第113話 雨宿りとお泊まり(3)
「ごめんなさい。送らせちゃって」
母親の帰宅……もとい出勤後、二人は制服になって一緒にマンションを出た。
もちろん仲良く登下校なんて夢みたいな話が実現した訳じゃない。いくらなんでも一緒に学校に行けば否応なしに目立つし嫉妬の刃が突き刺さる。
他の生徒からの依頼で書類などが詰まった重い荷物を、一度くるみの家に置きに行くことになっただけだ。
くるみは碧を迎えにきたせいでそのままマンションに直行することになったので、これくらいは当然して然るべきだろう。
「くるみさんひとりだと重いでしょ」
「……碧くんの貴重な時間を、奪いたくはなかったのに」
「どうせ家にいてもぎりぎりまで寝てるだけだよ」
品行方正なくるみは教師陣のみならず生徒からも信頼が厚く、頼まれごとはよくある。
特にうちの学校は、自由を重んじる校風ゆえに生徒会が存在しないので、本来それらが行うべき生徒自治は委員会が担当する。もちろん予算管理なども行うので一年中多忙だ。
ゆえにテスト前は、二位以下に大差をつけてトップを独走するくるみに白羽の矢が立ち、どうしても手伝いを任されがちになるらしい。陰での努力を明るみに出さないことが裏目に出ているようだ。
が、くるみは自分の仕事はどうでもいいと言わんばかりに、別のことに突っ掛かった。
「それより、今日は私が用意したけれど、碧くんはいつもちゃんと朝ごはんは召し上がってるの? まさかトースト一枚だけで済ましているなんて言わないでしょうね」
「何、僕の朝のルーティーンいつ盗み見たの?」
「まさかの正解」
怒られるかと思いきや、くるみはちょっぴり嬉しそうにくすりと笑う。
「そしたら夏休み。もし時間があれば、私が朝ごはん用意してあげる」
「え、いいの? ていうかそれ手間じゃない?」
「お世話するのは好きだし、お母様にも頼まれたんだもの。碧くんをよろしくって」
「多分それ趣旨違いそうだけど……」
「嫌だった?」
「わかってて訊いてるでしょ。ぜひおねがいいたします」
「はい。任されました」
棚からぼたもちと言わんばかりに即了承した碧。くるみはその返答を待っていたと言わんばかりに、鈴を鳴らしたような澄んだ笑いを上げた。
当たり前だけれど、そんなくるみの制服は、いつもみたいなぴっしりアイロンがけされた跡はなくややくったりとしていた。自分の家と同じ匂いもする。
このまま学校行くんだよな、と思うと妙に照れくさいし決まりが悪い。
「……碧くん」
くるみがおもむろに名前を呼ぶ。
「もし私たちの関係が公になる日が来たら……その日はふたりでこっそりじゃなく堂々と、一緒に学校に行きましょうね」
「……そうだね」
むしろそうすべきなんだろな、と思う。
くるみは関係を公にしたがっているのに、あまり望まぬ隠し事はさせたくはなかった。
もう針の筵だの言っている場合じゃない。
さっきの母のヒヤリハットもあり、秘密はいつまでもしておくことは出来ないことはもう十分に分かっている。
なにより、全てを見透かすようなまっすぐな彼女の瞳の前では、どんな巧偽だって意味を成さないような気がするのだ。
「……僕、来週の試験で二十位以内を獲るよ」
碧からしたらそれはくるみと白昼堂々会話するための切符でも、彼女からしたら何の脈絡もない宣言のはずだが、とくに訝しむこともなく頷いてくれる。
「じゃあ、碧くんがその目標クリアしたら、私がご褒美をあげる。どう? その方がやる気出るでしょ?」
「ゴホウビ?」
よく分からずにそのまま聞き返す。
「そう。成績上位者発表に名前が載れば、私がなんでも言うことを聞いてあげ——」
危ういことを喋りかけたくるみの口を掌で塞いだ。
またこの子はすぐ爆弾を落とそうとする——。
瞳をぱちくりと瞬かせる彼女に、嘆息交じりに言う。
「……くるみさんはそういうこと言っちゃ駄目です」
「むぐ」
喋れずにいるのを見て、あっとなりすぐ離すと、くるみは悪戯っぽく言う。
「碧くんが困ったことお願いするかもしれないから?」
「しないってば!」
「うん。知ってた」
口許に手を当てがい、ふふっと楽しそうに笑うくるみ。
こちらをからかったのか、本当にしないと信じているのか。この様子じゃ多分後者だ。
碧も何だかんだ思春期男子なのだ。実際、考えたことがない訳じゃない、ていうか普通にそこそこある。ピュアかつおそらく純潔であろうくるみに対し、この子は大切に丁重に扱わないといけないと理解した上で、きっちり自制をしているだけで。
どう返そうものかと困惑する碧にくすくす上品に喉を鳴らしつつ、提案自体は嘘じゃないということを強調するように続けるくるみ。
「中間は明々後日から始まるし、今日も帰ったらきちんとお勉強しましょうね。もしつまずくところがあれば私が見てあげるから」
「んー……うん」
「なんだか不服そう。私の教えじゃ足りない?」
「不服っていうか」
並びたいと思う相手に直々に手解きしてもらえて、さらに自分だけが何でも言うことを聞いてもらえる。砂糖も裸足で逃げ出す甘やかしっぷりは僥倖と言えばそれまでだが、そういうのは何か違う気がした。
だから、自分で自分に枷を嵌める事にする。
「……やっぱり目標を上げる。僕が十位以内に入れたら、そっちの言うことを何でもひとつ聞く。それでどう」
「え? 私の?」
「何かフェアじゃないじゃん。こういうのは対等でありたいんだよ」
十位と二十位じゃハードルの高さが全く違うが、ここで彼女だけが負担になるようでは本末転倒だ。
「難しく捉えないで賭けみたいなもんだと思ってよ。その方が自分を追い込めそうだから」
「……そっか。碧くんならぜったい、大丈夫だよ」
すんなり了承したくるみは、碧が試験で転ける未来など一切考えてない風に目を細める。
「くるみさんは僕に何してほしい?」
「わ、私は。……碧くんの日常を私の日常にできれば、それでいいんだけど」
「それってどういう」
「……それ以外でいうなら、えっと」
くるみは碧の問いには答えずに、組み合わせた指で口許を隠し、ためらいがちに瞳を伏せながら、ぽつりと。
「…………名前」
「ん?」
「名前っ。くるみって呼んでほしい!」
「え。そんなんでいいの?」
「そんなんがいいの。ばか!」
あまりにこじんまりした希望だったので、拍子抜けしてしまった。
「僕いちおう気を遣って敬称にしてたんだけど、もしかしていらなかった?」
「だって遠い人っぽく聞こえるんですもん。ほたるさんのことも湊斗さんのことも呼び捨てなのに私だけ……ずるい」
負けず嫌いとはいえ男友達や従姉にはりあうのはどうなんだと思ったが、それがくるみの可愛いところで。
「分かった。そう呼べるようにがんばる。僕はくるみさんのがんばり見てるから、くるみさんは僕のことちゃんと見ててよ」
「ふふ。言われなくても碧くんの格好いいところはずーっと見てます」
光り輝く言葉をくれたくるみがやけに眩しく見えたのは、まっさらな曙光が降り注いでいるから以上に、その笑みにどこまでも深い愛情と信頼が宿っていたからだろう。
「Du schaffst das ganz sicher!(碧くんならぜったい大丈夫だよ!)」
——こりゃあ何が何でも十位以内を獲らなきゃな。
勝負の日まで、残り三日。




