第133話 オーストラリアにて
赤道線を越えた遥か南へ向かう旅客機に乗り込み、みるみる間にミニチュアの世界のように小さくなる東京の光の密集を見下ろしながら、碧はシートに深く体を預けた。
英語でアナウンスされる、航路やら現地の到着時刻やらの案内は、何ひとつとして耳に入ってこない。
いま碧の思考を占めているのは、窓の外を通りすぎる雲に隠され見えなくなりつつある、巨大なジオラマの街に置き忘れてきた、たったひとつの小さな出来事。
「……僕は、どうすればいいんだろう」
思索の深いところに潜り、自問自答する。
飛行機の翼の先で、堅い光が控えめにフラッシュするたびに、いつも一緒にいた少女の温かな笑みを想起する。彼女がキスという名の印を落とした頬に、そっと指をすべらせる。
——離れ難いと、思ってしまった。
くるみが受け入れてくれるのであれば、誓いも決意もかなぐり捨ててこのまま永遠に日本にいたいと……そう、思ってしまった。
考えなきゃいけないことは山ほどあるのに、あのキスが何もかもを上書きして、碧の全部を支配してしまったのだ。
他のことを考えさせる隙間など、みじんも残してはくれなかった。
*
八月 二十四日
行き先のクイーンズランド州は、真冬だった。
「……寒」
晴れているのに気温はえらく低い。冷えた淡いブルーの空の下で、日本ではあと半年縁がなかったはずの厚手のマウンテンパーカーを着込んだ碧は、到着した国際空港からバスに乗って市街地へ向かった。
宿にキャリーを預け、やがてオープンデイで門扉を解放している目当ての大学へやってくると、同じ目的で訪問している現地の高校生たちに交じってキャンパスを歩いていく。
外から高校生を招くのはやはり日常から逸脱しているらしく、そこいらはお祭りのように賑わっていた。バルーンアーチがあったり、制作物の展示があったり、見学したい講義やワークショップの予約を受けつけていたり。
まわりを見渡せば、さすが多民族国家というべきか。日本人がひとりいるくらい誰も気にしていない。というかアジア系なら十人に一人くらいはいる。
なんて思っていると、急に後ろから何者かが話しかけてきた。
「Hi. Did you dropped this?(君これ落とした?)」
フレンドリーそうな大学生に差し出されたのは、横浜で買ったハンカチだった。
どうやら名前を書く際に落としたらしい。
「Thank you」
角にぽつんと刺繍されたくまと目が合い、くるみのことを思い出してつい微笑む。
危なく遠い地に失くしてしまうところだったので、今度は落とさぬようにとデイパックの底のポケットにたたんでしまった。
「Are you the high school student who came to the open day?」
「Hi. Is the venue that way?」
「Yeah. I'm a current student, so I'll show you around.」
彼はどうやら在校生らしい。腕に関係者のバッジをつけている。
校舎を案内してくれるそうなので、お言葉に甘えることにした。
想像以上に、オーストラリアはいいところだった。
*
八月 二十九日
飛行機に乗ってシドニーまで移動した。
日本なら一番お手頃価格なのはバスなのだが、こっちじゃどれもそう大差ないのだ。
「へー……あれがあの有名なオペラハウスか」
東京とはまた違ったふうに洗練された、おしゃれな大都会——というのが、初めて降り立ったシドニーの評だった。
真昼の晴天の下には、恐竜のとさかのような咲きかけのチューリップのような、不思議なかたちの白いドーム。その隣には見惚れてしまいそうなほどきれいな弧を描くハーバーブリッジ。
スマホを構えて写真を撮り、近くのWi-Fiを拾いつつ、打ち込んだ文字とともにくるみに送信する。
時差がほぼないおかげか、今は家で本を読んだりして寛いでいるだろう彼女からすぐに返事が来た。
〈すごい! 本当に今オーストラリアにいるんだ……なんだか不思議なかんじ〉
〈お腹空いたから今からパンでも買ってくる〉
〈パンってオーストラリアのすごいパン?〉
〈ただの塩パン〉
〈もしかしてそれだけ? バランス偏るんじゃない?〉
母さんか、と思いつつ昨日のミートパイの写真を送ると、すぐさま返信。
〈恋しいでしょうし帰ったら和食にする? うどんでもお蕎麦でもお魚の煮つけでもリクエストしてくれれば準備しておくけれど〉
〈ほんと!?〉
〈碧くんの好きって言ってくれただし巻き玉子も焼いてあげる〉
——あ、考えたら涎出てきた。
もうくるみなしじゃ生きられない駄目な体にされている自信はあるものの、留学するのにさすがにそんなことは言ってられない。
けどやっぱり、ひとつの教室でこっそり秘密の連絡を送り合っていた頃が羨ましくなるくらいには、開いた距離は寂しいものだった。
シドニーにきた目的はもちろん、ふたつめの大学の訪問。
せっかく貯金を崩して来た以上できるだけ多くの大学を見ておきたい。
この国で進学するにしても、しないにしても。
「……あれ」
今なんて思った?
——しないって選択を、なぜ前者と同列として思い浮かべてしまったのだろう?
どうにもらしくない気がして、ぶんぶんと首を振って思索を追い払った。
*
八月 三十一日
引き続き、シドニーに滞在。
その日訪問した大学で、日本から留学中というひとつ上の高校生と出会った。
ホームステイをしているという彼と、すぐに打ち解けた。外国は邦人同士が仲よくなる呪文がかかっているに違いない。ここが日本ならこう上手く事は運ばないだろう。
志望する学部も同じという事で、せっかくだし一緒に講義の見学に参加しようとなったのだが、教室へと歩むその回廊で碧はふと足を止めた。
右手には、開け放たれた図書館の扉。
その隙間から、大学生たちがまばらに座って勉強しているのを見て、思い出したのだ。
『私を先生と呼ぶからには、半端な点数は許しません』
去年の冬、くるみと一緒に勉強会をしたときのこと。
あの時はまだ関係も曖昧で、くるみも今よりずっと刺々しくてつんつんしてたっけ。
それが今や、気を許したとたんに綿あめも裸足で逃げ出すくらい甘え甘やかしてくるようになったのだから世の中は分からないというものだ。
今もときどき、伝家の宝刀「碧くんのばか」を発動してはこちらをどきどきさせてくるが、照れ隠しなのが一目瞭然な可愛らしいそれとは違って、昔は本当にとりつくしまがなかったというか。人との関わりも巡りあわせだよなとしみじみ思う。
「どうかした?」
知り合った彼が怪訝な表情でうかがってくるので、はっと我に返った。
「あ……ごめん、何でもない」
席は限られているので、早く行かないと埋まってしまうだろう。
そう思って移動を再開したものの、歩き慣れたスニーカーはすぐに留まってしまう。
自分の高校とよく似ている……そう思える中庭だった。
しっかり刈られた芝生の真ん中には、大きく育った一本杉。そこをドーナツみたいに取りかこむのは、西洋風の鉄柵でできた藤棚だ。
冬なので紫の花こそ咲いてはいなかったけれど、碧はそこから目が、離せなかった。
ここにいないはずの人影の幻視をしたからだ。
そして——思い出す。
『Du bist bereits ...... gutaussehend』
お昼休み。青い空を埋めるように垂れる藤の下で、お弁当の玉子焼きを照れくさそうに箸でつつきながら、そう言ってはにかんだ彼女を。
視界に重なる。
初めて来る国のはずなのに、記憶が、思い出が——
*
九月 三日
シドニーで出会った彼とは連絡先を教えあって別れ、碧はバスで今回の旅の最終地点である首都キャンベラの宿にやってきていた。
そう、くるみにも見せたホステルだ。
値段に対しちゃんと清潔に掃除された二段ベッドの上に腰かけて、旋毛が天井にぶつかりそうなのでちょっと体を傾けながら、のぼーっとしていた。
スマホが通知のランプを光らせる。
〈碧くんは今何していた?〉
ぼんやりとメッセージを視界に映す。
この時、碧は長旅でわりと疲れていた。
くるみのことを忘れられなかったこともあると思う。
長らく叶わないはずの片想いをし続けたと思ってたのに、出発のぎりぎり直前に彼女の本心を知ることになって、嬉しくて幸せで切なくて——浮き立った気持ちのままだったから。
多分それが敗因で、何が起こったかというと、思考とは別に手が勝手に動いてくるみに連絡を送っていたのだった。
〈会いたいなって思ってた〉
——はっ……!
なんだこの女々しいメッセージは、誰だよこれ送ったの! とすぐ気づいたのだが、すでに既読がついていて、リアルに項垂れれば、向かいで寝転んでいたフランス人に笑われた。
向こうも文章を考えあぐねているのか、すぐに返信はない。
仕方ないので、今の心情をまっすぐ伝えてみることにした。
〈僕ってやっぱり本当はくるみさんと離れたくないみたいだ〉
〈この旅のあいだ何度も思い出して、片時も忘れたことなくて、ずっとこのままがよくて〉
〈もしこのまま日本にいたらどうなるんだろうなって考えたりして〉
〈ただ そんな世界線も見てみたかったなって思っただけ〉
どれもまぎれもない本心だ。
家に帰ればくるみが待っててくれる。真夜中のホットミルクみたいに温かくて穏やかで甘い毎日を、手放したくはない。
文字に起こす事で多少気持ちの整理ができたのか、どこか晴れやかで凪いだ気持ちでトークを見守っていると、
〈うん〉
〈わかった〉
それだけ返事が来た。
なので、おやすみとだけ返して、横になった。
*
九月 六日。
あれからキャンベラの大学に行き、せっかくなのでと院生と会話もさせてもらえた。
オーストラリアの滞在予定は残り三日。
すっかり夜の帳が下りて、真っ白に鎖されたキャンベラの街を、探るようにゆっくりと歩いていた。
凍てつきそうな空気を銀の糸が縫う気配、氷の小さな花が降り積もる音。
半年前はくるみと一緒に眺め、愛でた雪だ。こっちで降るのはわりと珍しいらしい。
そして彼女と初めて出会った時も、こんな空だったっけ。
「遠いな」
——途方もない。なんて、途方もない。
だって碧がこれから旅立つどの国にも、くるみはいないのだから。
彼女は日本にしかいない。碧がこれから先の人生で行くであろうどこを探したっていない。小さな箱庭にしか、いない。
「……くるみ」
隙間から洩れた白いため息が、曇天に吸い込まれていく。
いつからだろう。彼女の存在が自分にとって代え難く、将来の夢と同じくらいに大切なものになったのは。
本当は一緒にいると言うあの約束だって、反故になんかしたくない。高校卒業までじゃなく、生涯貫きたいくらいだ。
もう自分はくるみがいなきゃ駄目だと断言できるし、自分が守らなきゃならないと思えたくるみを、許されるのならずっとそばで手を差し伸べて、守ってやりたい。
彼女が隣にいない暮らしが、想像がつかない。
お互いがお互いを必要としていることも、理解している。
「……ずっと一緒にいれたらな」
誰からも返事なんかあるはずない。
碧は小さく笑って、雪の舞い散る曇天の空を見上げた。
気づけばもう宿の玄関で、洩れたオレンジの温かな光が、降り続ける雪粒を柔らかく染め上げる。
戻ったら、学校から出されたオープンキャンパスのレポートを書こう。三都市を周ったのだから、指定の文字数は余裕でクリアするはずだ。そして——
「!」
耳がかすかな音を捉えた。
さくさくとブーツで雪を踏み締める音。
やがて足音はまっすぐこちらに近づいて、自分の少し後ろで止まる。
——その時、日本語で。
ひどく懐かしい声で。
誰かが、僕の名前を呼んだ。




