第131話 君と僕のしるし(2)
昼下がり、くるみは帰省する兄の出迎えに行くことになっていた。
「あ、いたいた」
早く碧くんのところにいきたいな、と駅でぼんやり立っていると、やがて人混みにまぎれるようにして改札から現れたのは院生くらいの白皙の青年。小さなキャリーを引いた兄——帆高は、こちらを見つけるなり柔和に笑った。
自分によく似た色彩の髪や穏やかなライトブラウンの瞳を見ていると、歳が一回りも離れているとはいえ、小さい頃よくそっくりだと言われていたことを思い出す。
おっとりしてそうに見えて兄もまた、楪家の長男として生まれた宿命からレールを辿るように何度も受験戦争を勝ち抜いてきた傑物なのだが、のほほんとした空気からは分かりっこない。そしてくるみにとってもまた、ただの頼れる兄にすぎなかった。
「お久しぶりお兄様。長旅お疲れ様でした」
「お出迎えありがとう。久しぶり」
ほら、と深緑の紙袋を差し出してくる。
「これ神戸土産のバターサンド。上枝さんにも渡したいんだけど今日いるよね?」
「うん。ケーキとお茶を用意して待っててくれるみたい。お父様とお母様がお仕事早く終わらせられれば、晩ごはんは久しぶりに家族揃って予約していたホテルで、ですって」
兄は、くるみが中学に進学する前くらいに大学生となり家を出て、今は父の経営する企業の支社で働くために神戸で一人暮らしを始めていた。
「うん。そしたら、寄り道しないで早く帰ろうか」
兄は腕のスマートウォッチをちらりと見てから、今度はこちらをまじまじと眺めた。
「それにしてもくるみもずいぶんと大きくなったなぁ」
「もう……お兄様は子供扱いしすぎ。ほら、タクシー乗り場はあっちだから」
照れくさくてぐいぐい押すと、兄は子供の悪戯を咎めるように淡く笑う。
「いや、荷物もそんなに重くないし歩いていくよ。それとも何か急いでるの?」
「え? ううんっそんなんじゃなくて……大丈夫」
本音は早く碧のところに行きたいけれど、せっかく帰省した兄の前でそんなことは言えない。が、幼い頃から長年面倒を見てくれた兄はそれすらあっさり看過してきた。
「この後、誰かに会いにいく予定でもあるの?」
「ど、どうして分かるの?」
「そんなにそわそわしてたら誰が見ても分かるよ。それにおめかしもして」
「べ、別にこれはただの身だしなみ!」
はいはい、と兄は笑った。
「くるみはがんばってばかりで息抜きも少なかっただろうから、遊べる相手がいるなら嬉しいよ。何なら、お兄ちゃんもどこでも好きなところに連れてってあげようか?」
「え……?」
「うちの家族、こういう旅行とか試験でいい点取ったお祝いとかなかったからね。……なんて、さすがに僕の妹はもうお兄ちゃんっ子は卒業して——」
歩みと共に兄の言葉が止んだのは、くるみがぐいーっと裾を引っぱったからだ。
「え、何なに?」
「お……お兄様それほんとう? 本当にどこでも連れてってくれるの?」
くるみは幼い頃から自分の意志を表に出さない子供だった。
というよりは、わがままは抑えざるを得なかったのだ。
自分のために習い事をさせてくれた、手塩にかけて育ててくれた。
たとえそれが名門一家の方針に過ぎなくても、その結果くるみが子供らしいことを何一つ覚えないまま高校生らしからぬ不釣り合いな優等生になったとしても。親としての子に対する心配と優しさのひとつだと幼い頃から分かっていたから、親を困らせるわがままは言えなかった。
偉い地位に就き、いつも多忙そうにする親に仕事を休ませてまで、自分が習い事に穴を開けてまで、だだを捏ねようとは思えなかったのだ。
そんな妹の——おそらく初めての乗り気な反応が珍しかったのか、兄は一瞬意外そうにしつつスケジュールを教えてくれた。
「うん。夏季休まだ使ってないから、長くて一週間くらいなら休みは取れるけど」
「じゃあ……行きたいところ、決まったら言う。いい?」
「いいよ。可愛い妹のためですから」
「ありがとうお兄様……あ」
ぴろん、とスマホの通知が鳴った。
〈今日会って話をする前にいちおう文字に残しておくけどさ〉
〈僕がくるみさんにした『一緒にいる』って約束も気持ちもちゃんと本物だから〉
どういう意図で今この連絡をしたのかは、想像することはできるけれど、本当のところは分からない。
それでもただ一つ分かるのは。
彼はどこまでも誠実で情に厚くて、ずっと先を見据えて、先回りして気遣って優しくしてくれて、まっすぐこちらを見守ってくれて、くるみのいいところも悪いところも丸ごと大事にしてくれているということ。
——だから私は碧くんを、好きになった。
自分が碧をもっと知って理解して受けとめたいと思えたのも、共にいることを望むのも、理由はぜんぶここにある。
〈自分の世界は、自分の好きなものを探して、空き瓶に詰め込んで創っていく。その瓶に何を詰め込むのかはその人の自由。硝子を曇らせるのも、拭い上げるのもその人次第〉
碧からこの言葉を聞いた時、自分の器には何があるんだろうと思った。
むろん、覗いてみれば空っぽだ。
努力を苦としないおかげもあってか、何でも出来て万能で、誰もが羨む少女に育った。なのにひとたび鎧を剥けば、そこにいるのは本当は自分の好きなものひとつとして分からない、世間知らずで人見知りで怖がりな、ただの女の子。
けれど今は、碧と一緒にすごす時間のなかでたくさんのものが詰まっている。
ずっとずっと大切にしたいと思えるものがいっぱいに……。
タクシーに乗り込む前にメッセージに返信し、すぐさまトランクに荷物を積んでいる兄に許可を求める。
「お兄様。せっかくのお出迎えなのにごめんなさい、私今から……」
「うん。行っといで。そのバターサンド持っていきなよ。夜には帰るんだよ」
「! ありがとう!」
お礼もそこそこに、くるみは走って駅のロータリーを横切っていく。
これから先にどんなことが待っていたとしても、構わない。
*
約束どおりの時間に、くるみは息を切らしてやってきた。
緊張をまぎらわすように、やあと右手を挙げると、立ち止まったくるみは瞳を一瞬だけ星のように輝かせ、それから疲れ果てたようにひざに手をつく。
「そんな走ってこなくてもいいのに。ねじ巻こうか?」
冗談めかして言ってみたが、本人はそれどこじゃないらしく、必死に息を整えていた。
光る雫が白い首筋をなぞって華奢な鎖骨を伝い、ブラウスの衿と柔肌の隙間に隠れていく様は、なんかすごい見ちゃいけないやつな気がする。
「ほんと大丈夫?」
「はあ——はぁ……だって、出発前に碧くん……とっ」
つややかな吐息を落としながら、くるみは柔和に笑う。
「一緒にいれるのが……長くなるのは……嬉しいから」
どきりと心拍が跳ね、ああもうと思う。
これが正しく、碧がくるみを好きになった証左というものだ。
エレベーターで家に戻ると、くるみは残り物で昼ごはんをつくってくれた。
ごちそうさまをし、皿を洗って一息ついた後、いつものカウチソファに並んで座る。
今まで吐いていた嘘と隠し事の告白となるので、どう切り出そうかと迷いに迷って妙な沈黙ができてしまったのだが、くるみは、急かすでも主導権を握るでもなく、ただ碧に判断を委ねていた。
「それで……話なんだけどさ」
彼女はしんと静かに耳を傾ける。
「まえに湊斗たちと海に行ったとき話したと思うけど、卒業した後の話を。そのことで言わなきゃいけないことがあって」
大事な話だということが伝わっているのか、くるみは何も言わずこくりと頷く。
「僕は……本当は……」
何度も言葉を出しかけて、わなわな唇が震えるせいでチャンスを失う。逃げ出してしまいそうな足をこの場につなぎ止めるように、拳を真っ白くなるまで握りしめた。
今なら他愛のない与太話にすり替えることだってできる。まだ取り返しはつく段階だ。
でもそれをすればきっと、大事なことを曖昧なままにぼやかしたした自分に、ずっと後悔するから。
正しく今ここがその分かれ道。ふたつに分岐した線路の、袂。
僕は、僕は——。
「……僕は卒業後、海外留学をする。そしたら短くて数年、日本には帰れない」




