数ヶ月溜めた他愛のないお喋りをして、一緒にごはんに行って、そこでしか見られない景色を楽しんだら、今度は日本未上映の映画をふたりで観る。……そうして『また半年後にね』ってお別れするの」


「これが、証明?」


「そう……大丈夫って言える証。私たちはどんなに遠く離れたって、どこに居たってまた会えるから。今みたいに。それの実証のために、会いに来た」


 誰が聞いたって、判るだろう。


 明日には散ってなくなるような、短命で儚い熱情なんかじゃなく。親愛に恭敬に憧憬——そんな長い時間をかけたもので成立された様々なものたちが、彼女の空き瓶には堆積していることに。


 くるみはしっかりとこちらを見据えて、口許を花のように綻ばす。


「昔から追い続けた夢を叶えてこそ、碧くんだから。それでこそ……私が委ねて預けて甘えられる、碧空(そら)みたいに自由なあなただと思うから。だから引き止めたりはしない。私が大切に想うあなたの世界を、狭めたりはしない。私もあなたを支えられるだけの人になりたい。……笑って日本から送り出せるようになりたい」


 編んだ励ましの言葉が、真冬の夜空に吸い込まれた後、くすぐったそうにヘーゼルの瞳を細めた。


「だからね? 今日はその第一歩」


 予行演習だと言って、彼女はいつもみたく上品に、あどけなく笑う。


 ああ、どうしてそんな風に。


 ——ただ僕のためだけに、そんな光よりも眩い言葉を。


 くるみが一歩踏み出す。研ぎ澄まされた外気につめたく悴んだ、細い指がそっとこちらに絡んでくる。


 僅かに震えているゆびさきを、自分もまた包むように握り返す。


 今の宣言が、彼女なりの全力をもって踏み込んでくれたことは明らかで。だから碧もまた自分のまっすぐな本音のぜんぶを返すために。


「……くるみさん」


 いつもみたいに彼女の名前を呼び、


 

「僕たちつきあおうか」



 今度、言葉が出なくなったのはくるみのほうだった。


 この時の彼女ほど、狐に包まれたようなという表現が似合うものもなかなか居まい。


 嬉しいとか困惑とかより先に、びっくりのあたりで思考が止まっているらしくて、はたと動きを止めてマフラーの裾をぎゅっと抱えながら。


 零れそうなほどに揺らめくヘーゼルの瞳を、瞬きすらさせず、続きの言葉を待っている。


「本当は帰国してから言おうと思ったけど……せっかくだし今話させて」


 なので、改めて伝えることにした。


「目標はかわらない。子供の頃からずっと追いかけ続けた事だし、留学もするしそのために出来ることもする。ちゃんとしたいことは実現させる。……それでも」


 たった今導きだした答えを言う。


「大学のあいだくらいは、くるみと一緒に日本にいたい」


 瞠目するヘーゼルの水鏡には、降り続ける白い雪が、後から後からちらついている。


「だから、それまではできるだけ一緒にいる確約がほしい」


 くるみはようやく感情を取り戻したらしいが、それは信じ難いといった戸惑いに近いカテゴリーのものだった。


 さもありなんだろう。人生の岐路に立つ碧を励ますためにはるばるきたのに、碧からは真逆の回答が返ってきたのだから。


「……どうして?」


「だって今の日本の暮らし気にいってるし」


「理由に……なってない」


「僕も言葉にするのが難しいんだけどさ。ただ……この先どうなるか分からないなかで、この道だけは唯一、選んでも決して後悔しないだろうなって、思ったから」


 桜の咲く歩道橋でくるみに掛けた言葉を、思い出しながら。


「今の自分には分からないことって、十年後とかになって後から振り返ったときにはじめて正解にすればいいって、前に言ったでしょ。けど考えるまでもなく今……僕にとってはこのルートが正しいんだ。この道じゃなきゃだめなんだ」


 理屈じゃない。ましてや根拠だってない。


 ただ高校卒業後このまま留学すれば、必ず後悔するだろうという確信があった。


 きっとみんなも同じように大事な何かを天秤にかけなきゃいけないことはそれなりにあって、何があるか分からないのが人生で。それでも……いやだからこそ、碧は自分の真に望んだものにまっすぐ突き進むことは、やめるつもりはなかった。


 日本には湊斗が、つばめが、母さんがいる。大切な妹だって再来年に帰国する。


 そして……かけがえのない大切で愛おしい女の子がいる。


 碧の信念や主義を、自分事みたいに大切に想ってくれた彼女の優しさに甘えきってしまうなんてしたくない。


 同時に、彼女じゃなきゃ駄目だと、心から求め恋焦がれた相手は、くるみが恐らく最初で最後になるだろうことも分かっていた。


 ——大切にしたい、幸せにしたい、守っていきたい。


 心の引き出しに仕舞ってきたそんな希望たちをこの手で叶える決意ができたのは、くるみが勇気を出してオーストラリアまで来てくれたからなのだから。


 くるみが一歩踏み込んできてくれたから、自分もこたえる決心がついた。


 つまり、彼女は碧を広い世界に送り出して遠くから支えることの表明にきたのに、実際のところは碧がくるみに告白する後押しをする正しさの、逆説の証明——ひいては決定打になってしまったのだった。


「……あとはもうひとつあるんだけど」


「?」


 これを言うのはちょっと気恥ずかしいのだが、くるみが淡い期待がうかがえる瞳を向けてくるので、迷うことなく言えた。


「心底惚れこんだ人とふたりで進む世界を、やっぱり見てみたいと思ったから」


 まるで何かが溢れださないように、口許を両手で抑えるくるみに、碧は今まで彼女をみてきて思っていたことを、淡々と語った。


「初めは真逆の世界の人だと思ってた。なのに気づけば僕は学校でも君の姿を探しては目で追うようになってて。次にくるみのことを深く知りたいって思うようになって、今度はなんだかすごく愛おしいなって思えるようになって」


「……うん」


「それがいつの間にか、見惚れて、目を奪われて……ずっと見守ってたいって思えるようになってたんだよ」


 そう、逆転だ。


 この関係は恋からじゃなくて、きっと〈愛〉から始まった。


 だから好きなんて言葉だけじゃこの気持ちは到底伝えきれそうにない気がした。


「日本の大学に進むってだけで、これからも海外に行くのはずっとかわらない。いつかまた離れ離れになる日はくる。それでも僕の人生には、くるみさんにずっといてほしい。僕は、くるみさんの人生に関わり続けたい」


 今ほしいのは、何処にいっても戻って来れるところ、そして共に歩む将来の確約だ。


 いつになく真剣な眼差しで言い切れば、ふと風に吹かれた雪が、街灯の前を散らばって、ちらちらと届く光をさえぎる。


 柔らかな絹糸が、雪粒の間を舞い上がる。


 揺れる前髪の下で、くるみの瞳はみるみる涙ぐんだ。


 白い頬を伝うことはなく、夢みるようにゆるりと潤い、光を溜めてきらめいている。


 ——ああ、きれいだな。


 きっともう想いは通じ合っているかもしれない。


 けれど、それが錯覚かもしれないから、ひとは言葉で(しか)と伝え合うのだ。


 くるみは何よりも大切な事のようにただこちらを見つめ返す。


 その瞳が問うている。待っている。


 碧のまだ伝えていない最後のピースを、静かに待っている。


 もう一度、今度はありのままの想いとありったけの熱を、言葉に乗せて————



「愛してます。僕と、恋人になってくれますか」



 美しく透き通ったヘーゼルの瞳に映る自分の姿が、水彩みたいにぼやけて滲んだ。


 彼女が涙したからだと気づいたのは、可憐で柔和な笑みを咲かせた拍子に、きらりと光の粒が散ったのを見たからだった。


 まどろっこしさを全て捨てるように、くるみによって放り投げられた傘が曇天の雪空を押し上げて、空中を舞う。


 驚きに目を見開くのも束の間、跳ねて走り寄るくるみは美しい亜麻色のそよ風となり、(ほお)ったそれの持ち手がコンクリートと衝突して音を立てると同時に、そのままこちらの懐に飛び込んだ。


 マウンテンパーカーに埋まって、湿りくぐもった声を返す。


「……はい」


 告白の返事はそれだけでは足りないと言わんばかりに、ぎゅうっとこちらを抱き締める。


 碧も、自分の腕で細い体をすっぽり包み返して、誓いを立てた。


「ずっとずっと大切にする。必ず、幸せにもするよ」


 ルートを選び直したのだ。新しく交わし直した約束には、今度こそ有効期限はない。


「……はいっ」


 くるみは大粒の涙を散らして、花束みたいに美しい笑みを零した。




 次の朝を静かに待つキャンベラの夜の街には、ひとつの明かりが、確かに小さく灯る。

 ふたりを真ん中にして、果てしなくあふれ広がる光が、世界をあまねく塗り替えていく——


 ——それは、九月六日。オーストラリアの片隅での、出来事だった。


【あとがき】

第3章完結です!ここまでお読みくださりありがとうございました。

やっと二人が結ばれたということで、長くなりそうなあとがきの続きは、第4章の予定も含めて活動報告に残そうと思います。

今後とも箱庭のスノーホワイトをよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 読んでる間頬が緩みっぱなしで大変でしたw 語彙が溶けてなくなりました。月並みではありますがすっごく良かったです。3章完結お疲れさまでした。
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