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小さな箱庭のスノーホワイトは渡り鳥に恋をする  作者: 望々おもち
第3章 シュガーリリィの恋
132/272

第132話 君と僕のしるし(3)

前話が昨日の遅めの時間に更新されています。

まだの方はそちらからどうぞ。


 碧の宣告を聞いたくるみの瞳は、ひたすら怜悧に凪いでいた。


 限りなく深くふかく……澄み渡っているのに、どうしてか底の見えない瞳。


 でも、何の感情も動いていない訳じゃない。


 むしろ巨大な何かをずっと覚悟していたような、堅い決意が現れたような、そんな心情が眼差しから読める。


 りんと研ぎ澄まされて、静かに静かに……ただ重大な事の訪れを待っているような、そんな面持ち。


 ただひとつ分かるのは。 


 ——まるでこうなることを、最初から知っていたみたいだ、ということ。


「碧くん」


 彼女が名前を呼ぶ。


 どうしてと尋問するわけでも、なぜだと詰問するわけでもなく。


 ただ事実を抱き止めたくるみは、


「きっとそうなんだろうなって、思ってたの。……そして、それでこそ碧くんだとも、私は思ってる」


 淡く笑みを浮かべ、ただ肯定した。


 想定外の反応に碧はもう、思ったことをそのまま言葉にすることしかできない。


「どうして……」


「その海に行った日、覚えてる? 私は碧くんをまるごと信じるって、言ったこと」


 まさか、と鼓動がやけに早くなる。


『——だって私は、碧くんの嘘もひっくるめて、碧くんをまるごと信じているから』


 いつだったかの海辺で渡された言葉が、記憶の底からぶわりとよみがえる。


 あの時彼女が言った〈嘘〉は、ずっと自分が隠したつもりでいた事だというのか?


 続けてふと思い出す。全てが予定調和のパズルのように、組み合わさっていく。


 もしかしたら、あの時にはもう——。


『カメラでふたりで写真撮れるところに行きたい。ふたりの思い出を、今のうちにたくさん残しておきたいなって』


 お出かけに誘ってくれた時。


 今のうちにって、その言葉に一体どれほどの重みを込めていたのだろう。もう二度と会えないかもしれないことを知っているのは、自分だけだと思っていたのに。


『……ずっとこのままがいいなって、思っただけなの』


 くるみにベッドを貸した、雨の日の夜。


 その言葉は一年半後の卒業だけを見越しての、自分と全くカテゴリーの違う感傷だと思っていたのに。


 今、彼女の想いにふれてしまった後に思い返せば、まるで——。


 ずっと覚悟、していたのか。


 訳が分からず、情緒が崩れていく。


 なのに、くるみはなおも澄んだ眼差しで、ただ穏やかにこちらを見据えている。こちらをかろうじてこの場に引き止めるような、愛情と温もりにあふれた視線で。


 嫌われると思ったのに。距離をおかれると思ったのに。


 どうして、どうして、どうして——。


「嘘……ついていたのに」


 息が浅くなる。


「何で、そん、なに……」


 言葉がうまく出てこない。


 しかしくるみは碧が伝えたかった言葉を、何を言わずとも正確に汲み取ってくれた。


「ふふ。だって、初めに優しくしてくれたのは、碧くんじゃない」


 はっとする。


 優しさの連鎖。


 これも、彼女の言葉だ。


 あの桜並木の夢のような光景が、昨日のことのように思い浮かぶ。


「碧くんは私に広い世界を教えてくれた。境遇を知ってくれて、私を解ろうとしてくれた。クリスマスに贈り物をくれた。『ローマの休日』をみせてくれた。鯛焼きをくれた。重い荷物を一緒に持ってくれた。そして……」


 今までふたりで辿ってきた道をなぞるようにひとつずつ思い出を振り返り、順番にさかのぼって、そうして帰りついた全ての始まりを。


「あの歩道橋で “私” に初めて声を掛けてくれた」


 当時からは想像につかないほどに喜びに満ち溢れた表情で、くるみはまるで宝物にそっとふれるように、大切そうに語る。


 今その際限ない優しさに溺れてしまえば、駄目になってしまいそうで。


 このまま何処にも行けなくなってしまいそうで。


「優しい嘘だから、信じていてよかった。だってそれは貴方の優しさであって、私のためにくれたブランケットでしょう?」


 ひややかに冷たく悴んだ指を包み込んで温めるような言葉を、彼女は紡ぐ。


「誰もが何かを必死に追い求めて生きていけるわけじゃないこの世界で、それでも碧くんは目指すものを見つけて、進み続けている。ずっと格好いいっておもって見てた」


 隙間を埋めるような緻密な言葉が、柔らかくなみなみと染み込んでくる。


「私はあなたの歩む道の妨げにはなりたくないから。行かないでなんて言わない。待ってなんて言わない。いろんな世界を自分の身ひとつで自由に飛び回る、渡り鳥みたいなあなただから。そうあってこそ、碧くんだと私は思う」


「……」


「だからあなたが日本をいつか旅立つなら、私はその選択を肯定して重んじて、その時がくるまでずっと励まし続ける。あの歩道橋で貴方が私にそうしてくれたみたいに……今度は私が貴方を支える番だから」


「僕……これ言ったら嫌われると思ってて……ずっと……」


「もう、そんなわけないでしょう。ばか」


 ほんの少しだけおかしそうに笑ってから、肩に積もった雪をそっと払うような言葉を、彼女は紡ぐ。


「人を傷つけないための嘘だから、そう考える必要なんてどこにもないのに。誰かさんの言葉を借りるなら、そう——」


 一拍おいてから。


「長く生きていれば時にはこういうことだってある、でしょう?」


 笑いながらそう言った。


 何かが、決壊しそうになる。


 くるみのひんやりとした両手で優しく労わるように頬を包み込まれた碧は、首もろくすっぽ動かせないまま、冴え冴えとした美しい面差しをただただ見つめ続けた。


「今はあなたの言葉だけど……もし、私にしか伝えられない言葉があるなら、それは碧くんの背中を押すために使う。日本にいる間は私が出来る限りで支えになる」


 碧の全てを受け入れてしまえるような、際限のない広さを持ったその言葉に、碧を支えるだけの勇気と希望に満ち溢れた言葉に。抑え切れないほど強い感情が、荒れ狂うような衝動を連れて込み上げる。


 くるみはあどけなく口許を綻ばせ、



「——遠くにいても、気持ちはいつも近くだから」



 とどめのそれを聞いた瞬間。


 愛しさが際限なく溢れてきて、それでもどうしようもない程に嬉しくて、どうにかなりそうで——気づけば体は勝手に動き、彼女の白い手の甲に敬愛の印を落としていた。



 はっと呑まれた息遣いがどっちのものかなんて、もう分からない。


 しばらくくちづけた後、雪のようにたおやかな白い手から、唇がそっと離れる。


 包み込んだ掌のなかで、折れそうなほど細い指が震える。


 碧の目の前で、くるみは糸の切れた人形が卒倒するように、ぽてんとソファに座り込んだ。じわりと後から赤みを帯び、熱を侍らせ始める彼女を見て、しかし言葉は出ない。


 傾いた夕陽がオレンジの閑寂を連れてきて、壁にくっきりふたりぶんの影を落とす。


 潮がさあっと引いたような沈黙が降りた。


「……碧くん……」


 先に破ったのは、くるみの方だった。


「今の……」


「その前にひとつ、いい? いつだったか僕が訊ねて、明確な答えがもらえなかったことを、今訊くけど」


 これは春休みの時だったか。一緒に桜を見に行くとき、こんな話をした。


 その答えが聞けなかったのが、ずっと心残りだったのだ。


「くるみさんが春からよく家に来てくれるようになったのは……本当は、世話好きだからでも知らないことを知るためでもなくて……いや、それも目的なんだろうけど。一番は、僕に会いにくるため?」


 我ながらずるい男だと思う。


 うっすらと、貰えるだろう返事が分かっているのに問いかけたのだから。


 分かっていて、確認のために聞いた。なんてたちの悪い奴だ。


 ソファに沈み込んだくるみはうつむいていた。


 項垂れて、伏せた長い睫毛に表情を隠したまま——こくんと、小さく頷いた。


「……そっか」


 窓から差し込む西日が、ひときわ眩く、空間を黄金に染めだす。


 暮れなずむ外界から、かなかなと遠くひぐらしの鳴く音が聞こえる。


 死ぬほど嬉しくて舞い上がりたい反面、今はなにを言っても、正解じゃない気がした。


 たとえば、卒業まで残り一年半だけどそれまでは一緒にいれるからとか、あるいは僕はやっぱり諦めて日本にいることにするよとか。あるいは——僕は君のことが大好きだ、心の底から愛している、とか。


 正答はない。今はきっとなにを言っても、くるみを傷つけてしまうのだろう。


 太陽がきらめきの残滓をひときわ明るく燃やし、遠くにそびえる鉄塔に隠れる。ブルーアワーの若いはしきれが訪れようとする。


 もどかしくはがゆくて、切なくて、たまらなく切なくて。


「くる————」


 意味もなく彼女の名前を呼ぼうとして……それは阻まれた。




 栗毛がふわりとひるがえる。

 熱に浮かされた頬に、何かが掠める。



「——……」



 ちゅ、と。



 柔らかな何かが、視界の右を少し外れたところに、何にもたとえ難い感覚を伴って僅かに掠めた……気がした。




 息をすることさえ許されてない気がして、必死に呼吸を止める。


 人があまねく動きを取るための一瞬の猶予すら与えられないまま、踵を上げていたくるみは頬をはなれて。主人(あるじ)の動きから取り残されるように、甘く浮いた残り香のかけらが空気に散って。


 そうして舞い上がった柔らかな亜麻色の髪がゆっくり地面に引かれるのを待つだけの時間を、彼女は許さなかった。


 次に碧がくるみの姿を呆然と視界に認めたのは、彼女がすぐさまスリッパの足音をぱたぱたと立てて駆け出し、唐突に扉の前で立ち止まった時。


 トワイライトの残光に染まるシルエットは、夏の光に連れ去られてどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと思えるくらい、頼りなく見えた。


 ——なにか、何か言わなければ。


 けれど情けないことに、舌は縫いつけられたように動かず、なんの言葉も、音すらも紡いでくれなかった。


 代わりに鈴のように澄んだ声が、震えながら耳朶を打ち揺さぶる。


「私が……あなたに、どれほどの大きさの感情を持ってるかなんて」


 ——どれほど、僕のことを想ってくれているかを。


「碧くんは、知らないのでしょう」


 もう知ってしまった。分かってしまった。


 〈この子は僕のことが……〉


 その言葉の先を思い描き、たった今くるみがキスを落とした頬に手を持っていく。


 これが何の(しるし)かなんて、確認するまでもないことだった。


 多分、自分が落としたのと同じ意味を持つことくらい。


 悪戯でも気まぐれでもなく、ましてやただの意趣返しじゃ決してないことくらい。


 多分今が、気持ちを自覚してから四ヶ月越しの、答え合わせの時間なのだと思う。


「全部ぜんぶ、初めてなの。この気持ちも、自分のなかにこんな感情たちがいることさえも。自分が今までなにも知らなかったことに、気づかされるばかりで」


「……くるみ」


 名前を呼べど、溢れ出した言葉の五月雨は止まることなく、どこまでも際限なく紡がれ続ける。


「知ってほしいけど、気づいてはほしくなくて。あなたの日常が、私の日常でありますようにって思えて。送ってくれる帰り道は、家に帰れない口実が降ってくれればいいのにって、祈るばかりで」


「……」


「碧くんのまだ知らない一面を見つけると嬉しくて、一緒にいる時間はどうしてこんなに短いんだろうって不思議で、あなたの家にいる間は誰かが時計の針にいたずらしてくれればいいなんて思ったりするくらいで——」


 曖昧だった情景がいくつも集まって束になり、ひとつの〈答え〉へと結実する。


 都合のいい解釈で、希望的観測も含めて、きっとそうなんだろうなとは思っていた。


 それが今、ようやく確信になった。


 これまでずっとどんな気持ちで接してくれていたのか。


 自分の予定や勉強だってあるはずなのに、なぜ放課後を空けて毎日のように会いにきてくれたか。


 どうして休みの日に、ふたりでお出かけするための口実を用意したのか。


 本当は何を理由に、難しいドイツ語を覚えてくれようとしたのか。なぜ嘘を受け止め、歩む道を肯定し、抱きしめてくれたのか。


 正直まだ現実を受け入れられず、思考がぐるぐると熱を持って空回りしている。狼狽と混乱と高揚……自分でも掴みきれていない数々の感情が綯い交ぜになっている。


「こっち」


 やっと出てきた呼びかけは嗄れてて、


「……見てよ」


 彼女はそれでもかたくなに振り向かない。


 静かに歩み寄ってくるみの後ろに立ち、へし折れそうなほど細い腕に手をのせると、スノードロップの花のようにうつむいていたくるみが、ようやくこちらを見る。


 ——熱い。


 頬が季節はずれの牡丹のように、真っ赤に染まっていた。


 火照りがこちらまで伝わってくる気がした。


「……あのさ」


 雪の結晶のように澄み渡った眼差しが、ただ碧だけを見詰めている。


 くるみの瞳には碧が、碧の瞳にはくるみが。


 鏡合わせみたいに互いを映しあっている。


「僕は……」



 ——言葉を中断させたのは、スマホが鳴らすアラームだった。



 飛行機に間に合うためのタイムリミットを知らせる通知。時計を見れば、もうとっくに家を出ないといけない頃合いは過ぎている。


「うわ……よりによって今?」


 自分の嘆きは、さぞかしがっかり響いていたに違いない。


「ごめん。飛行機の時間。そろそろ行かないと間にあわない」


「……帰国は、九月になってから?」


「うん。だから待たせちゃうかもしれない。……ごめん」


 くるみは残念そうに瞳を潤ませながら、こくりと頷いた。


「僕、帰国したら真っ先にくるみさんに会いたい。会って、言わなきゃいけないことがある。今言いかけたことの続き」


 百人いれば九十九人が抱く恐れ——『告白してもしも振られたら?』なんてこの世の常みたいな気持ちだって、もちろん心を慄き震わせている。


 もし百歩譲ってそこが問題ないとしても、遠くに行くからという理由で、叶うはずの告白だって受理されないかもしれない。


 いや、むしろそうなる方が当たり前だ。もしつきあうとして、碧はどれだけ離れていても必ず帰ってくる想いはあるが、通常であれば一緒にいれない恋に意味を見出す方が難しいのだろう。〈好き〉と〈ずっと一緒にいたい〉は別物だ。海を越えないと会えないくらい距離をおいて何年も待たせてしまうなんて残酷すぎる。


 ただ、もしばつで返される可能性があるとしても。


 気持ちを伝えない理由には——したくなかった。


「鍵は預けてるし、僕が家を出た後しばらくゆっくりしてから、家に帰って。車に轢かれないように気をつけて」


「うん」


「旅先からでも連絡する。なるべく話せる時間、つくるから」


「……うん」


「もう行かないと。だから待っててくれると嬉しい」


 くるみは首肯はせずに、ふありと沫雪みたいに目を細め、


「行ってらっしゃい、碧くん」


 へにゃりと、熱に浮かされた笑みをいっぱいに見せてくれた。


 最後に髪をわしわしと撫でてから、デイパックを背負い、ごろごろとキャリーバッグを引いてマンションを出る。


 太陽は遠くのビルに隠れ、たなびくちぎれ雲を染めていた。瑠璃と淡いオレンジが混ざりあい、紅掛空(べにかけそら)へと、美しいグラデーションを描いている。


 東の空へと、希望の彼方へ音もなくどこまでもまっすぐ伸びていく飛行機雲だけが、どこまでも子供のらくがきのようだ。


 七階を見上げると、ベランダに出たくるみが夕刻に点り始めた夜灯の下で、旅先での幸福を祈る天使のように嫣然とした笑みを浮かべ、ぶんぶんと大きく手を振っていた。



 ——『すき』『きをつけてね』



 声は届かないはずなのに、くちびるの動きでそう言われた気がして……あ、()()じゃなくて()か、と気づいた碧は、己が頬をばしばし叩いた。


第3章は残り2話です。

明日2話分まとめて更新しますので、よろしくお願いします。

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