第115話 そして夏が来る(2)
約束の時間より、十分ほど前のこと。
「なんで誰も分かってやろうとしないんだろうな」
人気のない路地で、影の主——ぶっきらぼうな誰かの声が、行き場なく空気に解けた。
少年が撫でる野良猫がにゃあと鳴く。
「颯爽と現れてさ、俺を助けてくれたんだよ。まさか同じ学校とは思わなかったけど」
ごろごろと猫がコンクリートに寝転がる。
「こういう奴に一瞬でもなってみたい人生だった。見ず知らずの話したこともない奴なんか無視すればいいのにさ、何で俺のこと助けたんだろうな」
これからクラスメイトになるかも知れない相手だからだろ、と誰かが言う。
「まあ、言われてみれば確かにそうだけど。けどそいつのために自分が代わりに入学式遅刻するかよ。馬鹿じゃんって笑い飛ばせばよかったけど俺にはできなかった」
本当ばかかもな、と誰かが淡く笑う。
「そいつは同じクラスの奴だった。俺のせいで遅刻したのに、何一つ俺のせいにはしなかった。やるせなかったし、俺の方が情けねえよそんなの」
なるほどね、と誰かが得心したように呟いた。
「だから俺は今のあいつを見てると腸がむかむかと——ってさっきから何なんだこの声」
「僕だよ」
少年の肩が、まるで幽霊の声でも聞いたかのようにびくっと震えた。
猫はするりと逃げていき、彼は古びた自転車のチェーンみたくぎこちなくこっちを振り返る。後ろに立っていた碧と目があるや否や、血の気が引いて、熟す前の渋柿よりも蒼白になった。
「はあああ?!」
面白いぐらい動揺していた。
ただ指定の場所に来たら一人で喋っている夏貴がいたから、いつこっちに気づくのかなって様子を見ていただけなんだけれど。
思わず、込み上げる笑いを必死に押し殺す。
「おっおま、ちょっ……は!? いつからいたんだよ!!」
「なんで誰も分かってやろうとしないんだろうな、から」
「最初っからじゃねえか!!!」
「猫と会話するなんて可愛いところあるんだね」
「……ああもうほんと死にたい」
「そっちが呼んだんだろ?」
「正論は時に人を傷つけるって外国の学校で習ってねえのかお前……」
どうやら言い返す余力もないほど相当傷心してしまったらしい。なんだか悪いことをしてしまった。
だが彼のダメージと引き換えに、碧は欠けていた記憶を取り戻すことが出来た。
「……思い出したよ。今の話でぜんぶ」
「いっそなかったことにしてくれ頼む」
「そうか。夏貴、お前だったんだな」
「ごんぎつねみたく言うなよ……ってお前日本の義務教育じゃねえから分かんねえのか」
「缶コーヒーいる? 買ったの昼だからもうぬるいけど」
「……貰う。ブラックいけるから砂糖はいらねえ」
*
——夏貴に初めて会ったのは、去年の春。
入学式の朝であり、碧が日本に帰国して二週間しか経っていない日のことだった。
母親からの心配の電話をかるくいなして、学校への第一歩を踏み出した、その半ばである駅のロータリーでのことだった。
「あの人の服って確か……」
ふと視界に入ったのは、外国人に道を聞かれているダークグレーのブレザー姿の男。今から碧が入学式へ向かう学校の制服だ。
たじろいでいる様子からすると明らかに困っているように見える。が、碧は全く関係ない自分事に意識がいっていた。
「……やべ。制服着てこなかった」
ドイツでは長いこと私服登校だったから、専門店にオーダーしてあの男と同じ制服が届いていることをたった今思い出したのだ。
ちなみに今の服装はチノパンにシャツである。ドイツの入学式も皆こんなラフな格好だった。帰ってる時間もないし、目の前の男は困っている。まあ明日から着てくればいいか、とお得意のマイペースを発揮して近寄った。
「Can I help you?」
ばっと振り向いた男子生徒の困り果てた表情が、たちまち安堵と感動のそれになる。
外国人たちはスペイン語話者だったので、それに応じて言語を切り替えて話した。どうやら行きたい場所があるらしい。旅先で母国語の分かる男と出会えた彼らはたちまちリラックスした表情になり、世間話をするうちにすぐに打ち解けた。
日本に戻って来たての碧も、東京の地理に全く詳しくないことに今さら気づいたので、そのまま一緒に地図を見て案内することにした。多分これが一番早いだろう。
「あの、すんません。助けてもらって。大丈夫そうっすか?」
「行きなよ。入学式でしょ? 僕もたまに遊びに帰ったの以外なら日本は十年ぶりだけど、地図見ればなんとかなるから」
何で分かるんだ? と訝しげな表情になった男子だが、スマホで時計を見るとそこそこの時間になってたらしく、最後に会釈をすると踵を返して北口を出ていった。
その後のことは——もうお察しの通りだ。
「缶コーヒーいる? 買ったの昼だからもうぬるいけど」
遅刻した上にひとりだけ私服、さらにその後もいろいろとやばいコンボを重ね、悪い意味で目立ちまくった入学式から一週間後。
皆も部活を決めた頃らしく、放課後はすぐに人が捌けるようになった教室でひとり物思いに耽っていると、同じクラスの男子生徒が話しかけてきて、碧は小さく首を傾げた。
困ったのは、まだ名前と姿が一致しないことだ。
そもそも遅刻が原因で皆の自己紹介を聞きそびれたせいで、少しずつ探るしか手段がない訳だし、その上全員同じ制服だから見た目から覚えるのにも難儀する。
話しかけてきた狐目の男子高生はどこかで喋ったことがあった気もしたが思い出せず、曖昧に頷くと、彼は缶を手渡してきてこう言った。
「夏貴」
「…………金魚?」
「しりとりじゃねえよ!! 俺の名前だよ!!」
「うわ煩っ。急に怒鳴るのやめろよ」
「お前のせいだよ!!」
「で、夏貴くんは僕に話でも?」
声を荒げて突っ込んできたかと思いきや、今度はやるせなさそうに目を伏せる。
「……ずっと言いたかったんだけど。今のお前がそうなってるの、俺のせい……だよな」
「ん? 何?」
「覚えてないのかよ。先週の話だよ」
尚も心当たりがなかった。そもそも碧はこの学校に知り合いが一人もいない。
知ってる人と言えば、入試一位で新入生代表の挨拶をしてたという隣のクラスのとんでもない美人な女の子くらいだが、碧がうわさを耳にして勝手に知ってたというだけで、向こうがこちらを知っている訳じゃない。
多分、卒業まで関わらないままだろう。
「ていうか、あんた誰?」
なので直球で尋ねてみたのだが、夏貴は鋭く息を呑んだ後、きゅっとうつむいて言った。
「……覚えてないなら、いい。けどならせめて、自分の悪評をくつがえすことくらいはしろよ。周りに好きにさせてお前はいいのかよ。……よくねえだろ」
「別に僕そういうの気にしないし。というか砂糖ってない? このコーヒー苦い」
「マイペースな奴だな……あのな、お前が気にしなくても俺が気にするんだよ。気分が悪い、寝覚めが悪い。こんな気分で高校三年間も過ごすのはまっぴらだって言ってんだ」
話しかけてきた理由はおおよそ察した。要するに、はぐれものを放っておけない〈いい奴〉なのだろう。
だが、だからこそ碧は突っぱねる。長年一緒にいたいと思えるほどの〈いい奴〉と友達になることほど、後々に自分の首を絞めるものはないと知っていたから。
「三年間もじゃなくて、たかが三年でしょ。放っておくうちに勝手に終わる三年だからいいんだ」
それを拒絶と捉えたのか、夏貴が一歩退く。
「んだよそれ」
「僕にはやらなきゃいけないことがあるんだよ。だから寄り道なんかするつもりなんか、もとからなかったのに。誰かにどう思われようが構わないんだよ僕は」
日本にやってきた経緯を思い出し、つい語気を強めてしまったのをやや後悔しながら。
「とにかく僕は、何事もなく高校卒業できればいいと思ってるから。気にするなよ」
「……へえ、そういうこと言うんだな。それがお前の言う『世界平和』かよ」
挑発めいた発言につい見上げると、夏貴は蔑みとやるせなさを等分させた表情でこちらを見下ろしていた。じっと見返しつつコーヒーをくぴくぴ傾けていると、今度はそれに呆れの色が強く出る。
「お前ちょっとは怒れよ。俺今怒らせること言ったつもりなんだけど」
「逆に何であんたが怒ってるのさ。なっちゃんスマイルしろよ」
「なっちゃ……は?」
「夏貴でしょ? 名前」
狐目が、ナイフのように冷ややかな寒気を帯びた。
「……人を誑かすな」
「僕そんな遊んでるように見える?」
「そうやってすぐはぐらかすんだな。やっぱ歩み寄る気も本当のこと言う気も一切ねえんだって分かるわ」
「本当のことって何だよ」
「覚えてないやつに何言っても無駄だろ」
「どこいくんだよ。まだ話終わってないでしょ」
「俺は終わってんだよ。もういいんだ。俺はお前を認めないし、お前はくだらねえ三年間とやらをこれからのんびりと潰していく。それが結論だ」
何が気に入らなかったのか、興が削がれたように舌打ちをすると、夏貴は教室を出て行った。——彼が時折辛辣に絡んでくるようになったのは、その頃からだった。




