第12話 少女の織りなす言葉は(1)
翌朝、碧が学校に来ると一年生のフロアにはまだ誰もいなかった。
理由は単純で、早朝にすっきりと目覚めてしまったゆえにいつもより一時間も早く登校したからだ。そして原因は分かっていた、というより他に心当たりがなかった。
昨日のありがたい女神様のお恵み——もとい、くるみのお弁当だろう。
きんぴら蓮根、ほうれん草の胡麻和えに鶏の唐揚げ、そして卵焼きとたこさんウインナー。
特に一番最後のものについては実物を見るのは初めてだったのだが、くるんと曲がった足や胡麻で飾られたおめめが愛くるしくて、大きな衝撃を受けた。素晴らしきかな、日本のkawaii文化。
人が誰もいないと、りんと冷え切った空気もいつもより三度ほど低くなった気がする。まだ朝の七時台なので当然ではあるのだが、なんとなく気分が高揚してしまう。
自分の上靴の足音だけが廊下にきゅっきゅと反響する。放課後とはまた違った、しんとした静けさがまるで非日常のようで、碧の教室に向かう足取りを軽くさせる。
と、二組の教室の前を通ったところで、足が止まった。
黒板の右下に、日付と二人分の名前。その片方に、楪くるみの文字を見出したからだ。
日付は書きかえられているので、どうやら今日が日直らしい。教室の扉は開け放たれ暖房もついておらず、中には誰もいない。
「……さすがにあのお礼は、どう考えても見合っていないから」
ご機嫌なままそう自分に言い訳し、自分の座席に荷物を置いてからきびすを返し、二組の教室に入った。
柏ヶ丘高校は〈自由な校風〉の代名詞で有名な私立で、校則はないと言ってもいい。いわば少し早い大学生のようなものだ。駄目なことと言えば賭け事くらい。もちろん、他の教室に入ってはいけないという決まりもない。
鼻唄交じりに黒板消しを手に取り、黒板に残ったチョークの粉を拭き上げた。それから全部の机の並びをきっちり整える。
「……よし」
教壇の上から完璧に整った教室を、まるで生徒をあてる教師のようにひととおり眺めて、満足そうに頷く。我ながら第三者に見つかったらやばいな、と苦笑しつつも、仕事を終えたことからるんるん気分で教室を出ようとしたところで。
「え、君。誰?」
教室の入り口に見知らぬ女子生徒が立っており、碧は危うく悲鳴を上げかけた。
声をかけてきたのは、首をこてんと傾げてこちらを見る、小柄な少女。
なんというか、この人本当に高校生か? というのが第一印象。
肩の上に切り揃えたさらさらとした焦げ茶の髪が、柔らかく弛んでそよんと揺れる。
手足自体はモデルのように長くすらりとしているのに、ブレザーの下に着込んだカーディガンの大きさが合っていないようで、ぶかぶかの萌え袖になってしまっている。
くりんとまんまるでつぶらな瞳はこれ以上なく彗星を映した万華鏡のように輝き、人懐っこい元気な子猫を連想させた。
が、それは碧の目線から頭二つ分は下にある。
「……」
その小ささから下手すれば学校見学にきた中学生に見えなくもないが、着ているのはどう見てもこの学校の制服だ。
まさか朝っぱらから教室にくる生徒がいると思っていなかったのでたじろぐ碧を、少女は問答無用でじっと見つめる。
「今腹立つこと考えたでしょ、君。なーんかどっかで見たことあるような気はするけど、思い出せないなあ。……もしかして、怪しい人? たとえばそれは、指名手配犯。とか」
どっかで見たような妙な鋭さを発揮した少女は、ゆびさきの一つすら見えない萌え袖を口許にあてがいながら「うわあ」と目を眇めるので、碧は咄嗟に言い訳した。
「そんなんじゃないです!!」
「じゃあ何? ラブレター仕込みに来たとか? もしかしなくても相手は……」
まるで初めてお散歩に出た子犬のように、発想が気まぐれで突拍子もない少女だ。何やら面倒な方向に話が進んでいる気がしたので、無理やり会話をさえぎった。
「ごめんなさい! 教室間違えました!」
「あ、ちょっと……」
女子生徒の隣を足早に横切り逃げる碧。
残された女子生徒は小首を傾げながら席によいしょと鞄を置き、それから気付く。
「あれ、黒板綺麗になってる……? くるみんが先に来てやってくれた?」
*
朝のホームルーム前。すでに多くの生徒たちが登校してきており、教室内はいつもどおりの賑やかな乱雑さを見せ始めている。
そんな級友を横目に、自分の席でしぼんだ風船みたいにぐったり項垂れていると、登校してきた湊斗が声を掛けてきた。
「はよっすー」
「ああうん、おはよ湊斗」
虚ろな眼差しを送られ、ひっと身を引く湊斗。
「うっわ、何? 犯罪でもやらかしたみたいな顔して。まさか中間試験の問題、盗み見たとか?」
冗談で言ったのだろうが、今の碧は真に受けてしまう。
「えぇ……やっぱりそう見える……?」
「なんだよその反応。まさか本気でやらかしたのか?」
「いやしてないけど……」
「どっちだよ。自首するなら早めにしろよ。ちなみに罪状は?」
「だから何もやってないって」
「やらかしたやつはみんなそういうんだよなー」
取調室の一幕のような会話を広げているとその時、教室の後ろの出入り口から、廊下で話しているくるみの姿が見えた。
何人かの女子生徒に囲まれては、どこか愁いを帯びた儚げな眼差しを彼女たちに向けて、異国の姫君のように気品ある微笑みを浮かべている。
凛とたおやかでありながら、触れてはならないと思わせる貴く荘厳な様は、神々しさすらまとっていると言えた。
これがこの高校で一年間発揮してきた、彼女のもう一つの姿だ。それゆえの、妖精であり、姫。碧の前ではまるで別人のようだが。
「なんだかんだ見てんじゃん、楪さんのこと」
「僕が見てたのそこの壁の時間割だし」
くるみはクラスメイトの女子何人かから、勉強を教えてくれとせがまれているようだった。きっと今までであればただ人気者なんだな、で終わっていただろうが、昨日の会話を交わした以上、今となってはそんな感想は抱けそうになかった。しばらくぼんやり眺めていると、湊斗のスマホが鳴った。
「あ、知り合いがインスタ更新した」
「へえ、湊斗もSNSやってたんだ」
「俺は見る専だけどな。知人がモデルだから見守ってやってんのよ。いいねしろってうるさくてさ。あ、ちなみに俺は一回も投稿したことない」
「僕も詳しくないけど、それはまたすごい人と知り合いなんだね」
湊斗は画面を弄ってその人のプロフィール画面を表示させて差し出してきた。フォロワー数はなんと十万をゆうに越えている。碧はLINE以外やっていないのでこれがすごいのかどうかは正味よく分からない。が、十万人から一斉に視線を向けられていると思うと悪寒が止まらなくなるので、やっぱりすごいのだろう。
されるがまま最近の投稿を覗き込む。と同時に、え、と声が洩れた。
そこにいたのはなんと、今朝隣の教室で出会ったのとそっくりの少女。
だが写真の少女は明らかに様子が違った。
朝の少女はどう見ても中学生のような幼さだったが、画面の少女はメイクのおかげかずいぶんと大人びていて、下手すれば碧たちよりも年上の高校三年生くらいに見える。抹茶フラペチーノを片手に、北の海の流氷のようにクールで澄ました笑みを浮かべているではないか。
「いやまさか……」
そうぼやきつつもう一度よく覗き込む。と、そこで湊斗が画面をスクロールした。
フラペチーノの写真がびゅんとどっか行った代わりに、今度は海辺だのカフェだの華やかな写真が次々とながれてくる。やはりどれも今朝の面影はないものの、どこか似ているところのある少女だ。
しかし重なるかと言われれば、記憶の限りではぎりぎり一致しない。
「湊斗、この人すごく見覚えあるんだけど。もしかして隣のクラスにいるあのちっちゃい人の……お姉さんとか?」
湊斗はおお、と唸った。
「碧は会ったことあったのか。けど違うんだなそれが。この人は白綾つばめ、正真正銘の高校一年生でうちの隣のクラス」
「は……えっ? 同じ学校? じゃああの人と同一人物なの?」
あんなにちびっちゃくてもモデルになれるんだ、と妙なところでも驚いていると、湊斗の口からはそれを上回る爆弾が飛び出してきた。
「っふ、まあ確かに印象違いすぎて初見だとびびるよな。俺はこいつと小学生からの幼なじみだからもう見慣れたけどさ」
「え、聞き捨てならないんだけど。幼なじみってあの幼なじみ?」
戦慄する碧だが、当の本人は照れも臆面もなくどこ吹く風だ。
「他に何があるんだよ、別に幼なじみの一人くらいはいるだろ。碧が帰国子女だから珍しく映るだけだよ。ちなみにつばめ、そこそこ有名人なのは学校じゃ内緒らしいから黙っとけよ。……けど、俺が碧に話しちゃったら内緒じゃなくなったか」
「そんなゆるゆるで、その幼なじみにぼこすか殴られても知らないよ」
「まあいいよ。どうせお前のこともつばめに筒抜けだし……あ、やっぱ今のは聞かなかったことにして?」
「筒抜けて。もしかして僕のことなんか喋ってんの?」
「いやあ、俺の友達に外国語ぺらっぺらなやついるんだよってうっかり言ったら、すごい! どんな人なの!? って細かく聞き出されたんだよ。いやーまいったなハハ……」
「……ほう。で、一体何を話したのかな?」
「分かった、分かったからさ、フォロー解除ボタンを人質にとるのやめない?」
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